先の話だけど、書いちゃったので先行公開集(『先読み度』:普通の雨<大雨<暴風雨<台風)
『本当の名前』④【先読み度:『暴風雨』】
***
なぜ、あの時涙がこぼれてきたのだろう? ここ数年間、泣いた記憶など無かった。それなのに、あの
二人が悶々と沈黙している中、月はただそこにあった。何も語らず、手を差し伸べる訳ではない。美しさだけが取り柄なだけの、冷たい存在だった。
ロイはふと、そんな月を見上げ、心の底から睨みつけた。
「お前のせいだ」
お前のせいで、あの
ロイはその怒りと憎しみを、あろうことか目の前のカレンに向けることを選んだ。そしてその結果、ロイの複雑な心の内など知らない憐れなカレンは、ロイにされるがままその小さな唇を奪われてしまった。
口づける度に、カレンの戸惑うような声と苦しそうな吐息を聞いた。「逃げないように」と半ば乱暴に掴んだカレンの左手首からは、焦りと動揺が伝わってきた。ロイの力に抵抗できず、身を委ねることしかできない彼女を見て、肌身で感じて、意地の悪いことに、彼にはそれが心底愉快だった。
彼は「カレンが嫌がるだろうから」、そして、突如自分に湧き上がった見たくもない感情の腹いせに「カレンを嫌な目に遭わせてやりたい」という動機でその凶行に及んだつもりでいた。ところがそれはひどく見当違いで、実際はカレンを傷つけてしまうことを恐れていた。その上、その手が冷たく振り解かれたりはしないだろうか、無様にも顔を引っ叩かれて拒絶されたりはしないだろうかと、内心ビクビク怯えてもいた。咄嗟に唇を奪ってしまったのも、彼女の温もりを実は無意識に求めていたからに過ぎないのかもしれない。
初めは怒りが込められていたはずの口づけが、次第に震えるカレンの唇と溶け合い、やがて穏やかな熱を帯びていった。
小さくて、柔らかくて、やけに甘い。魅惑的などと、前ならそんな風には思わなかったかもしれない。他のどんな人間に対してだって、そのように感じたことは無かった。彼は初めて、唇を触れ合わせるという行為によって真の意味で温もりを感じ、自分の冷え固まった心が溶かされていくように感じられた。
次第にカレンの身体の強張りが解けていくと、ロイは自然と手首を握る力を緩め、自分の手よりも小さなその手を優しく握った。無意識にこれを行なっていたロイは、その先を期待していた訳ではなかった。ところが、カレンがあまつさえ、その手を恐る恐るぎゅっと握り返してきたために、普段は滅多なことでは動じないはずのロイも、驚きと歓喜で思わず身悶えてしまった。そして、月の神秘がもたらした奇跡なのか、その瞬間ロイは、自らに課した心の枷が一気に弾け飛んでいくのを感じた。
あれほど否定しようとしていた感情を進んで認めるかのように、そしてまた、当初の八つ当たりのような口づけを撤回したいかのように、今やロイは、カレンのそのかわいらしい唇を優しげに覆っていた。
そうして二人は、時折訪れるぎこちない沈黙をやり過ごす他は、小鳥のさえずりのような音を立てて、気が済むまで何度でも唇を重ねたのだった。
***
作者コメント:いい場面のはずだけど、この前後もなんだかずっと書いてて悲しかった。嬉しいけど哀しい、哀しいけど嬉しい、みたいな
っていうか、まだ二人をちゃんと出会わせてないのに、これを先に公開するのはどうかと思ったけど、「先取り貯金」的に公開してみた。早く本編と合流して(笑)
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