第20話 ぼんやりと

 その後、紬は教室に向かおうとして――止めた。


 まだ登校してくる生徒はまばらであり、今行ったところで同じクラスである雫の姿が目に入ればまた妙な気分に陥りそうだったからだ。

 彼女と、そして彼女に会いに来る花梨の姿でも目にすれば平静でいられる気がしない。


 だからといってどこか行く当てがあるわけでもなく、下駄箱の前でどうすることもできずに立ちすくむ紬の姿は事情を知らない人間からすれば奇妙に映ったのだろう。

 具合が悪いのか、或いは忘れ物でもして取りに戻るか悩んでいるのか、そんな風に行き交う生徒から視線を向けられれば紬としてもより居心地が悪くて、諦めて上履きを取り出して履いた。


(ちくしょう)


 一体全体、何に対して悪態をついているのか自分でも正直理解できていない。

 だがなんとはなしに悪態でもつかなければやっていられない気分だったのだ。それでもそれを口に出してしまわないところが、まだ冷静だったと言えた。


 とはいえ、当てもなしに校舎内をうろちょろしたところで疲れるだけだったしかといってどこかの空き教室に入るのも気が引ける。

 そうなれば、結局のところ自分の教室で大人しく席についてぼんやりしているのが一番問題ないように思えた。


(……寝てりゃ、いいだろ)


 どうせ放課後が気になって勉強に身が入る気がしない。

 勿論受験生という立場上、それではいけないと紬も理解しているし、自分がまだ自信を持って進路先に選んだ専門学校に合格できるレベルだとは言い切れないのだからもっと勉強するべきだ。


 塾に通い詰めるほど金銭面で親に負担をかけたくないとも思うし、このままいけば問題ないだろうというレベルではあると教師も太鼓判を押してくれた。

 それでも、不安は消える事はない。


 そして、その不安が他の物も巻き込んで不安を大きくしているのか。

 それとももっと別の不安が、進路のことも含めて不安を大きくしたのか。


(……こういうのってなんだっけな。卵が先か、鶏が先かってやつか……)


 そんな小難しいことを考えたって結論なんか出やしないと苦笑を零して、教室のドアをくぐる。

 雫の姿は、なかった。


 そのことにほっとしつつ、彼女の姿をいの一番に探してしまった自分に呆れかえる。

 紬は自分の席に着くと鞄を机の上に置いて、そこに突っ伏すようにしてからそっと息を吐き出した。

 ごつごつとしたポリエステル生地のボストンバッグはあまり心地の良いものではないが、ただ机に突っ伏すよりはマシだなと思う。


(そういえば、あれから……手紙のこと、すっかり忘れちまってたな)


 時々家に帰って思い出しては手紙の主について思うことがないわけではないけれど、花梨のことで頭がいっぱいだった時よりもなお複雑化したこの状況にすっかり持っていかれてそれどころではなくなっていた。

 そもそも、この一通だけでその後なんのアクションもないままに誰が出したのか、目的もわからないままなのだからしょうがないといえばしょうがなかったのだけれど。


(……あなたと、恋がしたいです……)


 素直な気持ちだったのだろうか。

 相手が他の誰かを好きでも、そう言えるんだろうか。


 何度となくその手紙にあった一文が、何かを訴えかけるみたいで紬の心がじくりと痛む。

 答えなんてあるわけがなくて、それが自分を取り巻く環境に置き換えて勝手に色々自分で思って傷ついているだけの話だと彼は理解している。


 理解した上で、それを誰かに答えてもらいたいのかもしれなかった。


 花梨に恋して、……彼女と恋がしたかった。

 でももし、彼女が紡を好きになったわけじゃなくても自分と恋をしたかだなんてわからない。


『友達としてしか見れないや』


 そんな風に申し訳なさそうに言われる夢だって何度見たことだろうか?

 結局、過去に戻れても“どうなるか”までは誰にもわからない。

 やり直しができたら自分はもっと上手くやれる……なんて言い切れないのも、紬はよくわかっていた。


 結局、自分はどこまで行っても自分でしかない。

 自分がとる行動は、後悔しようが何だろうが、自分が今までとって来た態度と似通ったものになるに違いない。

 不器用者で臆病な自分なら、そうなるだろうなと自嘲の笑みが浮かんだがそれも突っ伏しているおかげで他者に見えることもない。


 がやがやと賑わい始めた廊下に、ようやく顔を上げれば教室内に人の姿が増えていてほっとする。その中にまだ雫の姿はなくて、また探してしまっていたことに自嘲の笑みが浮かんだ。

 適当に声をかけてくる同級生に、挨拶を返しながら外を見る。


 青く晴れた空が、今日も暑くなるなと紬も目を細めた。


(俺は、どうしたいんだよ。……どうしたいんだ)


 応える気もないのに、気にしてばかり。

 応えてもらえないのに、追ってばかり。


 そんなのは、不毛だとわかっているのに心がこうもままならない。

 それが辛くてたまらない、そう思っているのに変えられないし、変わらない。


「おー、お前ら席につけー」


 教師の間延びした声に生徒たちが各々の座席に戻り、朝のホームルームが開始される。

 それを紬はただぼんやりと、空を見てそれらを聞き流していた。


 受験を控えた三年生、彼らに気を引き締めろと繰り返す教師が去った後に紬はようやく自分の手元に視線を落とした。

 

 受験。


 ぽつりとそれを口の中で転がすように呟いて、手のひらを見る。

 まじめに勉強は続けているが、そろそろ焦燥感を覚えて良いはずなのだ。

 だが、自分の中で不安に思うことは最近の恋愛関係ばかりではないだろうかとふと気づく。


(……ほんと、なにしてんだろな……オレ)


 将来は漠然と進みたい道を決めている。それに向かって進むつもりで今までもきたし、そこは変わらないつもりだ。

 それなのに、なぜだろうか?

 道がぼやけてしまった気がしてならない。


 自分が今、何を一番に見ているのか紬にはわからなくなっていた。


(……らしくねえ)


 悩むばかりで、うじうじして。

 まるっきり性に合わないと自分で分かっているのに足が動く気がしなかった。


 受験、進路、将来、……それはどれもこれも頭を悩ませて、家族と相談もしたし反対もされたし紡と紬で互いを励まし合ったりもした。

 自分が踏みしめていく道だからと漠然としながらもただ遊んで駆けずり回っているだけの子供のままじゃいられないと思った時から始まったものだ。


 それが精神的に成長というやつなんだろうが、順調そうに見えたそこに『恋愛』の一手がかかるなんて誰が思うだろうか?

 それまで頭を占めるモノなんてそこまでなくて、誰かに対してもそうなのかぐらいの余裕があったものがまるでなくなって、苦しくて気持ち悪いだとか浮かれて幸せだとかそんな感情があるなんて紬は知らなかった。


(恋なんて)


 しなければ良かった。

 それか、小さな子供だった頃のように淡い想いで、綺麗な思い出担ってしまうようなものが良かった。


 報われない虚しさばかりで、それに対して自己嫌悪に陥るような恋なんていらなかった。

 恋をしなければ良かったとは思わない、花梨を好きになれてよかった。そのくらい、好きになれる人に出会えてよかった。


 多分長い目で見れば、この恋愛未満の失恋は紬の『恋』の糧になるんだろう。

 ただそれはずっと、少なくとも今の彼から見て遠い遠い将来の自分から見た話であって、今の紬にとってはただただ重荷になっているのが現状だ。


「紬くん?」


「お、……あ、ああ。どうかしたのかよ」


「移動教室だよ」


 ぼんやりとしていたら、雫がいつの間にか彼の近くにいたことにも気が付かなくてびくりとしてしまった。

 そのことを恥ずかしく思いながら彼は緩慢な動作で雫を見上げる。


 彼女はまるでここのところ、顔を合わせずにいたことなど嘘かのようにいつも通りの笑顔を浮かべて「行こう」なんて声をかけてくるから腹立たしいを通り越して紬は困惑せざるを得なかったのだ。


(雫は)


 どんな、恋心を自分に抱いて。

 どんな、苦しみを味わって。


 乗り越えたんだろう?


 そう、彼女が先を行く姿をただ、ぼんやりと見つめた。

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