第4話

 ヨシヤは、森の中にいた。

 じわりとした熱気が、湿度を孕んで衣服をじっとりと湿らせる。


(なんで、こんなことに……)


 ヨシヤはすでに泣きそうだった。

 もうすでに彼は満身創痍である。


 妻に連れられ異世界に来て、苦手な虫を使う職種を得てしまった結果、彼に協力してくれる虫を探すために安全な神域の外に出た……所までは良かった。


 いや、ヨシヤ的にはまったくもって安心要素がないので良くはなかったが、とりあえず女神の眷属なので加護はあるし、おにぎりに防御力アップのステータス上昇バフのようなものが与えられていて、しばらくの間はどんな攻撃でも耐えられるとハナが保証してくれたので、そこは安心である。

 安心ではあるが、精神的な防御ではないのが問題であった。


 今一度言おう、ヨシヤは虫が苦手なのである。


 嫌いで攻撃的に排除するとかそういうものではない。小さな蜘蛛相手だろうと飛び上がり、必死でこっちに寄らないでくれと懇願しちゃう方の苦手なのである。


 そんな彼が異世界の、森の中で、彼と契約してくれる虫を探す。

 これはもう、ハードルが高いなんてものじゃあなかったのだ。


 会社帰りのままだったので、会社のロゴが入った作業着のままなヨシヤの胸元に、小さなガマグチのお財布がぶら下がっている。

 これが神域との繋がりであり、現状、ヨシヤが異世界に来てから初めて得た装備品だ。

 

(なんで、こんなことに……)


 今にも泣きそうな面持ちのヨシヤは、茂みの中に隠れていた。

 

 なにか一匹契約したら、もしくは命の危険を感じたらガマグチを開けば神域に戻れる……そう教わって、勇気を出して一歩踏み出した先はジャングルだった。

 それだけではない。

 呆然とするヨシヤが、心細さに周囲を見回したところで木々をなぎ倒す勢いで現れたのは、彼が見上げるほどの巨大な――巨大なムカデだったのだ。

 ギチギチギチという音が聞こえそうな牙、うねる体、大量にある足にヨシヤは卒倒するかと思った。


 そして逃げ出したのである!

 本能のままに駆けだしたヨシヤは、すっかり気が動転してガマグチを開けることを忘れてしまったのだ。


 幸いにもムカデは追ってくることはなかったが、振り返ることもなく走って走って逃げたヨシヤはそれを知る由もない。

 どのくらい走っただろうか、おそらく距離は大したことはない。

 なんせメタボ気味の運動不足な中年である。限界はたかが知れている。


 とはいえ、命の危機に瀕した(と本人は思っている)のだから、相当走ったのかもしれない。

 ガクガク震える膝と痛む足に耐えきれず、彼は茂みの中に身を隠した。

 念のため、そこらに落ちている枝でその茂みを叩いてなにもいないことを確認してからという慎重さを発揮しながら。


「もうやだ……」


 イイトシしたおっさんではあるが、途方に暮れると人間なりふりかまっていられないものであった。

 しょんぼりとしつつ虫苦手だけど、虫探しくらいだったら少年に戻った気分で……なんて軽く考えていた己を叱咤するヨシヤは、その時目の前に落ちてきたモノに肩を跳ね上げた。


 ぽとん。


 しかしそれは、大した大きさのモノではない。

 とはいえ、彼が知っている虫にしては大きかったのだけれど……少なくとも、それを見ても彼は気持ち悪いとは感じなかったのである。


 それは、蟻だった。

 彼が知る、地面を歩く黒い姿とは少し違ってどことなく紫色がかったその蟻は、今にも死にそうだった。


 ブゥンと空で羽音が聞こえる。

 その音を耳にしてヨシヤが見上げれば、上空に蜂の姿が見えた。


 その時、何故かヨシヤにはあの蜂がこの蟻の巣を襲ったのだと直感的に思った。

 この蟻は、たまたま蜂から逃れたのだろう、と。


 今にも消えそうな命は、理不尽なまでの弱肉強食を前に風前の灯火だ。

 それはこの世界だけでなく、生きとし生けるもののことわりなのかもしれない。

 だが、彼には目の前で死にかけている蟻こそ、今の自分のように思えたのだ。


「おまえも、しにたく、ない、よな」


 思わず声に出ていた。

 噛まれるだろうか、そんなことを思いながらヨシヤは指を伸ばした。

 

「なあ……もし、だけど」


 死にかけの蟻に話しかけているなんて、滑稽こっけいだ。

 ヨシヤの頭の中で、冷静な部分が自分に呆れているのがわかる。

 だが、彼の視線は蟻から離れない。蟻も、こちらを見ている気がした。


 ブゥン、ブゥンという蜂の羽音が近づいている気がしたが、それすらどうでもいいくらい、目の前の蟻しか見えていなかった。


「死にたくないならよな。俺もだよ。なあ、お前……俺と来るか? これからなにがあるかわかんないけど、うちの奥さんと、これからちょっと色々あるから苦労かけるかもしれないけど、でも少なくとも……助かるよ、なあ、俺に助けさせてくれよ」


 なんでかなんてわからない。


 だけれど、ヨシヤは懇願していた。

 理由はわからなくても、彼にはわかったのだ。

 その死にかけの、蟻こそが自分の契約するべき『蟲』なのだと。


 蟻に言葉が通じているかはわからない。

 ヨシヤはそれでも続けた。


「なあ、俺と契約してくれよ。もし契約しても良いって思うんなら、この手にお前が触れてくれ。それが難しいならなにかこう、わかるように――」


 死にかけの蟻に無茶を言っているとはわかっていても、ヨシヤは必死に訴えかける。

 それこそ、触れるか触れないかの距離に指を近づけても、蟻は動かない。動けないのかもしれない。


 ブウン。

 羽音が、近づいた。


 それは、まるで瞬間的なものだった。

 素早い動きの蜂が、くたりと力のない蟻を掴んで飛び上がろうとする瞬間が、まるでスローモーションのように、ヨシヤには見えた。


 連れ去られる瞬間に、蟻がヨシヤの指に食らいつく。

 ヨシヤが見知った蟻よりも大きな顎が、指先に突き刺さる痛みがあった。

 だがそれは、同時に蟻が今感じている痛みでもあるとヨシヤが認識した瞬間でもあった。


【契約が 完了 しました。】


 無機質な文字が、ヨシヤの目の前に出た。

 蟻は、抵抗虚しく蜂に連れ去られ、彼の指から血が滴るだけだ。


(契約? 契約が完了した? じゃあなんで)


 なんで、蟻は連れ去られた?

 助けようとした。

 助けようとして、結局、何もできなかった。


 そのことに肩を落としかけた瞬間、またぽとりと落ちてくるモノが見えてヨシヤはハッと顔を上げた。

 蟻が落ちてきたのかと慌ててそれを凝視して、彼は顔を引きつらせた。


 だってそれは、蜂の頭だったからだ。

 そしてひらりと羽が落ちてきて、体が落ちてきた。動き回るそれを押さえ込む、蟻と共に。


「えっ」

 

 色味が変わっているが確かにさっきの蟻だ。

 サイズはそう変わっていないので、ヨシヤの小指より小さい位だ。


 でもなにかが違う。

 そう思う彼の前に、蟻が歩み寄る。


「……ステータス」


 思わず、声に出していた。恥ずかしいとか言っていられないヨシヤは、己のそれを眺めて、蟻を見る。


 確かにそこには、蟲使いの文字の下に【契約:フォレストアント】の文字があったのだ。


「……もしかして、蟻は蟻だけど、きみ、モンスターだったりするの……?」


 そういやここは異世界なのだと、ヨシヤは間抜けな質問をしつつもそう思うのだった。

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