【短編番外編】
1話完結
帝都の玩具屋店主と招かれざる客 (幼少期のロイとアリス兄妹)
裏切り者を仕留めにやって来た狩人たちが、静かに男を取り囲む。その人間がどんな人生を送ってきたか、どんな理由があったのかなど、彼らには関係ない。
男は、夢見る心地で立ち尽くし、長年営んでいた自分の店をたたむ決意をしなくてはならなくなった、あの出来事から今に至るまでの走馬灯を眺めていた。
戦争でも、病気でも、経営難でもなかった。もうあんなことは続けていられない。とにかくやめよう、と逃げ出したのだ。あのとき、彼は初めて自分が思い上がっていたこと、過ちを犯したのだと理解した。
この世界には、自分などが立ち入ってはいけない世界がある。歳を重ねたからといって、どれだけ世の中のことを知っているつもりになっていても、得体の知れない目には見えない何か大きなものが渦巻いている。危険な好奇心と甘い誘惑に取り憑かれたら最後、その渦に飲み込まれて破滅する。そしてその渦は、そのような人間を糧にして、さらに巨大化していく……。結局自分も、その哀れな生贄の一人に過ぎなかったのだ。
*
当時は戦時中にも関わらず、むしろ戦時中だからこそ、子ども向けの玩具の需要は上々だった。ぬいぐるみや人形、その他の玩具を扱うこの店は、首都の大通りに面した立地のおかげで客足が途絶えたことは無かった。
もう何十年も店を切り盛りしていた店主は、毎日の開店前に店のショーウィンドウから外の様子を眺めるのが日課だった。
そこからは、行き交う人々の様子がよく見える。
見たこともない形の自動車や、立派な身なりをした紳士や淑女たち、軍服に身を包んだ将校に、植民地出身と思われる青年や物乞いをする子どもまで、いろいろな人間が行き来するのを見てきた。商品のぬいぐるみたちに飾られた、こじんまりとしたショーウィンドウの向こうには、まさにこの世界の縮図のような光景が広がっていた。
ふと、その正面に、幼い兄妹がぽつんと張り付いていることに気が付いた。
兄と思われる少年は小柄で、まだ十歳にも届いていような印象だ。ショーウィンドウに飾られているぬいぐるみたちの頭からひょっこり顔を出した、少年よりも一回り幼い少女の手をしっかり握っている。店内を覗き込みながら、何かを話し合っているようだった。
開店前から張り切って来たのだろうか? 近くで買い物をしている母親の用事が済むまで、店の前で待っているつもりなのだろうか?
あれこれと想像を巡らせた店主は、微笑ましそうに目を細めた。
しばらくすると、少女は少年とつないだほうの腕を大きく揺らし、駄々をこねはじめた。声は途切れ途切れ聞こえてくるだけで、何を言っているかまではわからなかった。
喧嘩でも始まるのではないかと冷や冷やしていると、「いやだ! こっちのくまさんじゃなきゃいやだああぁ~~~!!!」と、少女の絶叫が窓を伝って反響した。
道ゆく大人たちは、チラチラと兄妹に視線をやるものの、すぐに通り過ぎていく。店主は、いてもたってもいられなくなり店を飛び出した。
「どうしたの? きみたち」
優しく微笑む店主に向かって、少年は黙って、ショーウィンドウの中のくまのぬいぐるみを指差した。
「あっ、これは……」
日替わりで陳列しているぬいぐるみの一つだった。ふっくらとした丸いクマの胴体の真ん中に、『予約済み』の札が付けられていた。
それを凝視しながら、少女は相変わらず、少年とつないだ手をぶらぶらと揺らしている。目元には涙がたまり、頬を伝っていた。
「ごめんね。これは……予約が入っているんだ」
声を絞る出すようにして、やっとの思いで謝った。
「予約?」
「そう。この子はもう、他のお客さんにあげることになっているんだ。だから……」
「そうですか」
残念がる様子も、食い下がる様子もない。思いのほか淡白な反応だった。
「……ごめんね」
残念そうな顔を作ったものの、内心安堵した。この子たちには悪いが、ぬいぐるみを譲ってほしいなんて言われなくてよかった。というのが本音だった。
店主が胸を撫で下ろしている側で、少女の嗚咽が、だんだん大きくなってきていた。
「うっ、あぁっ~~~!」
このまま放ってはおけないので、「中に入りなさい。お菓子をあげるよ」と言って二人を招き入れようとしたが、少年は何かを気にしているように店の中の様子をうかがっている。
「中にはおじさんだけ?」
(店のことを気づかってくれたのだろうか?)
「うん。おじさんだけだから、ゆっくりしていきなさい」
二人を店に入れると、様々な種類のお菓子が入った入れ物を差し出した。来店する子どもたちに配るために置いてあるものだった。
雑沓の音が静まり、少女の嗚咽と、チリンチリンというドアの鈴の弱弱しい残響だけが聞こえている。
少女はグスングスンと鼻をすすりながらも、グシャッと手の平いっぱいにお菓子をわしづかみにした。一方で、少年はお菓子に手を伸ばそうとしない。
「遠慮しないでいいんだよ?」
「おじさん」
「ん?」
「『予約』をした客というのは、僕たちです」
「えっ、どういうことかな?」
少年はふざける様子もなく、店主を見つめている。
(何を言ってるんだ……?!)
そんなはずはない、あのぬいぐるみは、贔屓にしている顧客に渡すために取ってあるのだ。わざわざ飾っていたのも、どんな商品でも客の手に渡るまでは店内に飾っておくという店主のこだわりがったからだ。今日だって、その客が来店したらすぐに引き渡すつもりだった。実に簡単だ。それなのに、心臓の鼓動がどんどん早くなり、顔の筋肉が一瞬で引きつっていく。
必死に呼吸を落ち着けようとしている間に、少年は淡々と続けた。
「あの中」
少年の指差す方向に、例のぬいぐるみの背中があった。
「っ……!!」
高いところから突然背中を押されたような感覚に襲われた。心臓を鷲掴みにされながら、全身の神経を同時に引っ張られたように動けなくなった。鼓動の音が、どんどんうるさくなっていく……。
(どうして?!)
少年は確かに、「中」と言った。
なぜ、中身のことを指摘するのか? ぬいぐるみの中身など、たかが知れている。まさかこの少年には、あの中身が見えているとでもいうのだろうか……? それとも、本当にこの子が……?
「大事なお客さんに渡すものがあるんでしょう? それを受け取りに来たんです」
少年の口調は、やけに大人びている。まるで、大人が子どもの皮をかぶって話しているかのようだ。
「どういう……意味?」
やっとの思いで尋ねたが、もうとっくに分かっていた。
店主を見上げる少年は、小さな怪物さながらだった。「わかるでしょう?」と、青白い小さな顔に作り物のような美しい瞳を瞬かせている。
『それ』は、店主が今まで見てきたどの子どもともかけ離れていた。
「人形」
そう形容するのが、なぜかしっくりきた。
同時に、見慣れているはずの陳列された人形たちが、少年と共鳴したかのように、不気味な視線を自分に向かって一斉に向けているのではないかという感覚に襲われた。
少年の隣に立つ少女も、いつの間にか泣きやみ、店主を見上げていた。少年と繋いでいた手には、店の商品のウサギのぬいぐるみが握られ、自分のものなのかのように、大事そうに抱えている。少女も、この少年と同類なのだろう。
「きみたちは……何なんだ?」
ウサギを抱きしめた少女が、お菓子を片方の頬に詰めて膨らせたまま、かわいらしい声で言った。
「おじさん。はやくしないとつかまっちゃうよ?」
「こんなふうに」と実演するかのように、ウサギのぬいぐるみの耳をつかんで宙吊りにしたまま、もう片方の手でギュッと首を絞めた。ウサギの首が絞まり、上半身がいびつな形に歪んでいる。
「ひぃっ!!」
店主の手からお菓子の入った容器がこぼれ落ち、床に色とりどりの包装紙の色が広がった。その瞬間、店主の中で何かが吹っ切れ、濁った洪水のごとく黒い思考がなだれ込んできた。
子どもがこれに加担しているなど、考えたこともなかった。
子どもを使うのか? まさか、そんな……? じゃあ、今まで店にやって来た子どもたちの中に、『彼ら』の手先が紛れ込んでいたんていうことは? 何も知らずに笑顔を向けて、お菓子を配っていた……。もし、その子たちが自分を監視でもしていたら? 恐ろしい! 恐ろしすぎる……。
第一、子どもを利用するだなんて、そんなことは決して許されない。倫理に反する。正義への冒涜だ。
正義? なぜ正義が必要なのだろうか。だって奴らは、正義などというものが通用する相手ではない。分かっていたことじゃないか。なぜ、見えないふりをしていたのだろう。目的のためなら手段は選ばない奴らじゃないか。対等に『彼ら』と取引しているつもりでも、詰まるところ、自分だって歯車の一つで所詮は捨て駒。最初から、立っている土俵も見ている景色も違ったのだ……。
「約束のものです」
少年はそう言って、店主の懐に小さな箱を滑り込ませた。
ヒューヒューと奇妙な音を漏らしながら立ち尽くし、目だけを動かしてその様子を見つめることしかできなかった。
店主はその日、たしかにあのぬいぐるみを約束した相手に受け渡す予定だった。しかしそれは、おもちゃ目当ての客などではない。もっと大きな存在だった。
数年前に借金で首が回らずに頭を抱えていた折、ある人物から取引を持ち出された。最初は金さえ手に入れられればそれでよかったが、それを無事にこなしてからというものの、その快感が病みつきになり、必要も無いにも関わらず、続けて仕事を請け負うようになっていった。
あの時、仕事を持ちかけて来た人物は某国の関係者だと言っていた。だが、本当か……? どんな人物だった?? その人物の顔が、霧に包まれたようにぼやけて輪郭を描けない。もしかしたら、本当は夢を見せられていただけではないのか??
現にこうして、人形のような少年が目の前に現れて……。彼も、おとぎの国から飛び出してきた存在なのではないだろうか?
「きっとうまくいきますよ」
店主の目をじっと見ながら、少年はエメラルド色の目を微かに細めた。穏やかな目元に反して、声に乗せられた感情は乏しい。それでいて、そこから発せられる声は子どもらしく伸びやかで、やけに甘い、どこか魅惑的な声だった。
「おじさん。がんばってね」
例のクマのぬいぐるみとウサギのぬいぐるみを仲良く片腕に抱きながら、少女は前屈みになって、足元に散らばっているお菓子を最後にもう一度掴み取った。そして二人は、店主に一瞥もくれることなく、足早に店を去っていった。
店主はただ、夢に浮かされるようにして、小さな影が大人たちのうごめきの中に消えていくのを見つめて、いつまでも立ち尽くしていた。
*
後日、少女の「父親」を名乗る人物から、律儀にもウサギのぬいぐるみの値段分の小切手を添えた、謝罪の言葉を述べた手紙が店主宛に届けられていたことを、彼は知る由も無かった。彼はあの後、全てを放り出し、身を潜めていたからだ。
平凡でいい。息を殺して暮らすことが、いちばん幸せなんだ。もう、あの世界からは足を洗ったんだから、と言い聞かせて。
数年も逃げ続けられたのは、彼にしてみれば上出来だった。もしかしたら、逃げるように仕向けられ、ただ泳がされていただけなのかもしれないと厭な想像をしたこともあったが、今となってはどうでもいい。
相変わらず、彼を取り囲む背広姿の男たちが何かを話しているが、その声はもはや意味を成さないないただの雑音だ。
ああ、こうなることを本当は望んでいたのかもしれない。逃れられないと分かっていたからこそ、迎えに来て欲しかったのかもしれない。
(本当の、用済みか……)
両手に冷たい手錠がかけられたのと引き換えに、男は幸福な黒い安堵感に包まれ、眠るように目を閉じた。
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