夕立ち放送フィルム

枕露亜

短編:夕立ち放送フィルム

「ねえ、今日は何しよっか?」


 マヒルが部屋の壁一面にうちこまれた凹に、人差し指と中指を交互にはめ込ませる。

 大人びた容姿とは随分と離れた子供っぽい仕草に、僕は少し微笑んで、頭の箪笥を広げる。


「あっちむいてほい」

「おもしろくない」


 ツンとした表情。


「指すま」

「それこの前やった」


 マヒルの手は壁を歩くのを止めた。


「マメロン」

「それは一昨日やった」


 はあ、とわざとらしくため息をつき、胡乱な目で僕を見る。


「この暇をつぶすの、今日で二ケタ回目になったし、事前に君は仕入れてないの?」

「おっしゃるとおり」

「ああ、そう。考えなし」

「酷いな」


 僕は背もたれによりかかって、窓に視線を向ける。

 濃い灰色が空を埋め、眺めはぼかしが入ったように輪郭が曖昧だ。

 きっと、この部屋から一度出たら、遠くに雨音の地表を叩く音が聞こえることだろう。


「……止まないね」

「うん」


 たぶん今日は、僕が相槌をうった。一昨日はたしか彼女が首肯した。

 なんでもない二言で、どちらがどっちを言ったかなんて、言葉が空に飛び出たそばから覚えていないけれど、かけ合いは一種のイニシエーションみたく、マヒルと僕の間で築かれている。

 心地よい感覚と同時に、不思議なことだけれど、この儀式はもうすぐ廃れると、そう妙な確信があった。


「……あ、そうだ。アマプラ見ればよくない?」


 いきなりマヒルは名案とばかりに、自身のスマホを取り出し、口角をあげてふりふり振った。


「一応、校内でスマホつかった娯楽禁止だよ?」

「文明の利器を扱ってこそ、人間だよ。それに言葉に反して、君は私の隣にやってきた」


 ふふんと笑って、彼女は僕との間にスマホの画面を持ってきた。


「別に反してない。ただの枕詞、コロケーションだよ……で何みる?」

「映画」

「そこ、長尺をもってくるんだ」

「別にいいでしょ。夕立だからって雨がすぐに止むなんて、だあれも知らない」


 マヒルの指が検索窓をタップして、履歴がずらっと並んだ。

 なんとなく他人に踏み込んだ気がして目をそらし、自分の制服ズボン裾のしわに意味なくピントを合わせる。


「やっぱり、雨だよね。ジャンル」


 心なしかテンションの高く感じるマヒルは『雨』と適当にフリックする。検索は、しなかった。


「でも、新作は別に見たくない。今でなくていい……今見るなら、有名で私はもちろん君も見たことあるもので、ジャンルは雨」

「……これ、映画嗜み度的に僕が選ぶのか」

「もちろん。何するにしても、何するか決めるのは変わらずだよ」


 スマホをゆらゆら。ほらほらと言わんばかりに急かしてくる。だから、咄嗟に思い浮かんだものが口からでた。


「ショーシャンクの空に」


 マヒルはくるっと僕の方を向いた。


「……雨? うん、有名だけども……ジャンル、雨?」


 不満度80%の空気が流れてくるけれど、僕は求められて通りにしただけで、何のいわれもない。


「いや、雨でしょ。少なくとも雨降ってるって」

「……まあ、ね? 全然いいけど。好きだし」


 じゃあ観よっか、とパッパッと操作して、スマホを横に寝かせる。僕もスマホに片手を添えて、二人の『ショーシャンクの空に』上映会が始まった。




 灰色は過ぎ去り、黄昏も超えて、すっかりと藍色が広がる空の下、マヒルと並んで学校の玄関を出た。

 じゃくじゃく、と鳴る水気の含んだ校庭の砂は小気味良く、けれど、靴が汚れる代償を負って程の快感でもないために、ざらざらとした心のもどかしさを抱える。

 毎度、雨上がりに帰るたび感じる。


「面白かったねえ」


 浸ったようなマヒルの気の抜けた声音に呼応して、半ば無意識的に復唱する。

 ちらと隣を窺っても、彼女の貌は知れなかった。教科書的な暗順応の仕組みがざっくりと脳内をめぐり、また、話題を探った。


「そういえば、無事に鍵は返せた?」

「ええ。私、優等生ですから? 大体の理由は先生に通るし。『放送室で寝てました』って」


 彼女は一歩先に踏み出して、くるりとターンを決めて隣に舞い戻る。


「泥はね汚れる」

「水たまり周辺はちゃんと回避してるから」


 暗闇に目が慣れていないせいで分からなかったけれど、おそらく彼女は肩にかけていたバッグで背中をついてきた。思わず、うおっと声が出て彼女の方に振り向く。


「そんな顔するんだ」


 不公平なことに、きっと、彼女は笑顔なんだろう。


 そのまま、校門まで益体のない話を続けて、いつもみたく学校を出てすぐの横断歩道前で立ち止まった。


「戻り梅雨、ようやく終わるって。明日も、明後日も、明々後日も、晴れ」


 向き合う彼女はエピローグを紡ぐ。僕は長かった、と返した。


「なんだかんだ、色んなことしたね、私たち」


 夜、街灯に照らされるマヒルは薄く微笑む。

 約一か月、三日に一回くらいに繋がる、傘忘れ同士の関係。

 ここは素直に、思った言葉がすんなりと口から出た。


「楽しかった」

「私も」


 歩行者信号が青になった。僕は渡らないけれど、彼女は渡る。


「じゃあ」

「うん」


 彼女は笑顔で頷いて、横断歩道に足を踏み出し、薄くアスファルトに張っていた水がはねる。

 そして、僕に向かって手をあげた。


「さよなら」


 陰で顔の見えない彼女の手には、折り畳み傘が握られていた。



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