第36話 決まらない覚悟
雫は、当たり前だけれども紬を
それに対してせり上がるように出た感情は、苛立ちだった。
苛立ちと怒り、失望、絶望、悲しみと代わる代わるに紬の胸の内で噴き出すそれに混じり、小さく生まれる『安堵』。
(忘れている)
雫の中にあった雫の思い出が、なにもないのだろう。
それこそ、彼女の両親から伝え聞いたのと同じように。
当たり前のことなのだけれど、その事実は紬にとってひどく、ひどく、苦しいものだ。
思わず胸元を掴んだ紬のその苦しそうな顔に、目の前の雫が慌てた様子を見せた。
「えっ、あの! 大丈夫ですか!?」
「あっ、ああ……」
それがどうしてなのか、なんて言えるはずもない。
知っているはずの花梨も、何も言わない。
紬は花梨の方を睨むように見たが、彼女は真顔で彼を見ただけで、すぐにいつものような人好きをする笑顔を浮かべて見せた。
「ごめんねー急にきちゃったからきっと紬もびっくりしちゃったんだよー!」
「えっ、びっくり……?」
「そ、雫が好みドンピシャすぎて心臓ヤバかったんじゃないのー?」
適当すぎるその言葉に、思わず紬が脱力する。
だがそのくらい適当な方が、雫も気を使わなくて済むのだと彼は思い当たった。
実際、雫は花梨の言葉に彼と彼女を何度も見比べて、頬を赤くしながら花梨の方に向かって大袈裟なほどのため息をついたのだ。
その様子を見ているとどこか寂寥感を覚えるけれど、自分の不自然さには気が付かれなかったことに紬はほっとする。
(……ほっとする辺りが、俺ァだめな男だな)
そうだ、安心した。
彼女が覚えていなくて、辛いというのに安心した。
自分が想いに応えられなかったそのことを、彼女が忘れてくれているという事実に安堵を覚えたのだ。
忘れてなんか欲しくない、けれど忘れてほしいと願う程度に浅ましい。
「雫が大学に進学するかどうか決めたいって言うんでいくつか今回ってる最中なのよ」
「……そうかよ」
「だからちょうど紬もいるし、雫が行きたい学部もあるからココに見学に来たの!」
「授業はちっと無理があるだろうけど、学内は見て回れるぜ」
「あ、あのっ、……ありがとう」
「おう」
初めての人間に対する距離。
それを、彼女にやられるこの違和感。
紬はそれを表に出したくなくて雫からすぐに顔を背けた。
そんな彼のことを、雫が何とも言えない表情で見つめていることを知るのは花梨だけだが、彼女は何も言わなかった。
学内の案内はそう多くない。
基本的にどこに何があって、図書室がどうだ、購買がどうだとそんな一般的なものだ。
これが高校生向けに開かれている状況であれば学部説明などもあるが何もない日だけに、ただそこらを行き交う学生がいるだけで穏やかなものだった。
その分彼女が求めているような説明には及んでいないだろうと紬は思うのだが、特にそれについて彼女たちが文句を言ってくることはない。
(……くそ、花梨のやつ後で覚えてろ)
なんの覚悟もないままだった分、いまだに動揺は収まらない。
何かを言いたいような、言ってはいけないような、そんな漠然としたものが自分の中をぐるぐるとするのは紬にとって気持ちが悪くてたまらなかった。
時折ちらちらと雫を見てしまうのは、別に深い意味はないはずだ。
彼女が元気であることが、あの日まるで幻のように消えてしまった姿が、今目の前にあることがどうしても追いつかないだけで。
(元気そう、だよな。ってことはもう、身体は良くなったってことなのか?)
結局彼女がなんの病であったのか、紬は知らないままだ。
覚えていない雫だって、問われてもきっと両親から聞いているか、或いは知らなくて良いと言われているのかもしれない。
だが彼女を苦しめていた病魔が去っても、思い出はすべて真っ新に塗り替えられてしまっている以上払った代償は大きいとしか言いようがないのだろう。
「あっ、ごめん電話だ。ちょっとここで待ってて?」
けたたましいというほどではないが、少なくとも周囲の人間が振り返る程度の音量で鳴ったスマホの画面を見て花梨が二人に声をかけた。
その返事を聞く前にさっさと彼らから離れて、人の少ないところで通話を始めた花梨に紬たちは苦笑する。
相手が誰だかは知らないが、とりあえずすぐに出なければと思う程度には大事な相手なのだろう。もしかすれば紡かもしれない。
「……疲れたか? あそこに自販機あるから、なんかオゴる」
「えっ、いいよそんなの……急に来て、迷惑かけちゃったんだし」
「そりゃ花梨だからアイツの分は買わないってことでいいんだよ」
まあ後でこの話を聞いた花梨が「ずるい」と紬に対して文句を連ねる未来が見えなくもなかったが、そこは紬も花梨に対して言いたいことが大量にあるのだから、どっこいどっこいというところだろう。
寧ろ自分の方が花梨からジュースの一本や二本、奢られたって良いはずだと紬は思う。
不意打ちすぎる行動は、或る意味裏切り行為と同等だ。
ましてや、まだ雫に会う覚悟はできていないと前から話してあったのだから。
「ねえ、えっと……周防くん」
「……おう」
まるで、初めての時のように。
いいや、雫にしてみれば初めて会った相手なのだから当然なのだろう。
そう理性では理解していても、感情は追いつかない。
ジュースを選ぶふりをして、憮然となる表情を紬は彼女から隠した。
「周防くんは、花梨ちゃんの、……友達、なんだよね?」
「ああ。アイツの彼氏が俺の双子の兄弟」
「そうなんだ!」
彼氏がいることは耳にしていたし、写真も見たことはあるらしい。
それで紬の顔を見て、似ているなとは思っていたらしいが雰囲気も違うし、だが花梨とも仲が良さそうだしと不思議だったのだと雫が笑う。
その笑顔に寂しさを覚えつつも、出てきた缶を手渡して紬も自分の飲み物を選ぶ。
ガコン、と落ちてくる音に再び手を伸ばしたところで、彼女がじっとこちらを見ていることに気が付いて、紬は目を瞬かせた、
「……なんだよ?」
どきりとするのは、以前の彼女を重ねてのことだと。
そう気が付いて、紬は己の心を押し殺す。
「周防くんの双子の兄弟が、花梨ちゃんの恋人なら、……周防くんは、同い年なんだよね」
「……?」
「周防くんは、私について何も聞かないよね。花梨ちゃんの友達だって、まるで知っていたみたい」
「……あ?」
雫の声に、思わず低い声が漏れる。
それは、予想していなかったことに対する驚きが隠しきれずに漏れた声だった。
「ねえ」
雫が眉根をきゅっと寄せて、躊躇いながらも紬を見る。
紬だけを、まっすぐに。
「私は、周防くんを、知っているの……?」
雫の問いかけは、掠れたように小さな声だった。
それでも確かに紬に届く。
息をするのを忘れるかと思った。
そのくらい、その問いは彼にとって強い力を持っていた。
即座に答えは口から出ない。
知っていると答えても、知らないと答えても、いずれにせよ彼女を傷つける気がしたからだ。
「おまったせー! あれっ? 二人してジュース飲んでてずるくない!?」
「あっ、花梨ちゃん。う、ううん、ほら、暑かったから。ね? 周防くん!」
「あ、ああ……」
紬は花梨の登場に、内心ほっと胸を撫で下ろす。
もし彼女が来なかったならば、なんと答えを口にしていたのか。或いは沈黙が堪えになったのかもしれないと思うとぞっとする。
だから、まだ覚悟も決まっていないというのだと自分でも思いつつ紬は細く、長く息を吐き出したのだった。
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