「腹が減っただろう。服はこれを着ればいい。」

 男はごそごそと押し入れを漁ると、女物のワンピースを一枚出してきてマリに渡した。  マリがこれまで着たことがないような、ピンク色の花模様のワンピースだった。マリは黙ってそれを身に着け、男がさし出してきたあんパンを食べた。

 隙を見て逃げ出すつもりだったから、小奇麗なワンピースは売れば金になるし、あんパンの夕飯も一食分金が浮いたと思えば得だと考えたのである。

 「布団な、それしかないから俺と一緒でもいいか。」

 男の長い指が、部屋の真ん中に敷きっぱなしにされた綿布団を指さす。

 寝ている間に逃がさない気だ、と、マリは察した。だから、構わない印に頷いたのは、男と眠るのに抵抗がなかったからではなく、挑むような気持だった。

 どんなふうに策略を巡らしたところで、失うもののない私を捕まえておくことなんてできない。

 男は、着替えもせずそのまま布団にもぐりこんだ。マリもそれにならった。

 スラム街で新聞紙にくるまっていた時と比べると、幾分狭いとはいえ、綿布団の温かさと清潔さはまるで天国である。マリはすぐにうとうとと眠りの縁に誘われていった。

 その淵で少し遊んでいる内に、身体を綿布団より暖かいなにかが包んだ。

 男の腕だ。背中にはぴたりと男の胸が押しあてられている。

 このまま犯されるのではなかろうか、と、警戒せねばならないはずだった。しかし男の腕は、マリの腹の上で組み合わされたっきり動かない。

 それでマリは、ああ、これも策略だ、と気が付いた。

 この男は、マリみたいに親の顔も知らないような孤児をさがしてきては一夜の宿を与え、飯を与え、清潔な服を与え、その上抱きしめて眠るのだ。そうしたら、もう孤独な孤児がスラム街には戻れなくなると知っていて。

 眠りの縁で遊んだまま、遠のく意識でマリは自分に言い聞かせる。

 にせものだ。

 こんな体温は、にせものだ。

 信じちゃいけない。にせものなんか。

 すとん、と眠りの縁に落ち込んで翌朝。習慣通り夜明けと面に目を覚ますと、男はマリの腹に手を回したまますやすやと眠っていた。

 その腕を引き離そうかと考えたマリは、目を覚まされても厄介だ、と考え直してまた目を閉じた。

 スラム街での屑物ひろいは、数分の遅れがその日の稼ぎを左右する。こんなふうに二度寝なんかするのは、物心ついてから初めてのことだった

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