おはよーみーくん
「しっかし今更だが、思ったよりも大変な事になったな」
風呂場で頭を洗いながら、俺は独り言を呟く。
サヤは超多忙のアイドルなので、当初想定した通り、家に居る時間は非常に限られているものの、その少ない時間は常に俺のそばを離れず、ベタベタと甘えてくる。おかげでこうして一人でくつろげるのはトイレと入浴中と寝る時くらいなものだった。
「みーくん。石鹸切れてたから新しいの持ってきてあげたよー」
「わーバカ! 勝手に扉を開けるな! すぐに閉めろ!」
訂正。
入浴中でもサヤはいきなり扉を開けて入って来た。
幸い湯気が濃かったのと、入り口に背を向けていたお陰で、大事な部分は見られなかったが、本当に心臓に悪い。
怒鳴られたサヤは「はーい、ごめんなさーい」と言って静々と扉を閉める。
「ねえ背中流してあげよっか?」
と思ったらまた扉越しに話しかけてきた。
「いいって! ていうか何でそんなに冷静なんだよ?」
「だってもう子供の頃に何度もお互いの裸見てるから別にいいかな? って思って」
それは潔いと言って良いのか?
今と子供の頃では体型とかも全然違うだろうに。
ともかくラブコメとしては割とよくある展開ではある。
ちなみにちゃんと服は着ていたようだ。……別に残念とか思ってないよ?
しかし話はまだまだこれで終わりではなかった。
今度はサヤが風呂に入っている時――
「みーくーん。バスタオル忘れちゃったから取って来てくれなーい?」
台所で水を飲んでいたら、風呂場から大声で呼びかけられた。
まあこれもありがちな展開だ。
ただ脱衣所に置けばいいだけなのだから、下手に動揺する必要はない。
「オーケー。ちょっと待っててくれよ」
俺は至って冷静にサヤの部屋――ちょうど俺の部屋の隣――に入り、バスタオルを取り出そうと衣装ケースの引き出しを開ける。
しかしこの時の俺は思いも寄らなかった。
まさかバスタオルが下着と一緒に収納しているなんて。
慌てて閉めるも、目にしっかりと焼き付いてしまった。
いや、見てない。俺はなにも見ていないのだ。
必死に記憶を消去しようと努めながら、バスタオルを脱衣室に持って行く。
あ、でも風呂場の扉って磨りガラスだったよな……。
「ホイ。カゴの中に入れといたからな」
「ありがっとー!」
一瞬、つい視線が引き寄せられて、チラッと肌色のシルエットが……いや、いかんいかん!
リビングでテレビを見ながらのんびりくつろいでいると、突然スマホに不在の母からこんなメッセージが届いた。
『ゴメン、まだ帰れそうにないから洗濯物を畳んどいてくれる?』
はあ、大変そうだな。
母は上場企業の役員――と言っても平役だが――で、決算が近いから忙しいのだろう。
洗濯物を畳むくらいお安い御用だ、と気合を入れたところで俺はある事に気づいた。
「そう言えばサヤの着替えもあるんだよな……」
いや、下着とかは本人に取らせればいいだけの話か。
俺としたことが、立て続けにラブコメ展開が続いたせいで思考が回りにくくなっているようだ。
ところが直後、母から新たなメッセージが届く。
『追伸、サヤちゃんに手伝わせたら来月の小遣いゼロだからな!』
逃げ道を塞がれた。
“しかしまわりこまれてしまった!”というヤツだ。
息子の行動を先読みするとは、さすがだな我が母よ。HAHAHA!
……どないしましょ?
まあすでについさっき見てしまったこともあるので、無駄な配慮と言えなくもないが。
「ま、まあ下着を取らせるくらい、手伝った範疇には入らないよな……多分」
自分に言い聞かせ、サヤが風呂からあがるのを待つ。
事件はその十分後に起こった。
見ていたテレビ番組が終わり、いつの間にかうたた寝してしまっていた時。
ふとなにかの気配を感じ取って目を覚ますと、風呂場の方で何やら物音が聞こえてくる。
恐らく寝ている間に、サヤが風呂からあがってきたのだろう。
ということは俺が寝入ってからそんなに時間は経っていないということか。もう夜もふけてきたし、自分の寝室で眠ろうかと身を起しかけた次の瞬間――
「ふーう、サッパリしたぁ!」
――ッ!?
間の悪いことにサヤが風呂場から出てきた。
しかも身体にバスタオルを巻いただけの、あられもない姿で。
俺は咄嗟に目を閉じて寝たふりをしなければならなくなった。
「あ、良かった。みーくんまだ寝てるっ。着替え忘れたからどうしようかと思ったけど、大丈夫みたいだね」
なるほど、いくらサヤでもこんな大胆な行動をするのはおかしいと思ったら、そういうことだったのか。
というかバスタオルを取りに行かせた時になぜ言わなかったのか。それなら風呂に入る時になにも持って行かなかったことになるぞ。
昔から天然なところがあったサヤだが、まさかここまで抜けているとは。アイドルの仕事をしている時はどうしているのだろう。
ともかく一刻も早く自室に戻って欲しい。
この状況で寝たふりをするのは、色々と妄想してしまいそうで辛いのだ。
心なしかこちらに近づいてくるような気配を感じる。
ま、まずい……このままでは……。
「そうだ。みーくんは寝てるんだし、このバスタオルも取っちゃっていいよね」
「わーやめろ! それだけは取るんじゃない!」
あまりにも突然の出来事に、寝たふりがバレるのも構わず飛び起きていた。
もちろん目は閉じたまま。
サヤはしかし驚くと思いきや――
「あっ、おはよーみーくん」
「……はい、おはよう」
意外にも至って冷静な反応に、我知らず素で返事してしまった。
「ずいぶん気持ち良さそうに眠ってたねぇ。なにか面白い夢でも見てたのかな?」
「い、いや……そういう訳じゃないんだが……。と、とにかく先に服を着て来いよ」
「はーい」
スタスタと足音が遠ざかっていく。
もしやサヤは俺が起きている事に気づいていた?
……いやまさかな。
「あれ、なにを見ているんだサヤ?」
就寝時刻になってリビングの電気を消しに行くと、サヤがなにやら大きな書物を読んでいた。
「ああこれ? 荷物を整理してたら昔のアルバムが出てきたから見てるんだ」
「へー」
興味が湧いて、俺も一緒に見せてもらうことにした。
アルバムの中身は主に小学一年生の頃の写真が中心だ。
サヤと過ごしたのはたったの一年だったけど、それでもかけがえのない思い出ばかりだ。
遠足、運動会、課外授業。どんな行事でも、ペアを組む時はいつも必ずサヤが相手だった。
クラスメイトからは散々からかわれたが、不思議と恥ずかしい気持ちは少なかった。
小学校の頃は恋人的な存在がいるというだけで、ある意味大人っぽくて他より一歩進んでいる感じがして、むしろ中には羨ましがる者も少なくなかった。
「あ、これって音楽会の時の写真だよね」
「そうそう。確かあの時、クラスの中の誰かが思いっきり音程外して歌ってたんだよな。あの時の犯人は未だにわかってないけど、きっと相当な間抜けに違いないだろうな」
「あの、ごめん……内緒にしてたけど実はそれ私だったの……」
「え」
その瞬間、空気が凍りついた。
馬鹿な。マジセプの中でも抜群の歌唱力を持つサヤが?
にわかには信じ難い話だが、顔を紅潮させながら話すサヤを見ると、どうも嘘ではなさそうだ。
「大勢の人の前で歌うの、あれが初めてだったからすごく緊張しちゃって……事務所でレッスン受けるうちになんとか克服出来たんだけど……」
「ま、まあ失敗は誰にでもあるしな。むしろその失敗があったからこそ今のサヤがいるんだから逆によかったのかもしれないな」
「うん、そうだね!」
よかった、なんとか上手く誤魔化せたようだ。
これで図らずもサヤを間抜け呼ばわりしてしまったことを、はぐらかすことが出来た。
「ねえ、そういえばこの中にみーくんと同じ高校に通ってる人っている?」
「ああ、そんなにはいないけど二人程いるな。三好と松永って奴らなんだが、サヤは覚えてるか?」
「あー知ってる知ってる! 確か遠足の時、同じ班になったんだよねー。この人達だっけ?」
そう言ってサヤはアルバムの中から一枚の写真を指差す。
「そうそう、ソイツらが――」
言いかけて、俺はあることに気がついた。
そう言えばあの二人は俺とサヤの関係も知っているよな……。
余計なことを喋られる前に、あらかじめ電話で事情を説明した方が良さそうだな。
「あ、そう言えば洗濯物どうしよ?」
それを思い出したのは、明日仕事があるから早めに寝室に入ったサヤを見送った三十分後だった。
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