キセキの小佑莉、ありがとう。

藤原あみ

第1話 小さな、小さな、天使が舞い降りた

1988年初夏、六波羅蜜寺ろくはらみつじ家に、待望の初孫が誕生した。

体重1080グラム。28週目の早産だった。

「もう少し長くお腹の中にいてくれたらね」

六波羅蜜寺家の姑は、全く悪気なく、その言葉を繰り返したが、母親である景子にとって、この言葉は酷な嫌味に聞こえた。

生まれて二日目、景子と夫久嗣ひさしは新生児集中治療室ICUの担当医師に呼ばれた。

「娘さんは極めて危険な状態です」

そんなことは見てわかる。保育器の中の我が子は、無数の点滴に繋がれ、意識もなかった。しかし肌は桃色で、張りもある。そこだけが救いだった。

「出産時に腸に穴が開き、腹膜炎を起こしています。すぐに手術が必要です」

「手術、出来るのですか、あの小さな身体で」

寝間着姿の景子は、心身共にやつれていた。出産前の切迫流産での一か月の入院は、上体を起こす事も許されない、緊迫した状況だったからだ。

「正直に申しますと、半々です」

「そう、ですか」

景子はそういって夫の久嗣ひさしを見た。久嗣も景子同様、疲れて見えた。

「お願いします」

力なくいい、久嗣は頭を下げた。

手術前にもう一度、娘に会わせてくれるという。小佑莉こゆりと名付けられた娘は、ICUの奥にある、面会用のガラス窓からほど遠い場所に隔離されていた。医師がひとり、保育器の隣に椅子を置き、付き添っている。

「小佑莉ちゃん、大丈夫だよ、大丈夫」

景子は泣きながら、何度もそう声を掛けた。

彼女が生まれてくるのは二か月も早かった。どうしてこんな事になったのか、その大きな原因ともいえる事件がひと月前に起きていた。

結婚15年目。つらい不妊治療も効果なく、子供を諦めかけた頃に授かった命を、夫婦は心から喜んだ。しかし妊娠は、そう楽観視できるものではなかった。妊娠四週に入る手前から、酷いつわりがはじまり、妊娠悪阻と診断され、入院生活を送ることになる。その後も、何度かの切迫早産を繰り返し入院。漸く安定期に入ったのは、二十週を回ってからだった。

その日、景子は定期健診の為、広尾にある医療センターを訪れていた。自宅も渋谷区だったので、距離的にはそう遠くないが、電車とバスを乗り換えなければならず、身重の身体には難儀だった。家の近所にも産婦人科はあったが、入退院が相次いだので、町の主治医から、未熟児医療の発達した医療センターを紹介された。この判断は大正解だった。

診察料を支払う為に待合室で待っていると、前の席に見慣れたカップルが座った。彼らはこちらを見て軽く会釈した。景子も笑顔を作り会釈を返した。

大きな病院は便利だが、待ち時間が長い。この日も一時間程待ってから、漸く料金を支払い帰路についた。これで薬なんかを処方されていたら、半日仕事である。

「はあ、大きな病院はこれだからいやだわ」

バスを降り、渋谷駅に向かって歩いていると先程のカップルに声を掛けられた。ふたりとも若く、二十代に見える。

「こんにちは、先程はどうーも。どこまでですか?」

女の方がそう聞いた。ピンクの大きなリボンでポニーテールを結んでいる。服装もオールディーズ風だ。

「わたし」

景子は自分を指さした。

「そうです、わたしです」

男の方がそういった。華奢な体つきで、こちらはTシャツにジーンズといった出で立ちだ。

「ちょっと、わたしじゃないでしょう、あなたでしょう。馬鹿じゃないの」

女の方が、男の胸を叩いた。男は大袈裟に痛がる振りをする。

「原宿駅です」

そういって景子は頭を下げ、立ち去ろうとした。

「一緒だね。わたしたちも原宿に買い物に行くの」

「わたしは買い物じゃないので」

「えっ、そうなの?もしかしたら原宿に住んでるとか?すごーい」

女が大袈裟に声を張り上げるので、景子は恥ずかしくなり、会釈をして改札へ急いだ。すると腕を掴まれ、

「待ってよー」

そういったのは女だが、腕を掴んでいるのは男だった。景子は驚いて目を見開き、トートバックを肩に掛けている方の手で腹を庇った。

「なん、で」

コットン製のバックが手首まで下がったが、反対側の手を掴まれているので

何も出来ない。

「なんで逃げるの?」

女はつぶやく様な声でいった。顔が近づき、目つきに恐怖を覚えた。

「なんのことですか、病院で、お会いした方ですよね」

それ以外、全く見覚えがないが、妊娠寸前まで百貨店の化粧品店で店長として働いていた。女は客の可能性もある。

「わたしのこと忘れたのかよ」

「腕を離して下さいませんか」

トートバックが下がっている手で、掴まれている腕に手をやった。すると男は更に腕を握り締めた。痛みで顔が歪む。周りに人は沢山いるのに、誰もわたしたちの異常に気付いていない。

「助けてー」

こちらをチラッと見た男性に向かってそう叫んだ。

「何をしてるんですか」

その男性が近づいて来ると、ふたりは逃げるように走り去った。その夜、わたしは破水した。腕には大きな青あざが残った。夫に説明すると、劣化の如く怒り、警察に通報したが。未だに有力な情報は得られていない。

「あれが原因だったのよね、きっと」

娘の手術を待つ間、景子はその事を思いだしていた。あれからいくら記憶を遡っても、あの女の事は思い出せないし、男も知らない顔だ。

「気にするな」

隣で夫の久嗣はそういった。

「気にするよ、だって気持ち悪いじゃん」

景子は身震いをした。

「病院で何度か見掛けたカップルだったんだろう。廊下ですれ違う時にぶつかったとかしたんじゃないのか」

「ぶつかってたらわかるよ、謝るし。でも病院での面識だけじゃないようなニュアンスに思えたの。もっと因縁的な感じがした。恨まれてるみたいな」

「まあ、とにかくいまは余り考えるな。赤ちゃんが無事で良かったよ」

景子は答えず、重ねた掌を縦に顔に当てて、祈るようにした。


手術から一週間が過ぎると、娘との面会が叶った。いつもの奥の通路に小佑莉の保育器はある。重症度が高い程、保育器は奥に置かれ、元気になるにつれ、出口付近に近づいていく。

「小佑莉、小佑莉」

ぷっくらしていた肌はやせ細りしわしわになり、黒ずんでいた。額や手の甲、足の甲からも点滴が繋がり、口には管が通されている。小さな特製の紙おむつが彼女の身体の半分を包んでいた。

「小佑莉ちゃん、痛いね、痛いよね、ごねんね。本当にごめんね」

景子は医師の許可を取り、写真を撮りまくった。夫は、そんな妻の姿を、棒立ちで見つめるだけだった。

小佑莉が産まれてからひと月が過ぎると、保育器はICUにある面会ガラスの手前に並ぶようになった。景子は一日も休まず、毎日、毎日、面会に行った。たった三十分の面会が、景子の生きるしあわせだった。

未熟児の集中治療室と、健常者の新生児室は隣り合わせにある。入口は別れていて、新生児室の面会は未熟自室より半時間遅い。

「ねえねえ、見た。カエルの開きみたいだったよね」

「そうよね、可哀想に」

健康な新生児の母親が、何故か未熟児室を見学していた。こんなことは日常だったが、ここまで口汚いのははじめてだった。

「あの」

景子は堪らず、彼女たちに話しかけた。

「カエルってなんですか?」

「え、そんなこといったかしら」

彼女たちふたりは顔を見合わせている。寝間着姿で、お腹の辺りがふっくらしているので、間違いなく新生児のお母さんだ。

「あなたち、面白半分で未熟児ちゃんを見に来るのは辞めてくれない」

「別に面白半分なんかじゃないわよねー」

背の高い方が、隣の女に同意を求めた。隣のぽちゃりした女は斜に構えて景子を見てる。

「じゃあ、なんで未熟児室の面会場所に入ったのよ」

「いけないの?」

ふたりは声を揃えていった。

「関係者以外、立ち入り禁止って書いてあるじゃないの」

景子は入り口のサインを指さした。

「そんな、見えなかったのよ」

「もういいわ。早く自分の子供を見に行ったら」

「えっ」

「あなたたちの面会時間がはじまるわよ。健康な赤ちゃんがいつまでも健康でありますよに、ねえ。これからだよ、大変なのは」

「なによ、あの言い方、失礼じゃない。まるで呪いじゃん」

景子は無視して未熟児の面会室に入った。ここは「新生児集中治療室」といって未熟児以外にも、集中治療が必要な、様々な赤ちゃんがいる。中には生後四か月になる大きな赤ちゃんが意識もなく、小さくなった保育器の中で、窮屈にも、必死で生きている。

未熟児室に入った景子は廊下の隅でしゃがみ込んだ。とてつもない疲労感と、悲しみに襲われた。未熟児室の面会に訪れる親は少ない。保育器に入って意識の定まらない子供の面会。親にも様々な事情があるのだろう。景子の様に、毎日欠かさずやって来て、冷凍保存した母乳を病院に渡す母親は、当時、他にひとりもいなかった。

「小佑莉ちゃん、ママ来たよ」

娘の容態は、日によって変化する。良好の日もあれば、ガラス窓前列から、後ろの方に移され、予断を許さない状況の時も。なので景子は毎日、通いたかった。娘の容態を日々、確認したかったのである。

「六波羅蜜寺さん、お母さん、どうかされましたか?」

ひとりの若い看護婦がやってきた。さっきまでガラスの中にいて、娘の保育器に手を入れ、小佑莉を起こし、手を振らせ、見せてくれた人だ。娘は口を開け、嫌がっている風に見えた。きょうは体調が良い。

「いえ、少し嫌なことがありまして」

「そうですか。もし良かったら、ここにあるノートに、わたしたちへの要望や不安、質問、悩みなど書いて下さい。極力、お答えするように致しますので」

「ありがとうございます。娘は、ミルク?」

口に通された管からミルクを飲んでいるのだが、調子が悪い時は、あまり飲まない。管に通されるとはいえ、母乳を飲めるようになったのは、めざましい。点滴だけの時は、みるみる痩せて行き、骨と皴皺の皮だけになっていた。

「きょうは良く飲んでくれていますよ。いつもお母さんが持って来て下さる搾乳した母乳は、小佑莉ちゃんだけでは多いので、他の赤ちゃんにも与えているんです」

「はい、聞いています。わたしは母乳が良く出る方なので、そうして頂けると嬉しいです」

ここに来る赤ちゃんの両親は、新生児室の親とは違い、笑顔はない。みんな青白い顔をして、いつ消えてしまうかわからない儚すぎる命を見守っている。それでも徐々に回復していれば、笑顔も出るのだが、他の親御さんに遠慮して、左程、表情には出さない。


それから二か月後、小佑莉に一時退院の許可が出た。







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