エピローグ 紺碧の世界の果てで

 私は気が付けば、誰かと一緒に果て無き道を歩いていた。

 誰かは私の手を取って道の先を指さしてくれた。

 道の先は霧に覆われ、周囲もよく見れば霧に覆われているその中で誰かは懸命にその先へ行こうと私を説得した。

 説得の内にある心地よい言葉の羅列と安らぎは私の心に火を灯してくれた。

 誰かは笑っていた。その手にはクレヨンで描かれた絵本を持っていた。

 行こう。果て無き世界の果てへ――


「……ん?」


 瞼を開く。最初に広がったのは際限なく広がる青い空。

 そして起き上がって見れば白い砂浜に果てのない青い海。


「なんだよ、夢か。久しぶりにいい夢見てたのに」


 起き上がるとタカカミは背伸びをして辺りを見渡した。

 そこは彼にとって美しい場所であった。


 そこは世界のどこかにある孤島E。タカカミが最初に神となった時に目覚めた場所。島は円のような形で日光によって煌めく砂浜と穏やかで雄大な波音を鳴らすその海辺が特徴的だった。島の中心には崖とそれを囲う森があった。

 タカカミが自分の部屋を飛び出してからかなりの年月が経過していた。新調した青のロングコートもいつの間にか以前のロングコート以上に擦り切れており、持っていたリュックサックもどこかに本ごと置いて行った。でも彼はそれをさほど気にしなかった。


(持ち出した本、全部読んじゃったしな。荷物も何も邪魔でどっかで……確か島から飛び立ってここに向かおうとした時よりも前に置いてったんだよな)


 長い間歩いて、タカカミはついにはこの場所に来たというよりは戻っていた。彼にとってそこは美しい場所でできればずっとそこにいたいとすら思っていた程である。


(外に出て……どれだけの日々が経った?あれ?そもそもなんで外に出たんだっけ?)


 困惑しながらもこの日、彼は海に向かって歩き始めた。砂浜から波に入るとその足に冷たい感触が走る。


――美しい。色も音も


 コートがなびく程度の潮風は彼の体に癒しを与え、その心は波音の音色で洗い流されていた。その心には数多の傷跡があった。幼少期から始まった侮蔑と嘲笑による傷。高校時代に経験した差別と暴力によって道を閉ざされたことによって生まれた傷。そして生きてほしいと願った者の死によって生まれた傷。それらの心の傷は完全に癒えることはない。だがこの瞬間、この海辺にいる時だけはそれら全てを忘れることが出来ていた。


(いい風だ。本当に)


 癒えぬ傷は治せなくても忘れる事は出来た。

 それはギャンブルによる熱よりも、傷つけてきた相手をむごったらしく痛めつけてその家族や親しきものを虐殺していた時よりも傷に対し、遥かな効き目を感じていた。

 視界には何処までも広がる青空と紺碧の世界。純白に煌めく砂浜の感触が足元に広がり、潮風の匂いに耳に響く波の音。ふと気になって波に手を触れ、濡れたその指をはしたないと思いながら舌で舐める。苦い顔になって変な声を出した。生まれて初めて感じたその塩辛さがどうにも強烈だったらしい。


――もっと……もっと早く知りたかった。この場所を、光景を。味を


 涙を流しては波の方へと足を進めていき、一歩、また一歩と彼は海辺にその体を足元からゆっくりと浸していく。足は止まることなくゆっくりと進んでいき、ついには腰まで浸りだしていた。


――どうして誰もこの事を教えてくれなかった?あの日よりも前に光景に出会っていたらきっと俺は立ち直っていたのに。この光景があればどんな苦しみも耐えていたのに。折れずに済んだのに。皆を殺さずに済んだ……済んだのか?


 タカカミの足が止まった。もしそれが本当なら彼は今頃はと思いを馳せる。


「馬鹿じゃないか?今更過ぎる」


 しかしすぐに自嘲気味に笑った。その時である。


「あれ?」


 日光によって海にいくつもの煌めきが走った。

 タカカミはそれをじっと見ていた。


「……スズノカ?そこにいるのか?」


 突拍子もなくいくつもの煌めきに対して問いかけた。

 煌めきの群れはさらに光って彼に呼びかけるようであった。


「……なんだよ。そこにいたのかよ」


 そしてまた歩き出す。海の方へ、その水の中へ。

 やがて彼の体が完全に水に浸る。しかし神である彼が溺れ死ぬことはない。歩み続け、海の底へと彼の足は止まることなく進んでいく。やがて数刻の時が流れた。


(……これは)


 彼は海中の世界をてどこか心を奪われていた。

 地上とは違う紺碧の世界。幾つもの岩とデコボコの大地にそこから生えて揺れる海藻。揺果てのないそこに太陽の光によって照らされたその世界は確実にタカカミの心を捉えていた。


(いやそれより――)


 奪われてばかりの彼はハッとして周囲を見渡すと方角を定めてその方へ歩み始めた。そしてある程度歩いた先でいつしか暗闇に遭遇。その時、手から光で周囲を照らし、さらに歩いた。

 長い事歩き、ついに彼は大きな溝が走っていた場所を見つけた。


(スズノカ、ここにいるのか?)


 彼女の存在を信じてその溝に彼はためらいなく飛び込んだ。周囲の暗闇が深まるのを彼は感じた。


(これが……彼女の求めていた場所なのか?)


 いつの間にかその闇に吸い寄せられていた。感覚としてはそれだった。

 紺碧と純白の世界からさらに進んで行った先の暗闇で見つけたそこで彼は体を預けるようにしてゆっくりとその場所へと沈んでいく。

 光と共に溝の底へと落ちていくタタカミ。安らかな表情で眠りにつくように彼は瞳を閉じた。


(もっとだ。もっと……もっとこの感じを俺に……)






 誰かの声がした。

 その声に瞼を開く。

 そこには緑の草原と青空。そして自分の手を引く誰か。

 その手にはやはり絵本があった。

 誰かの手をぎゅっと握った。もっとその温もりを味わいたくて。誰にも渡したくなくて。その誰かを引き寄せて抱きしめた。でも温もりは消えていた。何かがその手に、ドロリとした何かが付き始めて――


「……あ」


 瞼を開いた。相も変わらず暗闇の中。未だに消えぬあの日の感触。

 

(なんでこんなところに俺はいるんだ?この暗闇の中に。どうしてここに彼女がいるって思った?なんで彼女がこんなところにいると思ってる?俺は狂ったのか?)


 暗闇ではあったが彼は自分自身が暗い表情をしているとわかっていた。


(馬鹿だ。俺は。あんな悍ましいことして。そうまでして俺は何を望んでいた?)


 今更ながらに彼は自分の行いを後悔した。


――あぁ、夢が見てぇ


 そこで彼は気づいた。昏仕儀タカカミの願いとは何かを。


(そうだ。夢だ。夢を見よう。夢を見てるから俺は生きてるって感じを得ていたんだ。その時が、その過程が俺は何よりも恋しかった。学生時代に苦しいバイトをしながらも夢があったからそこに近づいている感触を得ていたから生きて居られたんだ。ギャンブルもそうだ。沢山のお金を掴むために熱くなって金を突っ込んでいた。そして彼女に導かれて蒼き星の神になるという夢があって俺はその過程でも生きてる実感を得ていたんだ。そしてその過程で新しい夢を見たんだ。なら俺はここで、この場所で夢を見ればいいんだ。長い夢を見よう。生きてるって感じでずっと幸せになれる夢を……永遠に)


 嘘と暴力に晒されて擦り切れ、儀式の元に神へと昇華して、全てを裁いて世界を滅し、その果てに彷徨い続けた一つの魂。それは暗闇の世界にて輝く願いを内に秘めて沈んでいった。


 その願いには生きる希望があった。

 その願いには情熱があった。

 その願いには優しい感情が込められていた。

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