ミライへ

藍崎乃那華

始まりと終わり

 

「教室に行きたくないな……」


 和はそう呟いた。

 誰に向けた言葉でもなく、独り言のように。


「私もだよ。嫌だよね」


 遥はそう返した。

 自分に向けられた言葉ではないことはわかっていた。だけれど遥も和と同じ感情を抱いていたため、素直に反応してしまった。


 二人の会話はこれが初めてだった。


 この時の二人は知らなかった。


 お互いのこと。


 そして


 未来のことを――。

 

 

 

 ♪♪♪


 ……キーンコーンカーンコーン


 ♪♪♪


 朝から頭で鳴り響く。

 普通の人なら、教室で授業を受ける合図となるもので、気になる音ではないのだろう。しかし、私にとっては苦い記憶が蘇ってくる不快な音色あり、この音を聞くと私の体は拒絶反応を示してしまう。

 昔はこの音色で苦い記憶がフラッシュバックし、倒れたこともあった。そう考えると今の私は体が少し反応するだけなので、少しは耐性が着いてきたのだろうと思う。

 いい言い方をするのであれば、時間が心の傷を癒してくれた、悪い言い方をするのであれば、この音色を苦痛と共に毎日聞かされたことにより慣れさせられた、という感じだろうか。


『苦い記憶』


 ……二度と忘れることの無い記憶。あれは、約一年前だっただろうか。あの時、学校帰りに一つ上の先輩と呼ばれる人から付きまとわれ、暴力を受け、学校の中ではクラスメートや担任からいじめを受け、家では虐待を受けていた。 どこも、いつも、私の居場所などない。私を否定する存在しかいない。


 そんな日々に終止符を打たれる日が来た。

 一つ上の先輩に暴力を受けている姿を、私の家の近くに住んでいる近所の方が目撃し、警察と学校に通報をしてくれたのだ。

 数分後に到着した警察と学校の先生方から事情聴取を受けることになり、私の体に残された数え切れない程の傷から私が受けていたいじめ、虐待、暴力の事実が発覚し、私の母親といじめをしていたクラスメート、付きまとい暴行をしていた先輩は警察に連行され、担任は他の学校へ転勤となった。また、私は児童相談所に保護されることとなった。

 一瞬にして壊された歪んだ日常。その衝撃は、まだ幼い私の心を壊すには十分過ぎた。

 周りの大人たちから見れば私は悲劇のヒロインのような存在であり、苦痛すぎる日常から解放されているように見える……だろう。しかし、歪んだ日常に慣れすぎてしまった私に、新しい世界は綺麗すぎて受け入れることが出来なかった。

 新しい世界の中でも繰り返されるフラッシュバックは、当時物理的に受けていたときの何倍もの苦痛があった。それでも大人たちは、私に向かって容赦なく現実を突きつける。

「終わったことだ」

「早く忘れろ」

「いつまで過去を引きづっているの?」

 最初はまだこの程度の言葉だった。当時の私には残酷ではあったけれど、まだギリギリ耐えられていた。

 しかし、あくまで最初は、であって。どんどん言葉という名の凶器は、傷をより痛めつけるものへ変化していった。その中でも、

「悲劇のヒロインぶって、楽しい?笑」

 という言葉は今でも忘れられない。

 この言葉を言われた時、その時の私の心を深く抉られたような感覚に陥った。

 もちろんだけど、自分は悲劇のヒロインを演じていたつもりなどなかった。ただ、歪んだ日常を壊されたあの日がフラッシュバックして、その度心を抉られているようで。呼吸が苦しくなっていって、目の前が暗くなって。歩けなくて。立てなくて。それが怖くて仕方なくて。それでも頑張ろうとしていた、いや、頑張っていたつもりだった。しかしそれは周りにとって、悲劇のヒロインぶっている様にしか見えていなかった。私の頑張りは誰にも認められなかった。認められるどころか、不快であると告げられた。その現実は、私の心を支えていた何かを壊した。


『その瞬間、私は屋上まで走った』


 そこからの記憶は、私もない。気がついた時には、ベットの上にいた。私の体は包帯に包まれていて、隣では電子音が一定のリズムで音を鳴らしていた。

 本来ならば、目を覚まして数秒が経てば激痛を感じるような状態であることはなんとなく察しがついたものの、そこまでの痛みは感じなかった。それ以上に、なぜ自分が今このような状態になったのか、上手く理解することが出来なかった。

 なぜこのような状態になったのか、ベットの上にいる前の記憶を必死に探していると、看護師さんが私の意識が回復した事に気づいたらしく、急いで私の主治医だと思われる人を呼びに行っていた。

 主治医だと思われる人から受けた説明によると、私は屋上まで走った勢いのまま飛び降り、重力に逆らうことなく地面に到達したらしい。地面に到達した時の衝撃音で周りが気づき、救急搬送。地面に到達した時全身を強打し、頭部からの出血もあったため緊急手術が行われた。手術は成功したものの数日間私は目を覚まさず、生死をさまよっている状態だったらしいが、飛び降りてからやく一週間が経った今日私の意識が戻り今に至る……とのことだった。

 私はその説明を受けたとき、絶望した。またあの地獄のような日常が再開してしまう、そう考えるだけで苦痛だった。

 なぜ全身を強打しても、頭部から出血しても、私は生きているのだろうか。こんな苦しむぐらいなら、いっそ死ねたら嬉しいのに……不謹慎だと言われればそれまでだが、私は強くそう思っていた。


 意識が回復してから一ヶ月ぐらい経っただろうか。どんなに拒んでもリハビリをさせられ、治療をさせられ。そのせいで順調に回復しているらしく、自力で車椅子を動かし移動出来るようになった。

 もちろん一人で車椅子を動かすと私はすぐ勝手に行動をしようとするため、看護師が付き添える時では無いと車椅子に乗せさせてもらえないのだけれど。それでも、もう少し回復したら自分でまた屋上へ行くことが出来るのか、なんて妄想していた。

 しかしその妄想が叶う前に、院内学級へ通うことが決まった。

 院内学級とは言っても、チャイムがあり、授業があり、カリキュラムもあり、普通の学校と同じシステムが存在する。私にとっては苦痛以外の何者でもなかった。

 しかし、通常学級と違う点は周りの人と話すことを強要されないこと。そこだけが私にとっては唯一の救いだった。ただ院内学級用の部屋に行って、自分の席に座って、何時間か過ごせば終わる。本来ならちゃんとした授業みたいなので、ノートとったりとか先生の話をしっかり聞いたりとかすることがベストなのだろうけど。私はそれをしようと思えなかった。


 今日も今日とて院内学級。車椅子に乗って、院内学級用の部屋に向かう。廊下には授業開始五分前を告げるチャイムが微かに部屋から聞こえ、私の頭の中に鳴り響く。


 そんな時に私はふっと呟いた。


「教室に行きたくないな……」


 ♪♪♪


 ……今日もかぁ。教室から微かに聞こえるチャイム。別に授業とか、院内学級がめっちゃ嫌、……な訳では無いのだけれど。なぜ院内学級に行って授業を受けなければならないのだろうと、毎日疑問に思う。

 普通ならば、大人になるためとか、夢を叶えるためとか、いろいろ理由はあるだろう。でも私は大人になることは出来ないし、夢を持ったところでそれを叶えることが出来る確証はない。

 なぜなら私は難病で、五年後生存確率が一%以下と医師から告げられているからだ。


『難病』


 私は生まれたその瞬間から生死をさまよっていた。体重は標準体重の半分未満しかなく、すぐにNICUに送られた。

 その時受けた検査で、心臓に難病が見つかった。

 その難病は、難病という名に相応しく、完全に治る方法はなく、延命治療は一応存在はするがそれも限界があり、大人まで生きることは難しいと告げられていた。

 それでも私の両親と姉は私が難病を克服し、大人まで生きることを信じてくれていた。苦痛を伴う治療で心が折れそうな私を、いつも激励してくれた。本当は両親も姉も、私以上に辛かったはずなのに……。


 懸命な治療の甲斐あって、私の病状は少し改善傾向になり、三日間の外泊が許可された。私にとって、生まれて初めて触れ合う病院外の世界。とてもワクワクしていたし、どんな世界が広がっているのか色々な妄想もしていた。両親や姉も、私の外泊許可を喜んでくれていて、当日も三人揃って迎えに来てくれる予定だった。あの時までは。

 外泊初日、私は迎えに来てくれる両親と姉を病院の正面玄関で看護師とともに待っていた。

 けれど、予定時刻になっても両親と姉は来なかった。それでも、もう少し待てば来てくれるだろう、そう私は思っていた。そんな私の思いとは裏腹に、両親と姉は一時間たっても病院に姿を現すことは無かった。

 ショックを受けつつも病室に一度戻ろうとしたとき、看護師に一本の電話が入り看護師の顔色が変わった。その直後、看護師は私に向けこう告げた。

「遥さんのご両親とお姉さんは、この病院に来る途中事故に遭われたそうなの。それで、とても言い難いのだけど……先程救急車で病院に運ばれ、三人とも亡くなられたそうなの……」

 看護師は涙を流していた。


『亡くなった』


 その言葉だけが私の頭の中で響いた。

 信じたくなかった。もうあの優しい両親と姉には、会えない。そんな現実、受け止められるわけがなかった。


 その日から絶望だった。

 もし私が一時退院を望まなければ、

 もし私が病気じゃなければ、

 もし私が生まれてきてなければ、

 両親と姉はもっと生きられたし、苦しい思いをせずに済んだのに。そんなことを考えてもキリはないし、無駄なことだというのはわかっていた。けれど、どうしても考えてしまう。

 そんなことばかり考えていた時、私に面会希望者が来たらしい。名前は聞いたことがない人だったけれど、私の存在を知っているのは親戚と家族ぐらいしかいないのと母親の旧姓と同じ名字だったので、きっと叔母か祖母のどちらかだろうな、なんて思っていた。

 案の定、面会希望者は叔母だった。何をしに来たのだろう、そんな心配はドアが開いて一秒後には消えた。叔母は私を見るなり、罵詈雑言を浴びせたからだ。

「お前のせいで家族が破壊されたんだ」

「お前がいなければ、あの三人は生きていたのに」

「疫病神がなんで生きているのよ」

 衝撃だった。そんなことを言われるなんて、想像していなかったから。ずっと私自身が思っていた言葉を、初めて会った叔母に全て言われた気がした。私自身ずっと思っていたことだったはずなのに、その言葉を聞き終わる頃には涙が溢れていた。

 叔母の声が廊下にも漏れていたのだろうか、看護師さんが私の病室まで来て、叔母に私の病室から出ていくよう指示した。叔母はその指示に素直に従い、そのまま私の病室に戻ってくることは無かった。

 叔母が私の病室から出ていった後、私は過去を悔やんだ。

 なぜ自分は一時退院を望んだのか。

 なぜ私は病気なのか。

 なぜ私は生きているのか。

 叔母の言葉で、大好きな家族が亡くなった原因は私だということを改めて感じさせられた。


 どれだけ私が過去を悔やんだとしても、時間は勝手に過ぎていく。今まで通りの日常が訪れ、それを淡々とこなさなければならなかった。なんでやらなきゃいけないのだろう、などと考えたこともあったけれど、今の自分に自由な行動は許可されていない。生きることを放棄しようとしても、それを放棄する術はなく、今まで通りの日常を送る以外の選択肢は用意されていなかった。


 今日の予定の中に院内学級がある。行く意味も、そこで学ばなきゃいけない理由もわからない。だけれど、ただ与えられた日常をこなすためだけに行く。廊下には授業開始五分前を告げるチャイムが微かに響いている。そのチャイムの中、ある声が聞こえた。

「教室に行きたくないな……」

私は、その子の元へ駆け寄った。

全く知らない子なのに。

話したことなんてないのに。

看護師もその様子を見て、唖然としていた。そして私は、気づいたらその子に声をかけていた。

「私もだよ。嫌だよね」

 なぜ声をかけたか、自分でもよくわからない。だけれど、微かに聞こえた彼女の声は、私を写す鏡のようだった。似ている、と言ったら失礼かもしれない。だけれど、どこか似ている気がした。


 ♪♪♪


 あの日から遥と話すようになり、院内学級が少しずつだけど楽しいと感じ始めていた。

 だけれど、遥は私を知らない。笑顔で偽っている自分しか遥に見せられたことは無い。遥と話している時は楽しいけれど、無意識のうちに明るく振舞ってしまう。本当なら、本音で――なんて、それは妄想に過ぎなかった。


 土日を除いてほぼ毎日ある院内学級。そこで遥と話せる時間は、唯一楽しい時間だった。

 遥と話を重ねれば重ねるほど、遥との共通点の多さを感じた。特に家族に関しては、理由は全く違うものの、苦い思い出があるという共通点がある事に驚いた。ただ遥の場合私と違い、家族からとても愛されていたけれど。その分会えなくなった時は私の何倍も悲しかったんだろうな……。 きっと今もその悲しみが心のどこかにあるのだと思う。その中でも必死に生きようとしている遥は、本当にすごいと感じさせられる。一方で私は……共通点が多いはずなのに、遥のように頑張ることはほとんど出来ていないし、苦痛から逃れようと死を選ぼうとしていた。私も遥のように頑張りたい……。


 ♪♪♪


 あの時私が話しかけた女の子は、和という名前である、ということは後から知った。

 あの日から少しずつだったけれど和と話せたことがとても嬉しかったし、私が院内学級に行く意味になった。和に会えるから、和と話せるから、院内学級に行く、みたいな。今まではずっとこなすだけの作業だった院内学級が、少し楽しく思えた。


 今日も院内学級に行ってきた。和と話すためだけに行ってきたと言っても過言ではないけれど、ちゃんと今日はちゃんと勉強もした。いつも院内学級はこなし作業でしかなく、私が勉強を真面目にやることなどほとんどなかったため、作業員の方がとても驚いた表情をしていたのは今でも覚えている。

 本当ならもっと和と話したかった。けれど今日は診察がこの後入ってるらしく、看護師さんに病室に戻るようさっき声をかけられた。診察と言いつつ、やることはいつも検査ばかりで、正直苦痛しかない。けれど私は今難病を患っているから、仕方がないことなのだけれど。

「矢間さん、入りますねー」

「はい」

「体調は悪化してないですか?」

「してない、と思います」

 あえて私はしてないを強調した。もし悪化していたら、和と話す時間を取り上げられる気がして。

「じゃあ、いつもと同じように検査していきますね」

 私の想像通りだった。いつもと同じようにいくつかの検査を言われるがままにされていく。最近数値がいきなり悪化する、ということはないのでそこまで私自身心配していないのだけれど。

「矢間さん、数値が上がっています……。今の数値ならまだギリギリセーフですが、来週もしこの数値を超えることがあれば、大幅に治療方針を変えます。その治療は今までより苦痛を伴うものになると思います。残酷なことを言うようで申し訳ないですが、そのつもりでいてください」

 私の予想に反して、私の病状は悪化していたことを知らされた。

 なぜ今、病状が悪化してしまうのだろうか?せっかく楽しいと思えることと出会えたばかりなのに……。またそれを奪われてしまうのだろうか?

「先生っ、」

「なんですか?」

「私は、院内学級に通い続けることは、出来ますか?」

「今の数値ならギリギリ通うことが出来ますが、先程も言った通り来週もしこの数値を超えることがあれば、通う頻度を落として頂くか、通うこと自体を控えて頂くことになると思います」

 ショックだった。病状が悪化していたこと以上に、院内学級に通えなくなる可能性があること……。やっと楽しいと思えたことが、出来なくなってしまう。それが何よりもショックだった。

「なんで私の楽しいことを、奪っていくのっ……」

 泣きながら発した声は、私しかいない病室に虚しく響いた。


 ♪♪♪


 今日も院内学級が終わってしまった。今まで憂鬱でしかなかった院内学級が、唯一の楽しみになるなんて夢にも思っていなかった。

「弓月さん、面会希望者がいらっしゃったのですが、お会いしますか?」

 院内学級の余韻に浸っていると、看護師さんが来た。面会希望者……?私に面会希望をする人がいる、とは思えなかった。

「名前はなんて言う人ですか?」

「石田さん、という方だったと思います」

 石田、という名前を聞いて、私は唖然としてしまった。石田璃音、それは過去に私に付きまとい暴力を加えた、一つ上の先輩だからだ。なぜ私との面会を希望しているのか、そもそもなぜ私がこの病院にいることを知っているのだろうか?

「断ってくださいっ……。絶対会いたくない、です」

「わ、わかりました」

 自分自身で驚くほど大きい声を出してしまった。その声に、看護師さんもかなり驚いていた。

 なぜ、今会おうとしているのか。

 なぜ、私の居場所を知っているのか。

 理由が何一つわからず、ただただ恐怖だった。

「の、どか?」

 そう声の主は、遥だった。

「遥?!なんでここに?」

「なんとなく病院内を散歩してたの。そしたら、和の声が聞こえたから思わず来ちゃった。何があったのか聞いても大丈夫……?」

 今一番会いたくなかった、かもしれない。遥はまだ、笑顔で偽っている私しか知らないから。もし遥が私の過去を知ったら、きっと遥は私を見る目を変えてしまう。それがとても不安だった。

 けれど私は、泣きながら過去のことを全て話した。遥なら受け入れてくれるような気がして。

 全てを話終わる頃には、遥も泣いていた。

「ごめんね、何も知らなくて……」

「なんで、遥が謝るの?遥は、何も悪くないのに……。私こそごめん。こんな話、聞きたくないよね……」

「和の過去を知れて、私は嬉しかったよ。それと同時に、何も知らず今まで話してたことが、すごく申し訳なく感じた。ごめんね。でもありがとう、話してくれて」

 その遥の言葉に、更に私は大号泣してしまった。もっと早く遥に出会えていたら、自殺を試みることなんて無かったのだろうか?そんな風に思いながら――。


 ♪♪♪


 私は病院内の散歩を終え、自分の病室に帰ってきた。

 院内学級に通えなくなるかもしれない、そんなこと信じたくなくて。現実逃避のために病院内を散歩していたら、和の声が廊下まで聞こえてきて。思わず声の元まで行くと、和が泣いてて……。いろいろ脳内の理解が追いつかないことばかりだ。けれど今日初めて和の過去についての話を聞くことが出来た気がする。

 和の過去は……私の想像を遥かに超える壮絶さだった。それなのに和はいつも、過去を一切感じさせない笑顔で人と接していたと考えると、本当に努力していたのだろう。それなのに、その努力を何も知らない周りから否定された。そのときの悔しさは、私の想像を遥かに超えるだろう。そんな辛い過去を私に話してくれたのにも、とても勇気が必要だったと思う。そう考えると、和には感謝しかない。

 けれど私は過去を打ち明けてくれた和に対しても、私の病気のことは深く話せていない。もし病気のことを話せば、自分が病気であることを認めてしまう気がして。本当なら話すべきだと思うし、私がもし和と同じ立場なら話して欲しいと思う。けれど、どうしても私は話せずにいた。

 来週もし数値が上がってたら、院内学級に行けなくなってしまったら、という悲しさと不安が一気に押し寄せてきた。どうか、数値が上がっていませんように……。私はそう強く願った。


 ♪♪♪


 遥に過去のことを話せてから約一週間が経っただろうか。あれから、今までより仲が深まった気がする。私の過去を聞いても拒絶せず、今も仲良くしてくれる遥には感謝しかない。

 今日は月曜日。二日ぶりに遥に会える、とワクワクしていた。けれど今日は院内学級に遥の姿はなかった。遥が院内学級を休むことは、仲良くなる前から今まで一度もなかったと思う。それなのに、なんでだろう……。

「あ、あの、看護師さん。今日、遥はなんでここに来てないんですか?」

 たまたま近くにいた看護師さんに聞いた。初めて話す看護師さんだったので、言葉が少したどたどしくなってしまった。

「遥、あぁ矢間さんのこと?矢間さんはしばらく院内学級来れないんじゃないかな……」

「なんでですか、?」

「あの子ね、病状が悪化してね……。もしこのまま病状の悪化が続くようなら、治療方針を大きく変えるとお医者さんから先週言われていたのよ。あの子自身は院内学級に行きたがってたみたいだけどね……」

 衝撃だった。先週まで、病状が悪化してる様子はみられなかったのに。

「遥の病室ってどこですか?」

「確か……A棟の305号室だったと思うよ」

 私は看護師さんに頼み車椅子を動かしてもらい、遥の病室へと向かった。

 信じられなかった。遥の病状が、院内学級に行けないほど悪化していたなんて。

「遥っ」

「和……ごめん。今日院内学級、行けなくて」

「なんで言ってくれなかったの……?院内学級に行けなくなるほど病状が悪化してたこと」

「自分自身、病状が悪化してる自覚なんてなかったんだ。でも、上がっちゃいけない数値が上がり続けてるみたいで。先週言われてたんだ、このままいくと院内学級に行けなくなるって。そんなこと、信じられなかった。信じたくなかった。だから、和に言えなかった。ごめんね……」

 なんて言ったらいいかわからなくなってしまった。言葉にすると自分の病状が悪化したことを認めることになる、だから言葉にしたくなかった、と言う遥の気持ちが、今の私には痛いほど理解出来てしまったから。

 初めて見た、遥が病魔に蝕まれている姿。その姿はとても弱々しく感じた。


 ♪♪♪


「数値が先週より上がっていますね……。ですので、先週話した通り、治療方針を変えようと思います。今までより苦痛を伴うものになりますが、一緒に頑張りましょう」

 急遽日曜日なのに入った診察で、そう医者から告げられた。私自身体調が悪い、というふうに感じることかはなかった。けれど、本来低下するべき数値が上昇し続け、病状は悪化し続けた。そんな現実、信じたくなかった。もっと生きていたい、もっと和と話したい……そう願っていた。

 

 翌日、今は本当なら院内学級に行っている時間、けれど私はそこに行くことが出来ない。その現実がとても悔しかった。

 和はこれを知ったらどう思うだろうか?まだ和に私の病気のことは詳しく話していないし、先週の診察で、院内学級に行けなくなる可能性を告げられたことも話していない。今日行かないことで、和に気づかれることは明白だった。私の口からではなく、看護師さんの口から聞くことになるであろう、私の病気。そう思うと、とても申し訳なく思ったのと同時に伝えておければよかったと後悔した。

「遥っ」

 ドアが勢いよくあいたと思うと、目の前には和がいた。きっと、私のことを看護師さんから聞いたのだろう。和を目の前にしたら、余計に申し訳なさが込み上げてきた。

「和……ごめん。今日院内学級、行けなくて」

 違う。本当は、院内学級に行けなかったこと以上に、自分の病気について今まで話せなかったことについて謝りたいのに。なんで私は、全く違うことを謝っているのだろう……。

 その後、ちゃんと病状が悪化してたこと、先週にはそれを告げられていたことなどを和に伝えることが出来た。本当はもっと早く伝えるべきだったのだけれど。私の話を聴き終わった和は、ただ呆然としていた。その様子を見て私は今までで一番申し訳ないと思った。

 自分のせいで、また一人傷つけてしまった……やはり叔母の言う通り私は疫病神なのだろう。ごめんなさい、と謝りたくなった。謝っても、何も変わらないのだけれど。


 ♪♪♪


「弓月さん、入りますね」

 遥の病室を去った後、私は診察の予定が入っていたことを思い出した。

「はい。どうぞ、」

「今日は普段の診察の後に、血液検査を行います。血液検査は私ではなく、看護師が行いますので、看護師の指示に従ってください」

 私の主治医の先生はそう私に告げた。私の主治医の先生はいつもロボットのように喋るが、今日はいつもよりロボットが喋っているように聞こえた。抑揚もなく、淡々と告げる姿はロボットそのものだった。

「じゃあ、いつもの様に診察していきます。前回の診察から、変わったところなどはありますか?」

 いつもの診察が始まった。診察、と言ってもただ前回と比べて良くなっているかの確認だけ。リハビリを行っているので悪化していることはないけれど、全治には何ヶ月かかかるので急激に回復して退院する、なんてこともない。それでも少しづつは回復している、と思う。前までは回復することが嫌で嫌でしょうがなかったけれど、遥出会ってから、回復することに喜びを感じるようになった。私の今の目標は、車椅子なしで自由に動けるようになること。それまで、あと何日ぐらいかかるだろうか……。

「あの、」

「なんですか?」

「車椅子なしで動けるようになるのって、あと何日ぐらいですか?」

「現在の回復状態から推測すると、あと一ヶ月程でしょうね。ですが、車椅子なしで動けるようになったとしても退院は出来ませんよ」

 私は、車椅子なしで動けるようになったら退院できると思っていた。車椅子で動けるようになれば、私の体に異常はないはずだ。なのに、なんで。

「なんでですか?」

「私が言うまでもなく、あなた自身気づいているでしょう。だから今日、勝手ながら血液検査の予定を入れたんです」

 私はその言葉を聞いて、唖然とした。


 ♪♪♪


「今日は、負荷をかける治療を行っていきますね。大変ですが、頑張りましょう」

 治療方針が大きく変わり、今までの何倍もの苦しさがあった。特に負荷治療はその名前の通り負荷をかけるため、死んでしまうのではないか、と思うほど辛い。本当なら、こんな治療したくない。治療を何回しても、回復している実感は一切ない。むしろ、日に日に苦しくなっていく気がする。

 治療をする理由が、わからなくなっていった。どれだけ頑張っても、楽しいことも嬉しいこともなにも無い。和と話すことは時々出来るけれど、院内学級に通えていたあの頃よりは出来ない。それなのに……。

「治療して、よくなりますか?」

「あなたの努力次第としか、言いようがないかなぁ……」

 治療の度毎回看護師さんにこの質問をしている気がする。それで、毎回この回答をいろんな看護師さんから聞いてる気がする。いっそのこと、「よくならないよ」と言ってくれたら楽なのになぁ、なんて思いながら。本当はこんなことを思ってはいけないのだろうけど、日に日に苦しくなる治療が私にとって苦痛でしか無かった。それならいっそのこと、治療をやめて大好きな家族の元に、なんて。そんな想像、一番してはいけないことだと、わかっているのに。


 ♪♪♪


 今日も院内学級が終わった。金曜日の院内学級後の数分だけ、遥と会うことを許可された。それ以外の曜日は、遥の治療などがあるため、週一で会うのが限界だと看護師さんに言われた。

「遥っ」

「和!会えて嬉しい……」

 声はいつも通りの遥だった。けれど、遥の目はまるで死んだ魚のようだった。治療が辛くなっている、ということは容易に想像ができるほど。

「和。いきなりでごめんね。私、治療を受けてる意味を感じられないの。日に日に辛くなっていくのにもう、耐えられない。ねぇ、あのさ、治療をやめて、死んじゃダメかな……?」

 その遥の言葉に、私は衝撃を受けた。遥は今までネガティブな言葉を発することは、一度もなかった。なのに、死にたいという言葉が出てくるほど遥は追い詰められている……そう知って私の中である覚悟が生まれた。


「もし遥が死ぬなら、私も一緒に死ぬよ」


 その言葉に、遥は驚いていた。

「和が死ぬのは、ダメだよ……、私と違って治る見込みもあるんだよね?」

「先週までは、治る見込みがあったの。けどね、先週の血液検査の結果、私はもう長くない、って告げられてさ。私白血病、なんだって」


 なぜ先週急遽血液検査をすることになったのかというと、主治医の先生が私に白血病の初期症状がみられたことを知ったかららしい。私自身も、最近異常な倦怠感を感じたり、いきなり発熱したり、ということがあったので、薄々自分の体が異常だということは気づいていた。けれど、自分自身が何かの病気になった、ということは信じたくなくて、ずっと見て見ぬふりをしていた。けれど、それが限界を迎えていたことに主治医の先生が気づき、血液検査をすることになった。その結果は、白血病が疑われるもので、後日行った骨髄検査で正式に急性白血病と診断された。

 近年で急性白血病は治る病気になりつつあるが、私の場合以前自殺を試みた時の手術などのせいで体がかなり弱っており、化学療法による合併症を引き起こし死に至る可能性がかなり高いため、化学療法を行うことが出来なかった。そのため、本来なら急性白血病は長期生存率が六十%を超えるのだが、私の場合は五年後生存率ですらほぼ0に等しいらしい。それを聞いた時、私は複雑だった。ずっと望んでいたことなはずなのに、正直素直に喜ぶことは出来なかった。遥と出会えて、やっと楽しいと思えることができて、生きる希望を見つけたばかりだったから。

 けれど、今決意できた気がした。遥と、一緒に。

「本当なら、止めてあげるべきだと思う。一緒に頑張ろう、とか、言うべきだと思う。けれど、そんなこと今の私には言えないんだ……」

 私も遥も、いつの間にか涙が溢れていた。

「矢間さん、入りますねー。あ、お友達が来てて……え、なんで二人とも泣いているの?」

「「あははっ」」

 泣いていることに気づきあたふたする看護師さんの様子に、私も遥も笑ってしまった。

「泣いているところ悪いのだけれど、矢間さん、今日もう一個治療があるから、今からそれをやろうか」

「ごめんね、和。治療あるらしいから、また、来週だね」

「わかった!また、来週」

 来週、と告げる遥の目には、確固たる決意が見えた気がした。


 ♪♪♪


 やっと、治療が終わった。治療は日に日に苦しくなっていき、もはやいじめなのではないか、とすら思う。

 治療前の和との会話は、今でも私の脳内にはっきり残っている。最初は和の予想外の返答に驚いたけれど、なぜか嬉しいとも感じてしまった。私の今の状況と、限りなく似ている気がして。そんな和の言葉を受けて、私は決意した。この答えが間違っていることはわかっている。周りに言っても、納得はしてもらえないだろう。けれど、絶対成し遂げるんだ――。

 

 ♪♪♪

 

「屋上……結構広いね。車椅子も余裕で通れるようになってるし」

「そもそも、エレベーターで屋上まで来れることに驚いたよ。けれど、来ることが出来てよかった。」

「看護師さんの目を欺くの、大変だったけどね。それじゃあ、行こっか」

「うん!」


「「未来でも、また会おうね!」」

 

 私たちは屋上にその言葉だけを残した。

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