第16話


 翌日。


 久々にのんびり寝て、美味しい朝ごはんを食べ、デザートのバナナを手に持ちながらナディアは解放感を味わっていた。そのあと剣の手入れをし、昼食を食べたあと、侯爵邸を後にした。


 南に向かって坂を下っていく。二十分も歩けば高級を扱う店が並ぶ大通りにでる。その通りの端にある噴水の横のベンチに腰を掛けた。初夏と呼ぶにはまだ早いけれど、日差しは強さを増している。


「ナディア」


 聞き慣れた懐かしい声の向こうには畏まった装いのエドワード。


「どうしたの?」

「二時間後に婚約者の家に行くんだ。お前のために着飾ったわけではないぞ」

「それを聞いて安心したわ」


 二人は幾つかの店をまわり、最終的には宝石屋にきた。店員があるこれ出すのを見ながら、エドワードが真剣な目で質問する。


 瞳の色と同じエメラルドの宝石を吟味するエドワードに、したり顔でこの前聞いたばかりの宝石の蘊蓄を語る。聞き齧った話だけれど、やっぱり連れてきて良かったとえらく感謝された。


 一時間ほど、たっぷり時間をかけ、エドワードは贈り物が決めた。店を出たところでエドワードがナディアを振りかえる。


「まだ時間があるから、お茶ぐらい奢るよ」

「お酒がいい」

「……思考回路がオヤジだな」


 それなら早めに婚約者の家に行こうかと呟くエドワードの前に大きな影が立ち塞がった。


「なんだ、お前……えっ?」

「イーサン様?」


 そこにはマルシェに行った時と同じ姿のイーサンがいた。


「どうされたのですか?」

「あ、あぁ……ちょっとこの辺りに用事があってな。ナディアこそ、珍しいな、その、こんな場所で」


 イーサンはナディア達が出てきた店と、エドワードが手に持つ小さな袋を交互に見る。ついでにエドワードに鋭い視線を投げつけた。


「あっ、これは私の婚約者へのプレゼントでして。その、ナディアに選ぶのを手伝って貰いました」

「そうか、ではもう用事は済んだわけだ」

「は、はい。では、その、失礼します」


 エドワードは騎士らしく、ビシッと礼をするとかなりの早足で逃げて……立ち去って行った。あとに残されたナディアは、戸惑いがちにイーサンを見上げる。


「えーと、イーサン様のご用はもう終わったのですか?」

「あ、あぁ。そうだな、今終わった」

「今?」


 ナディアは首を傾げるも、黄色い瞳があらぬ方を見ているので、それ以上の質問はやめておいた。


「せっかくだから、お茶でもするか?」

「お茶、ですか」


 高級な店にが多いこの通りには、お洒落なカフェが多い。時刻は夕方。もちろん、ケーキ一つぐらい食べてもいいのだけれど、


「イーサン様、甘いもの好きですか?」

「……食べるときもあるぞ。ナディアは好きだろう?」

「いえ、辛党です。甘ったるいのは胸焼けがするので」

「そ、そうか」


 ナディアは赤い夕陽を見て、あることを思いついた。イーサンと一緒なら多少帰りが遅くなっても問題ないだろ。


「海に行きませんか? 私のお気に入りの場所をご紹介いたします。あっ、でも護衛が帰ってしまいました。護衛なしで出掛けてはいけないのですよね?」

「それなら俺がいるから問題ないだろう。今日は剣も持ってきた」

「……イーサン様は護衛される方です」


 暫くの沈黙ののち二人は海に向かって歩き始めた。二人とも、自分が護衛の役を果たせばよいと結論づけていた。


 海に行くのに、庶民の住宅街を通り抜ける道を選んだ。マルシェで泥棒が入り込んだ細い路地のような場所ではない。道は細いけれど、東西南北に整備されている。小さいけれど庭のある赤い屋根の家が立ち並ぶ区画だ。


「この街の中間層が暮らす区画です。海の仕事、商人が多く、あと職人も住んでいます」


 イーサンが街の様子を知りたがっていたのを思い出して、この道を選んだのだ。ついでに、と手頃な店で麦酒とつまみを買った。そして、港ではなく切り立った崖の方へと進んでいく。


 崖の上には、高く白い塀に囲まれた灯台が建っている。塀の高さは三メートル弱。石が積み重なるった塀の一部が扉になっているけれど、大きな錠が付いている。


「こちらです」


 ナディア扉の右側にあ進むと、少し石が飛び出している所で立ち止まった。そしてそこに脚を掛けるとひょいっと身体を持ち上げ右手を塀の上にかけた。そのまま左手も塀の上に置くとあっと言う間に塀の上に飛び乗った。


「イーサン様、麦酒を」


 右手を差し出し、イーサンから麦酒を受け取るともう一度手を差し出した。


「手を御貸しいたします」

「……紳士的な態度は見習うべきものがあるが不要だ。というからその細腕では俺を持ち上げるのは無理だろう」


 イーサンは苦笑いを浮かべるとナディアと同じようにして塀の上に乗った。塀を乗り越えた二人は、灯台の扉の前に立つけれど、こちらもやはり鍵がかかっている。


 ナディアは扉の上の小窓を指さした。


「私があそこから中に入って扉を開けます。今日はスカートですのでちょっと後ろを向いててください」


 扉の上の窓は小さく、イーサンの身体では入りそうになかったので素直に後ろを向いた。

 一応目も瞑っておいた。こういう生真面目さが時折自分でも嫌になると一人ごちた。


 ナディアは扉の取っ手に脚を掛けると窓枠に手をかけ、身体を持ち上げるとするりと中に入った。内側から鍵をあけ、イーサンを中に招きいれる。


「すごく手慣れた様子でここまで来たけれど、どう考えてもこの灯台は立ち入り禁止だよな」

「そういうことになっています。でも、結構皆使っていますよ。不埒な方々が夜になると彼女や彼女じゃない人を連れ込んだりしていますから」


 イーサンは思わず眉を下げ首を傾げる。


(だとすれば俺は連れ込まれた側になるのだろうか。それは嬉しいのか情けないのかどっちなんだ)


 もちろんナディアにそんな気がないのは十分理解している。

 ただ、ナディアといると、紳士として男としての振る舞いを全て先にされている気がする。しかもそれが格好良くて様になっている。


 今もナディアは先に立って階段を上がっている。

 見るつもりはなかったけれど、その細い腰にどうしても目がいく。

 今日も脚に剣を付けているのだろうかと思うと、次は太ももに目がいく。

 不埒な男が女を連れ込む……そんな言葉が頭をよぎれば形の良い尻に……


  ばしっ


 後ろから皮膚を叩く音がして、ナディアが慌てて振り向くとなぜか右頬を赤くしたイーサンがいる。


「……どうしました?」

「ちょっと頬に虫がいたから叩いたのだ」

「虫ですか……」


 首を傾げるルナディアを見ながら、まさか邪な虫を叩いたとは言えずイーサンは口をへの字にした。


 くるくると螺旋階段を上った先に扉があり、外に出ると強い海風がナディアの髪をはためかせた。高さ十数メートル、灯台の周りをぐるりと囲むように幅三メートルほどの足場がある。腰の高さほどしかない古びた柵はあるけれど、どう見ても気休めだ。体重をかけたら柵ごと下に落ちるだろう。


 海は東側にある。すでに夜のとばりが降りていて、薄っすらと空と海の境界線が分かるぐらいだ。空には小さな星が一つ見えた。そのまま反対側に向かえば、夕日が公爵邸の後ろに沈もうとしている。丘の公爵邸から海かけてなだらかな坂となっていて、白壁に青い屋根の家が立ち並んでいる。

 この辺りは夏気温が上がるので、室内の温度を下げるために全て石灰をもとにした白壁で家は建てられる。屋根や窓枠が青いのは、それがこの辺りで一番手に入りやすい染料だからだ。


「綺麗だな。街並みを含め、もとは城だけあって絵になる」

「今の主はイーサン様です」

「別に臨んだわけではない。俺は異国の地で、独りで生きたかった」


(以前にも、家族を持つつもりはないっておっしゃってた)


 夕陽を受け、金色に輝く瞳はとても辛く寂しそうに見えた。

 ナディアは黙って麦酒瓶を手渡した。そしてぺたんと座ると灯台の壁を背もたれにした。イーサンもその隣に腰をおろした。


「一番上の兄の子供は双子の男の子だ。あと数年して彼らが成人したらこの国を任せたいと思っている」

「イーサン様はどうされるのですか?」

「カーデラン国は俺にとって生きやすい場所ではない。また、異国に行くか、船乗りになってもよい」


(それは、イーサン様が悪魔と呼ばれる悪評が関係しているのかしら)


 ナディアは、強面ではあるけれど、不器用で生真面目な男の横顔を見ながら、様々な言葉と感情を一緒に麦酒で流し込んだ。


 海から山に向けて吹く風が心地よい。夕陽を背景に白壁と青い屋根が連なる景色を二人は黙って眺めていた。

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