短編録

仮面

エスカレーター

「エスカレーターでは危険ですので、駆け上がらないでください」

 どこかでは義務づけられたとも聞いたことがある。

 余程急いでいるのか、私はそれならば階段を使えば大して変わらないだろうといつも思うのだが、当人たちにしてみればどうやらそうではないらしい。

 あの動いている板による加速で少しでも時間の短縮が出来るのだろうか、それなら少しでも早く動けるようにしたいものだが。


 さて、私はいつも通り少し余裕のある時間で、乗り慣れた電車を待つべくホームへと向かう。

 もちろん、昇りのエスカレーターに立ち止まりゆっくりとだ。

 コン、コン、コン

 乾いた靴音が下から響いて、そして乗り始めて少しの私の横を、汗だくの男が駆け上がってゆく。

 この時間ならまだ十分に間に合うだろう。

 静かな機械の音はやがて、私を目的のホームへと導いて終点を迎えてくれた。

 いつもの乗車口へ、と。

 歩みだしてからふと、線路側の方へと向かうと先頭から後方までを見渡してみる。

 先程あんなに急いでいた男の姿はどこにもない。先頭に並ぶ為じゃなかったのか。

 その後も、乗車するまで少し気にして見ていたが、結局その人物を見ることは無かった。


「そういえば、最近出来たハンバーグ屋。行ってみるか」


 私の勤める会社の事務所の近くに、それはあった。正確には最近新規開店した。

 オープン初日から連日、昼のランチタイムには蟻でも群がっているかのかと錯覚しそうな程に行列が出来ていたのは記憶に新しい。

 午前の業務を片付けた私は、ふと肉汁滴る情景が浮かび、自然と店へと足を運んでいた。

 ファミリーから年寄りまで、幅広い客層が窺える店内の一席で私は評判の一皿を堪能することにした。

「ごゆっくりどうぞ」

 じゅうじゅうと音を立てて運ばれてくる肉厚な黒塊、脂の垂れた鉄板が小粒の玉を跳ねて踊らせる様を見下ろし生唾を飲む。

 ひとつ、ナイフをするり。

 どろりと滴る肉汁の多い事多い事、私は思わず大きな一切れでフォークに突き刺して口へと運び

 無言で頷いてじっくりと咀嚼。噛むほどに柔らかく崩れる肉の旨味、少し濃い目の塩気がより食欲をそそり、備え付けのご飯が進む。

 確かに通いたくなる訳だ......


 事務所に戻ると、ちょうど山積みになった不要書類が目に留まった。

 いつもそうだが、こういった作業は後回し後回しで積み重なり、大きくなってからやっと動くものだ。

 溜息を吐きつつも、食事後の軽い往復運動だと自分に言い聞かせてシュレッダーのスイッチを入れた。

 バリバリバリバリ、隙間に吸い込まれて裁断されていく紙の様子は少し気持ちが良い。

 溜まった書類も処分してからはなぜか頭の中もスッキリとして、その日は順調に業務を終えたのだった。


 返りの電車、そう混雑も無い車内。

 軽い足取りで下車をして下り階段を降りる。

 コン、コン、コン、コン

 ああ、隣のエスカレーターを下る足音、どうやら駆け下りている様子。

 私よりも先に行くその頭は、エスカレーターの終着点に近づいてゆき、

 然しその持ち主であろうひとは、私が階段を下りた後にも見当たらなかった。

 少しだけ古いからだろうか、エスカレーターの回る音が

 バリバリバリバリ

 うるさく感じるような気がするぐらいで。

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短編録 仮面 @masquerade_n

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