僕たちのルール

 僕たちふたりの間のルールはひとつだけ。嫉妬はしない。どこかでもし、他の相手と一緒にいるところを見かけても、見なかったことにして立ち去る。

 ふたりでいられる時間だけ、そのときだけ恋人でいよう。いつしか僕たちはそんな暗黙のルールを設けた。




 なにしろ僕たちには縁がなかった。

 初めて彼女を知ったのは高校の文化祭のステージ。

 筝曲部の出番になり、見慣れない筝の琴を抱えてステージ上に現れた女子生徒たちの姿を僕は興味津々に見つめていた。


 ステージ中央に向かって斜めに座る配置で部員たちが勢ぞろいし、その真ん中に姿勢よく座ったのが彼女だった。


 しんと一瞬の静寂の後、弦を弾く音が響き始める。二十人ほどが奏でる琴の音が重なり合っていく演奏は幻想的だった。ただ音の洪水に圧倒される、その一瞬、音が静まり真ん中に座った彼女が単独で演奏を始めた。


 腰から折れ曲がったみたいに姿勢が良い。爪を付けた右手の指を素早く動かし、一方で腕を伸ばした左手の位置を次々に変えて弦を押さえていく。

 何がどうなってこんな音が出るのかは分からないけど、圧巻のパフォーマンスだった。


 再び音の集合が盛り上がって、リフレインになって、消えた。

 静寂を待った後、父兄の観客席から拍手が沸き起こった。もちろん僕たち生徒だって、手が痛くなるほど拍手を送った。


「うちの筝曲部ってすごいんだな」

 高揚した気分で隣の友人に話しかけると、そいつは顔を赤くして食い入るように舞台を見つめていた。

「あのさ、実はさ」

「あん?」

「あれ、オレの好きなやつ」

「え?」

「真ん中の、あいつ」

「へえ……」

「この後全国コンクールでさ、練習で忙しそうだから、それが終わったら告白しようと思ってる」

「へええ。頑張れよ」

 ちくっと少し、ひっかかりを覚えはしたけれど。この時には本当にそう思ったんだ。




 有言実行で告白を果たし、そいつはめでたく交際を始めて僕も彼女と顔を合わす機会が増えた。近くで見てもきれいな子だった。顔がというより雰囲気が上品で美しかった。


 とある体育の時間、擦りむいた手を洗いにグラウンド端にある水道に行くと、隣りの鉄棒の下で彼女がジャージ姿で体育座りしていた。授業は見学みたいだ。そういえば女子は外でバレーボールをしている。


「突き指したくないから?」

 擦り傷に付いた砂埃を洗い流してから声をかけると、彼女は少し驚いたように僕を見上げた。

「え? あ、いいえ。そういうわけでは」

「あ、ごめん。勘違い」

「ああ、うん。……でも、私程度の腕じゃ、そんな慎重になるほどのことでもないし」

 抱えた膝を引き寄せて片方の頬を当てながら顔を斜めにし、彼女は僕を見上げて笑った。


「全国だって七位止まりでさ。詳しくない人はすごいって褒めてくれるけど、上には上がいるんだあ」

「ああ。そりゃまあ、そうだよな」

 僕が頷くと、彼女は目を丸くしてからふきだした。

「ふつうはそんなことないよって否定してくれるのに、同意しちゃうんだ?」

「え。や……ごめん」

「いいよ、いいよ。正直で嬉しいよ」


 くすくすお腹を抱えて彼女は笑っている。いつもの上品な雰囲気とは少し違う。

 僕は自分が何を言おうとしてるのかも分からないまま口を開きかけた。でも。

「呼ばれてるよ?」

 集合がかかって皆が輪になって集まっている。行かなきゃならない。

 僕は後ろ髪を引かれる思いで彼女のそばを後にした。




 ほどなく彼女と友人は別れて、彼女は別の同級生と付き合い始めた。

「大事にしてたつもりだったんだけどなあ」

 喧嘩をしたり何かが起こったわけじゃない。段々としっくりこなくなってきて会わない日が続いて、気が付いたら終わっていたという。


 嘆くそいつの背中を叩きながら、またタイミングが悪かった、僕はそのことをはっきり自覚していた。憔悴している友人をよそに彼女を口説くなんてことは僕にはできなかった。


 それからは特に接点のないまま僕たちは高校を卒業した。三年間通していちばん仲が良かったはずのそいつとも連絡を取らなくなり、僕は成人式を迎えた。


 中学時代の同級生が集まる地元の成人式で彼女のうわさを聞いた。高校も同じだったメンバーが話していたのだ。


「学生結婚だってよ。相手みっつ上の社会人とかって」

「へーえ。金持ち?」

「そうじゃないかな。いいよねえ、美人は」

「美人てわけでもないんだけどなあ。モテるんだよねえ、あやかりたいわあ」

「式終わったら、部活のメンバーで合流しないかって。知り合い呼んで合コンみたいにしようって」

「ははは、言い出したの誰? そっちが目的なんじゃないの?」


 けらけら笑い合う元同級生女子たちと目が合った。誘われるのは必然だった。




 振袖や袴から着替えた後、繁華街の居酒屋に今度は高校時代の同級生が集まった。

 卒業して二年しか経ってない。なのに学生服からこなれた私服姿に変わったそいつらはみんな別人のようにきらきらして見えた。


 酒量も分からず酒を煽って男子はつぶれるのが早かったし、女子は必要以上に高い歓声をあげてコイバナを披露し合っているようだった。


「わたし、あなたのこと好きだったよ」

 そんな雑然とした喧騒の片隅で、いつの間にか隣に座っていた彼女が言った。薬指にリングの嵌まった左手でグラスを弄んでいる。

「僕も好きだった」

 すんなり言えてしまったのは、酒の力に決まってる。

「言ってくれれば良かったのに」

「ごめん」

「もうダメだね」

「うん」

 言い合いながら、僕はテーブルの下で彼女の右手をしっかりと握り閉めていた。


 お互い初めてなわけじゃないのに、一挙手一投足に怯えるように肌を合わせたのは、やっぱり罪の意識があったからだろう。口にはしなかったけど僕にも交際している女の子がいた。

 そんなことも彼女には伝わっていたのだろう。息を殺して瞳を濡らしながら、それでも微笑っていたから。


 恋人でいたいと願ったのは彼女だけなのに、かみ合わない僕たちは少しもタイミングが合わない。

「忘れようね」

 そう言って、重ねた体の熱だけを残して別れた。





 学生時代の交際相手とも結局は別れた。その後、就職してすぐに親しくなった女の子と1DKの狭いアパートで同棲しながら結婚資金を貯め、僕らは新居の購入と同時に結婚した。

 絵に描いたような新婚さんだね、そう囃し立てられて妻は嬉しそうだった。子宝にも恵まれ生活は順調だった。


 高校を卒業してから十年が過ぎて、同窓会の案内状が届いた。初の本格的な同窓会だから出席しろよ、と幹事から電話があったこともあって出席することにした。


 三十を前にして少しは落ち着きが出てきたらしく、だけど酔えばやっぱりがちゃがちゃになって二次会は特に楽しかった。

 抜け目なく名刺を配って営業アピールするような輩を尻目に思い出話をしていた時、二次会の店に彼女が現れた。女性側の幹事を相手にしきりに謝っていた。


「今のダンナが厳しいらしいよ」

「ああ、二度目の。十個くらい年上の」

「なんかね、モラハラっていうの?」

「はあー。あの子もさあ、男を途切れさせない代わりに運がないよねえ」

「男を見る目がないんだよ」

「それ言ったらさあ」


 二次会に移動する前に帰りが遅くなると家には電話しておいたがもういちど先に寝ているように念を押そうと、携帯を持って席を離れた。

 店のロビーには先客がいて、声をひそめて電話に向かって話していた。


「そう、友だちが泊まりに来ないかって。ええ、ごめんなさい……。ええ、分かってるわ、明日にはちゃんとするから……」

 通話を切り、ほっとしたように顔を上げた彼女に、僕は特に挨拶もせず話しかけた。

「ストレス溜まってる?」

「うん、そうかもね」

 にこりと笑って身を潜めるようにしていたソファから彼女は立ち上がった。相変わらず上品できれいだった。


「カラオケ行こうか?」

 彼女は戸惑うように首を傾ける。

「もしかして、行ったことない?」

「音がうるさいのが嫌なの。歌には自信がないし」

「でも大声出すと、すっきりするよ」

「……そうね」


 時間差をつけて別々に店を抜け出し、ふたりでカラオケボックスへ行った。ふたりだけなのにやたらと広い部屋に通されてしまって辟易したけど、僕たちには丁度良いと思えた。


 謙遜した割に彼女は歌が上手で、少し古い女性ミュージシャンのヒットソングを品良く歌っていた。

 二杯目の中ジョッキが空になる頃には喉が滑らかになってきたのか、学生時代には縁のなかったようなシャウト系の曲を歌い始めた。弾けて、楽しそうだった。


 おかげで掠れて声にならない吐息が余計に艶めかしくて、その後移動したベッドの上では朝まで彼女を放せなかった。


「奥さん、可愛い人だね。知ってるよ、見かけたことあるの」

 シーツを胸元に手繰り寄せながら、彼女は体育座りになって僕を見上げた。高校時代、どきっとさせられたあの角度で。

「妬かないよ。羨ましいけど」

 上品な美しさは変わらない。けれどどこか強かさを覗かせて。

「また、逢えたらね」

 そうだね、君がそう言うのなら。





 その後、彼女が夫らしい年配の男性と歩いているのを街で見かけた。彼女はそっと旦那の腕に手を添えて彼を気遣いながら歩いていた。かつてはあんなに凛として姿勢が良かった背中は、相手に合わせるように今は丸まっている。

 僕は目の端でそれを捉えながら息子の手を妻とふたりで引いて反対方向へと歩いて行った。僕らのルールそのままに。


 やがて成長した息子が就職し無事に独り立ちする時期を見計らっていた妻から、離婚届を差し出された。

「言わなくても、分かるよね?」

 僕は黙って妻に従い判を押した。





 独りに帰って侘しい暮らしの中で、再び彼女のうわさを聞いた。

「まだドレス着るつもりらしいよ」

「良いんじゃない? 美人なんだから」


 今日、彼女は三度目の結婚をする。今度もかみ合わなかったのか。僕は素知らぬ振りをしなければならないのか。そんなルールは、何のためにあったのか。


 ルールなんてクソくらえだ。初めての情動に身をゆだね、僕は体ひとつで飛び出した。




※ inspired song「届かないジェラシー」崎谷 健次郎

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