いにしえの獣さまがわたしから離れてくれません!(物理的に)

及川パセリ

なんで裸なんですか?!

「変態!」




少女の声が響き、続いて何かを叩くような小気味よい音がした。


年頃らしい少し高めの可愛らしい声だったが、その声は羞恥と怒りを含んで少し震えていた。




はあ、と嘆息し、少女の罵倒に返すのは白銀の髪の男である。


狼のような耳が生えている、男。

その両耳は髪と同じく白銀の、雪のようなきらめきをもつ美しい毛におおわれていた。




髪をさらりとかきあげ、切れ長の涼やかな深い紫色の瞳をすがめて少女を見下ろした。

そして気怠げに返す。




「お前から離れられないんだ、仕方ないだろう」

「じゃないわよ!早く私の上からどきなさいよっ」




男は少女に叩かれたらしい頬を手で軽く抑え、弓なりの美しい眉を軽くひそめた。


かすかに瞼を伏せ、そして、すい、と指を滑らせる。白い陶器のような頬が少し赤くなっていたが、一瞬で何事もなかったかのように元の滑らかな肌に戻った。




それを見つめていた少女はかすかに目を瞠ったが、ふるふるを頭を振り、腕を伸ばしてぐいぐいと男の胸を押す。




お、重い…!こいつ、細身なのに結構筋肉あるのね…。


ってそうじゃないわ!なにこいつの身体のことなんて考えてるのよ、私。




むぐぐ、とめげずに胸を押し、叩く。




そう、男は少女を押し倒していた。

嫁入り前の少女にとってはあるまじき事態である。


この男は、乙女の神域である少女の寝台に膝をついて乗りあがり、両腕を少女の顔の横について見下ろしているのだから。




男は不満そうにかぶりをふり、のっそりと起き上がった。


白銀に輝く髪は、窓から差し込む光を受けて少し青くも見える。不思議な色合いだ。

獣の耳はあまり敏感には動かないようで、たまにぴくりとその向きを変えるのみだ。


均整のとれたしなやかな上半身を軽くひねり、なにやら身体を伸ばしている。服が少しめくれ、割れた腹筋がちらりと覗いた。


上半身と同じく引き締まった長い脚の間からは、白銀の尻尾が垂れ下がっている。

狼の、ふさふさの毛並みをもった尻尾だった。




ーそう、この男、獣の耳と尻尾を持っているのだ。




一方、ようやく起き上がることができた少女は琥珀色のふわふわとした髪を小さな白い両手で梳かしながら、顔を真っ赤にして男を睨みつけた。


ふわふわの髪は、怒りと警戒で身体を膨らませた子猫のようだ。

少し吊り目がちなぱっちりとした緑の瞳も、子猫を彷彿とさせる。




少女は小さな、さくらんぼのようなくちびるを震わせて抗議した。




「木箱3つ分以上離れたら、いきなり磁石みたいな力で引っ張られるってわかってるでしょ!」

「木箱の大きさなどわかるか」




しかし、そんな少女の様子などどこ吹く風の男は、ふん、と鼻を鳴らす。




「そんなことより腹が減ったな」

しれっと返し、紫色の瞳を窓の外へ向けた。




……もう、こんなの気が持たないわ。


肩で息をしながら、少女はこのおかしな状態を一刻も早く元に戻さなければ、と決意を新たにするのであった。

*********************************



少女の名はアイヴィーといった。




年の頃は花も恥じらう乙女といったところだが、正確な年齢はわからない。と言うのも、何しろアイヴィーは幼い頃に両親と死別しているためである。

両親の他には身寄りがなかったようで、彼女自身は覚えていないのだが、彼女を拾い育てた老婆によると、彼女は教会の裏手でひとり倒れていたそうだ。




老婆に拾われたとき、両親のかすかな記憶は残っていた。

しかし何しろ小さいときのことなので、どうして両親が死んでしまったのか、なぜ一人で倒れていたのかは、今ではもう何も覚えていなかった。




両親と死別した、ということも彼女を拾った老婆が、当時の幼いアイヴィーがぽろりと零した言葉を拾い伝えてくれただけであり、アイヴィー自身はそのように話した記憶もない。


だからアイヴィーは自分のことがあまりわからない。わかるのは老婆と出会って以降のことだけだ。




老婆は町で薬屋を営んでいた。彼女の薬はよく効いたし、彼女自身も人情にあふれた優しい人柄であったので、町の住民には慕われ、患者はひっきりなしにやってきた。




アイヴィーは老婆に拾われてから、老婆の元で薬屋の手伝いをして過ごしていた。


最初の頃は薬屋の掃除など簡単なことから始めたが、少し成長してからは店の雑用だけでなく、薬の調合も学び手伝うようになった。




薬草を乾燥させ、すり潰し、混ぜたり、時には煮だしたり。




それらの作業ができるようになった頃、たぶんアイヴィーが読み書きや計算が十分できるようになった頃だっただろう。


老婆に見守られながら、初めて薬を調合した。


作ったのは、腰や肩の痛みに効く塗り薬だった。


見た目にはうまくできていたのだろう、老婆はよくできたわね、とアイヴィーの頭を優しく撫でて褒めた。




ほかにもいくつか調合した。切り傷に効く塗り薬、発熱時に熱を下げる飲み薬・・・。


老婆の教えはわかりやすく、アイヴィーは楽しくなってたくさん調合した。

それらは薬屋から患者へ渡っていった。




その数日後だっただろうか。

患者たちからおかしな報告があった。




塗り薬は効いて腰の痛みは治ったが、そこにあった古傷まで治ってしまった。

腕の切り傷は治ったが、塗布していない部分の切り傷まで治った。

などなど。




そう、アイヴィーの調合した薬は、普通の薬ではなかった。


最初はありがたく思いながらも不思議がっていた患者たちだったが、だんだんとアイヴィーのことを不気味に思うようになってきた。患者たちから町の住民へ話が伝わり、噂が広まった。




アイヴィーは魔女なのではないか、と。




最初は気のせいだ、と患者をあしらっていた老婆も、あまりに報告が相次ぐので不思議に思い、自分で試したところ、報告と同じような不思議な効果が出てしまったので慌てたらしい。




アイヴィーの調合した薬は、薬屋では扱わないこととした。




それでも老婆は町の住民たちとは違った。


アイヴィーの調合した不思議な薬を不気味に思わず、とても喜び、「お手伝いしてくれてありがとう」と優しい笑顔でアイヴィーを見つめるのだった。




心優しい老婆を大切に思い、アイヴィーが慕うのは当然であっただろう。


もはやアイヴィーは町に居場所はなく、安らげる場所は老婆のそばだけだった。




アイヴィーは老婆に何かお返しがしたいと思い、迷惑をかけてしまった自分の薬の調合を「普通の」ものにするため、何度も調合して研究した。




それでもなかなかうまくいかない。長い間いろいろ試しているけれど、普通の薬になることもあれば、不思議な薬になってしまうこともある。




アイヴィーは行き詰っていた。それでも彼女は大切な老婆と一緒に暮らす日々がとても楽しかった。




しかし老婆と二人の幸せな日々は唐突に終わりを告げた。

いつものようにアイヴィーが朝食をつくり、老婆の寝室まで彼女を呼びに行くが、返事がない。


ゆっくりドアを開けて中に入ると、彼女は寝台の上で息を引き取っていた。


病気や事故でもない、穏やかな老衰死。推測される年齢から言っても大往生とよべるものであっただろう。

そしてアイヴィーは一人きりになった。

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