第17話 紬の答え。

 その日、どうやって帰ったのか紬の記憶は定かではない。

 それでもバスに乗って帰ってきたのは確かで、ちゃんと食事も残さず食べて食器も片づけたしやりたくもない宿題だって終わらせた。

 ただ、考えたくなかった。

 考えたくなかったから、他の事に着手しただけだ。


(……どうしたらいいんだよ)


 答えは決まっている。

 それなのに、悩んでしまう。


 雫を恋愛対象として見てはいなかった。親切にしてもらった事もあるしいいやつだと思っている、だけれどそれだけだった。本当に、それだけだったのだ。


 曖昧に誤魔化す事も考えた。

 だけれどそれは、できそうになかった。


 なぜなら彼は、恋を知っているからだ。

 そうして誤魔化して飲み込んだ自分が、どれほど心のうちに変なものをため込んだのかは彼が身をもって体験している事だ。

 そして言葉にする勇気をもって臨んだ雫に対して、曖昧にする事がどれだけ残酷なのか、紬は知っていた。

 どんな言葉を選んでも、彼女を傷つける事はわかっていた。

 例えそれが受け入れたのだとしても、だ。


 紬は花梨が好きで、それを雫は知っているのだ。

 だから自分が選ばれないと知っていてあんな言葉を突きつけてきた。


(じゃあ、でも)


 紬は、傷つけたいわけじゃない。

 もうすでに雫は傷ついているだろうし、でもできるなら、できる事ならこれ以上傷ついてほしくないと思う。


 雫を案ずる気持ちもあるが、半分以上は自分を悪者にしたくないという気持ちのためだ。

 彼女が傷ついてる、それが自分のせいだと思うと、耐えられない。

 その事に考えが至る度に吐き気がこみあげてきて、自分があまりにも汚い存在だと思ってしまう。


 そもそも兄弟の彼女に横恋慕している時点でと何度も自分を罵倒する。

 だけれどそれで何かが解決するわけではない。


 答えは、わかっている。

 ただ、それを実行する勇気が、足りないだけだ。


「紬、なんかあったのか?」


「……なんもねえよ」


 紡に声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。

 だが『何があったのか』なんて言えるはずもなくて紬はもごもごと言葉を濁した。


「ひでえツラしてるぞ」


「そうかよ」


「おう」


「……おう」


 水の入ったコップを渡されて、喉が渇いていた事を知る。

 紬から受け取ったコップから急激な渇きを思い出した紬は、一気にそれを飲み干して机の上に乱暴に置いた。


 そんな彼の様子に紡が呆れたように肩を竦めたが、あえて紬は見えなかった事にする。

 

「ありがとよ」


「いんや別に」


 短いやり取りに、拒絶が滲んだ。

 紡は何かを言いかけて、口を閉ざしてただ紬を見る。

 そんな様子を空気で感じながら、紬は顔を上げられずにいた。


(ひでえツラかよ、……そうだろうな)


 自覚は、ある。

 ただ、どんな顔をしているのか、自分ではわからなかった。

 鏡なんて、見たくもない。


 それから、雫の顔も、見たくない。


 だけれどそれで済むはずもない。

 紬はだからこそこんなにも悩むのだ。


(友達でいよう? くっそ、それができりゃぁとっくに俺がやってるって話だ)


 いいや、花梨と紬は間違いなく『友達』だ。

 互いの気持ちなど知る由もない分、紬だけが苦しい関係に成り下がってしまった関係だった。

 それでもその繋がりを断てないし絶ちたくないと惨めにも縋った結果、自分だけが苦しんでいる事を紬は理解している。

 そういう意味で雫は、苦しくないのだろうか。


 ふと、そんな事を思う。


(違え、そうじゃねえだろ俺)


 がしがしと頭を掻く紬に、紡が溜息を吐き出した。

 そんな兄弟の反応にいらっとしつつも、紬はそれどころではない。


(雫は、どんなつもりで、……どんな気持ちで)


 拒絶されるとわかっていて、なんで言えたんだろうか。

 辛い恋だという点で、紬にも少しはわかる気がするのにまったくもってわからない。

 ただ、雫の、泣きそうで泣かなかったあの表情がひどく脳裏に焼き付いて離れない。


 彼女はどうやって帰ったんだろうか。

 泣いたんだろうか。

 それとも全て覚悟の上だから、涙を飲み込んだんだろうか。

 泣く事もできず、苦しんでいるのだろうか。


 友達だと思う花梨を、嫌ったりしていないだろうか。憎んだりしていないだろうか。

 ほんの、ほんの僅かでも。


 それで自己嫌悪に陥って、ひどく絶望していないだろうか。


「……紬?」


 そう、それは、まるで自分のようだと紬は思い至った所でぎしりと身体が固まった。

 ああ、ああ、これは違う。そう瞬間的に思った。

 彼女を心配しているようで、自分を重ねて慰めているようなものだ。そう思った。


 それに気が付いて愕然とする。

 誠心誠意、向き合うべきだ。

 そう思っていたというのに、いつの間にか自分を重ねて、自分と違うところを見つけて、そうして救いを求めている自分に気が付いてしまった。


(どうして)


 恋なんて苦しくて苦いばかりだ。甘かったのは最初だけ。

 それでもこの苦くて忘れられない甘さの恋を、手放させないでいる。終わらせられないでいる。告げれば楽になれるのに、告げたら終わってしまうのが怖くてたまらない。

 今までの関係を保つのが苦しいのに、これまでと同じでいたいと切に願うのだ。

 それなら少なくとも、側に入られるのだから。

 だけれど恋する人の隣に立つのは自分ではないという苦しみを、いつまでも味わいたくないのも事実で、ああ、ああ、なんて自分勝手な矛盾だろうと幾度悩んだ事かもう数えきれないというのに。


 その現実を、まるで彼と対角線上にいるかの如く、雫は乗り越えてしまった。

 それは表現として違うのかもしれないけれど、紬にはそう思えたのだ。


(……雫は、俺を好きになってどうしたいんだろうか)


 そしてまたふと気づく。

 これまで花梨の事ばかり思っていたのに、今は雫の事ばかりだ、と。


「あア、くそったれ」


 思わず罵倒が口から飛び出る。勿論、自分に向けての事だった。

 だがその低い声にびっくりしたのは隣で心配そうに様子を伺っていた紡で、それに気が付いた紬ははっとする。


「あっ、違ェよ、お前に言ったんじゃないからな!?」


「お、おう……」


「ちょっと自分にいら立っただけっつーか」


「すっげぇびびったわ」


「ほんと悪かった」


「いや、驚いただけだし。ヘーキヘーキ」


 ははっと軽く笑う紡に、ほっと紬は息を吐き出した。

 まだ何があったのか、自分が何を思ったのか、ぼかして伝える事もできないけれど大切な兄弟をこれ以上心配させてはいけないと紬はぎゅっとこぶしを握る。


(とりあえず、明日は雫と面と向かって話す。まず昨日は一人で帰らせて悪かったとか、ハンカチは今度アイロンかけてから返すからもうちょい待ってくれとか、そういうとこから……)


 一人でこれ以上悩んでも、結論は出そうになかった。

 とりあえず、雫に対しての感情に恋愛がなかったという事実ははっきりしているのでその点を伝えたい、そう紬は思った。


(あと、花梨の代わりなんて言うなって……言おう)


 誰かの代わりになってでも愛されたい。そう思うくらい面倒くさい恋を、知っている。

 知っているからこそ、それが残酷だという事を彼は気づいている。


 そんな事を、友達にさせられるわけがなかった。

 それが紬の、とりあえず一人で出せる範囲の答えだった。

 雫が納得する答えは、きっと良い返事以外ないんだろうとわかっている。


 だから色々言い訳を考えたところで、最終的に彼女を傷つけてしまうのはもう避けられない。悪者にはなりたくないけれど、それでも雫が彼を悪者にする姿は、想像できなかった。


(……ンだよ、結局俺は……)


 結局その日、紡ぎはなかなか寝付くことができなかった。

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