深淵で待つ
かなた
一
周りの人達は涙を流している。悲壮感なのか、場の空気なのかは知らない。ただ冷静に周囲を見渡しているのは、大津冬花だけだった。普段から落ち着いているとは言われるが、本人にとっては、この葬儀自体に興味がなかっただけだった。たとえ、血の繋がった父親のものだと知っていても。成績や進路に文句を言うことでしか口を開かない父親だった。うんざりしていた冬花にとっては、解放感しかなかった。隣で母親が号泣しているが、うるさい程度にしか捉えていない。非情なわけではないと思う。だが呆れが強かった。嫌味ったらしいことしか言わないあの人を、ずっと庇っていた母親に、ざまあみろと心で囁いた。父親の死因は信号無視によるひき逃げだったらしい。家の近く交差点でのことだ。最初知らされた時は驚いたが、それ以上の感情は湧き上がってこなかった。他人の不幸よりも、自己の幸福が優先されるものだ。焼香をあげる人達から皮肉やら同情やらが聴こえてくるが、冬花にとって、雑音でしかなかった。
火葬も済んで久々に登校する朝、冬花は特に母親に挨拶もしなかった。母親は洗い物をしながらニュースをちらちら見ている。
「冬花、あなた二週間後にテストあるでしょ?ここで成績上げとかないとまずいわよ。」
予想外のことが一つあった。母親が口煩くなったことだ。父親の口を引き継いだように。確かに父親を支持してはいたが、口出してきたとしても「勉強しなさい」くらいだった。冬花は、無意識に父親と同じ反応を母親に投げていた。
「ちょっと!聞いてるの!?」
口を開かないまま、家を出た。徒歩で学校へ向かう。いちいちあんなのと付き合ってられるかと、冬花は小さく舌打ちをした。冬花の成績は、可もなく不可もなくだ。平均点前後を行ったり来たりしている。赤点をとったことはないが、高得点もない。つまり普通、平凡レベルだ。風が冷たく、息が白く染まる。男子はズボンなのに、なぜ女子はスカート一択なのか。強制させられなければ、スカートなんて絶対履かないのに。腰に布巻いてるだけでしかないじゃないか。それを舐めるような眼で見てくる男子も気色悪い。せめて下にジャージ履かせてほしい。
「冬花、おはよう!」
話しかけてきたのは、同じクラスの木下実来だ。仲良い友達がいない冬花にとっては、唯一の友達とも言える子だ。
「おはよ。今日も朝から元気だね。」
「名にその言い方!馬鹿にしてる?」
半場呆れ気味に吐いた言葉は、実来をプンプン怒らせた。冬花が朝弱すぎるだけだと主張してくるが、だとしてもそんなハイテンションなおはようは知らない。プンプンしながら隣を歩く実来は、クリームパンにかぶりついている。朝食を食べない冬花にとって、その行為すらあり得ないものでしかなかった。
「もうすぐテストだよ。勉強した?」
クリームで満たした口から、甘味のない質問が飛んできたが、冬花の返答は決まっている。
「したわけないじゃん。あんたはどうせすごいしてるんでしょ。」
「もちろん!うちには目標の大学があるからね!」
実来はただの元気っ子に見られがちだが、成績は優秀。成績は五段階評価で、今日までオール5である。彼女が目指している大学はかなり偏差値の高いところだが、冬花も担任も、間違いなく行けると見込んでいる。それに比べて冬花には、目標はなかった。適当に就職しようと考えているが、両親は大学に行けと行っている。片方がいなくなっても、それは健在だ。説得する気はない。自分の道は自分で決めると、強気でいた。自分で決めたはずの最善ルートなのだが、実来が輝いて目に映る理由が、冬花にはわからなかった。
「はい、それではしっかり勉強しておくように。」
ホームルームが終わると、一斉にクラスメイト達が立ち上がり、教室から去っていった。それに倣うように帰ろうとすると、実来が駆け寄ってきた。
「なに先に帰ろうとしてるの!ちょっと待ってて!」
そう言って、彼女は日直冊子を持って教室を出ていった。捕まったら仕方ない。大人しく冬花は、自分の机に戻った。教室は閑散として、さっきまで賑わっていたのが嘘みたいだ。近付いてくる足音が一つ、実来だと直感した冬花は立ち上がった。
「ほら、早く帰ろ。」
「え!?なんでわかったの!まだうち顔出してないのに!」
問いは無視して、下駄箱めがけ歩いていく。後ろから実来も追ってきている。足音が騒がしいわけではない。どこか楽しそうに歩いてくるのは、彼女の特徴だった。下校途中、好奇心旺盛な彼女は、急にわけわからない話を始めた。
「ねえ、鏡が霊界の入口って知ってる?」
ブラッディーメアリーという話でそんなことを聞いたことがある。丑三つ時に鏡合わせをすると霊界と繋がるとかなんとか。
「なんとなくは知ってるけど。なんで?」
さして興味もない話ではあったが、なぜそんな話を持ち出してきたのかを質問するのは、反射的なものだと思う。
「いやね、先生とその話になってね。だったら写ってる自分はどこにいるんだろうなって思って。」
「へー。」
「なにその興味ありませんみたいな返事!」
だって興味ないんだもんと言わんばかりの表情を冬花は浮かべていた。だが、そう言われると気にならないわけではない。確かに自分が反射しているだけだが、入口に写る自分とはなんなのだろう。考えたところでわかるわけもないと、冬花は思考と好奇心を放棄することにした。実来は別れる寸前まで考えていたが、答えがわかったら教えてねとだけ残して、彼女の帰路に消えていった。
夕飯の最中も、会話はない。たまに聴こえるのは、勉強してるのやら、大学には行けそうかやら。雑音と咀嚼音、箸がお椀をつつく音だけが食卓に並んでいた。冬花は、母親から投げられる質問は全て流していた。
「答えられないってことは、勉強してないのね。次の三者面談の時に先生にはしっかりと言っとかないとね。」
心底うんざりする。この家には、冬花の居場所はなかった。感情を捨て、ひたすら目の前のご飯に食いつく。
「お父さんも亡くなって大変なときだっていうのに、あなたはなにも協力してくれないものね。全く、なんて薄情な子なの!?」
自分が罵倒されることには慣れていた。ただこの日、冬花の口は緩くなっていたようだ。いつもは口を固く閉ざしているのに、なぜか言葉が口から漏れていた。
「親らしいことなんて、したことないくせに。」
「…なんですって?」
一度口にしてしまった不満は、落ち着きを知ることなく、ただ漏れ続けた。
「わからないの!?私に勉強しろしか言ったことないのに!?お父さんだって成績と進路のことばっかだし、いなくなったと思ったらなに?今度はお母さんが言ってくるの?私を全く助けてくれるわけでもないし、私の選択を応援してくれたこともない人のどこが母親なの!?血が繋がってるだけのものが親なら、そんなものいらない!」
箸を叩きつけ、家を飛び出した。母親の制止が聴こえたが、振り払って、聴こえないふりをした。息を切らし、辿り着いたのは近くの公園だった。体力のない冬花は、吸い込まれるようにベンチに崩れ落ちた。私はなんであんなことを言ってしまったのか。後が面倒くさくなることはわかっているのに。大きくため息をつきながら、自分の言動に後悔した。吐き出された白い息と冬花の頭の中は、同色に染まっていた。
「あれ、冬花?」
名前を呼ばれた方向を向くと、柴犬のスズの散歩をしている実来の姿があった。彼女は目を丸くして、こちらを見ている。スズはワンワンと吠えている。
「なにしてるのこんなところで。しかもそんな格好で。」
衝動で飛び出してきたせいで、部屋着姿の冬花とは対照的に、彼女はコートとマフラーを纏ってしっかりと防寒している。
「まあ、その、お母さんとちょっとね。」
「あー。冬花の家、厳しいもんね。」
察してくれた実来は、家に招いてくれた。実来の家にはよく来ている。遊びに来るというより、家にいたくないからという理由が大半だ。
「あらー!いらっしゃい冬花ちゃん。部屋に温かい飲み物持っていくわね!」
「お邪魔します。」
実来の母親は、元気で若々しい。この親にこの子である。軽く会釈して、彼女の自室へ入った。ベッドはぬいぐるみやクッションが占領していて、机には参考書がびっしりある。全体的に暖色系が多い部屋で、最初は眩しかったが、さすがにもう慣れていた。持ってきてもらったホットココアとお菓子を口にしながら、冬花はこの後どうやって家に帰るか悩んでいた。実来はお構いなしに雑談を展開する。気を遣ってくれているのを、肌で感じた。
「今日泊まっていけば?朝制服取りに行けばいいじゃん。」
時間も過ぎていった夜中、立ち上がった冬花が帰ろうとしているのに、彼女は気が付いた。
そうしたいのは山々だが、平日にお世話になるのは申し訳ない。なぜなら、土日はほぼ毎週ここに泊まっているからだ。金曜の夜から連泊することが多い。木下一家と一緒に遊園地に行くほどに馴染んでいる。
「いや、さすがに帰るよ。またすぐお邪魔するだろうし。」
「そっかー。残念。」
少ししょんぼりした実来にお礼を言って、ココアを飲み干して、部屋を出た。スズが鳴いている。泣きたいのは私だ、とよくわからない反論を心の中でしていた。
「お邪魔しました。」
「バイバイ、また明日ね。」
見送ってくれている実来を見て、少し泣きそうになった。その目に感情が出るほどの優しさが、冬花には痛かった。軽く手を振って木下家を後にした。ポケットに入っていたスマホを見ると、時間は既に二時になろうとしていた。こんな時間に外にいたのは初めてだ。車の音も、子供達のはしゃぐ音も聞こえない。真っ暗な冬花だけの世界が、そこにはあった。寒さが肌を刺すが、気にならないほど冬花は夜を満喫していた。歩くだけなのに、胸は高鳴っている。気づけば、家から離れた方向に歩いていたようで、目の前に最寄り駅があった。時刻は午前二時を回っていた。まいっかと、冬花は楽観的になっていた。風が吹く。その風は冷たい。とても沈み切った冷たさだった。思わず鳥肌が立っていた。早く帰って寝ようと、冬花は来た道を戻ろうとしたが、ある一点に眼を奪われた。それは交差点のカーブミラーだった。どこにでもある、普通の鏡。本当に鏡なのか、冬花は疑った。そこにはなにも写っていなかったからだ。黒くて、なにも反射させていない。汚れかと思ったが、近付いてみるとそうではないことは明白だった。
「なにこれ、気味悪い。」
その場を去ろうと、足を帰路に向けようとする。だがその黒い鏡を覗き込んでいると、なぜか落ち着いている自分がいた。安堵とは違うが、さっきまで悩みで満たされていた心から、鏡とは対照に澄み切っていくような。まばたきを忘れるほどに。休むことを忘れた眼の視界はやがてぼやけ、暗闇に吸い込まれていくことに気づくことすらできなかった。
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