第33話 恋情的に

 「斗真とうまー、椎名しいなっちー!」

観覧席の上の方から、たくみの声が聞こえた。

「集合だって!」いつきと一緒に、2人に向かって手招きをしている。

「さてと、行くか」

背伸びをしながら、立ち上がった斗真を見上げた夏人は、まだ少し赤い顔をしている。

「ま、俺の独り言だから、あんま気にすんな!」

そう言って笑う斗真に、いや、気にするよ…、と夏人は苦笑いをした。



 「皆んな、ほんとにお疲れさまでした!」

施設の出入り口にある階段下に、青華高校あおこう水泳部員は集合していた。

「先生、少し泣いてる?」

樹が秋月あきつきの顔を覗き込んで、クスクスと笑った。

「いや、部活動の正顧問になったの初めてなので…。皆んなの頑張りが、こんなに感動するなんて想像以上で…。すみません…」

「そういうとこ、秋ちゃんセンセらしいよ!」

涙目の秋月の肩に、巧が腕を回す。



 「と言っても、結果出したの、柊と斗真の2人だけだったけどなぁ」

樹の言う通り、地区予選に進んだのは、柊の自由形100mと200m。それに斗真のバタフライ100mだ。他の3人は、予選落ちとなった。

「ま、俺と樹は、元々大したことないから、いいんだけど」

「椎名っちだよな、一番驚いたのは…」

そう言った巧に秋月も、斗真も、樹も、大きく頷いた。


 「え?俺予選落ちたけど…」

キョトン顔をした夏人に、全員が首を横に振った。

「結果じゃないんですよ、椎名くん!」

秋月が、いつものように熱く語り出した。


 「そもそも、2年ものブランクがある上に、2年生になって、急遽自由形から背泳ぎに転向したじゃないですか!その僅か2ヵ月足らずで、100mも200mも、準決まで行ったんですよ!」

「そうだよ、それってすげーんだよ。お前わかってる?」

斗真も秋月に乗っかった。

「しかも、200mなんか、標準タイムまで、あと0.2秒だっけ?」

「もう、手が届くじゃん!」

樹と巧が嬉しそうに話すのを見たら、競泳の0.2秒って果てしない差だけど…、とは言い出せなかった。


 しかし、夏人は単純に嬉しかった。

こうして、自分の泳ぎを認めてくれる仲間がいることを。自分の為に喜んでくれることを。

 きっと生前の陸玖りくは、こんな楽しさも教えたかったのかもしれない。

そう夏人は思った。



「あれ?」

そういえば一番喜んでくれるひいらぎの姿がない。

「えっと、柊くんは…?」

「え?今更気付いたの?」

巧がゲラゲラと笑った。

「柊くんなら、表彰式が終わってすぐ、先に帰りましたよ」

そう秋月に言われた夏人は、不思議そうな顔をした。


 「アイツのルーティンだよ」

斗真が夏人に教える。

「公式戦が終わるとすぐ帰って、1人反省会するんだよ」

「1人反省会?」

「そう、大体いつも学校かスイミングで泳いでるんだ」

「泳ぐって…。試合で6本も泳いで、さっきもサブプールでクールダウンしてたのに?」

オーバーワークだよ、と夏人は言いかけた。


 「心配すんな!さらっと流してるだけだから」

オーバーワークという夏人の言葉に、巧は笑ってそう重ねた。


 「では、解散しましょう!今日は美味しいもの食べて、ゆっくり休んでくださいね!」

と締めた秋月に「お疲れっした!」と各々荷物を持ち、地下鉄に向かって歩き出した。

 ふと夏人は誰かに肩を叩かれた。

振り返ると「柊、今学校にいるよ」と小声で言う斗真の笑顔があった。




 そっとプールに近づくと、斗真の言う通り、柊がゆっくりと泳ぐ姿があった。

一日中青かった空は、少しずつオレンジ色になろうとしている。


 自宅とは反対方向の地下鉄に乗った夏人の足は、自然と学校に向かった。

「柊、今学校にいるよ」そう斗真に耳打ちされた夏人は、居ても立っても居られなかった。直接「おめでとう」を言いたい。いや、それはこじつけだ。

柊の顔が見たい、柊と話がしたい。

それが本音だ。

 

  

 一頻ひとしきり泳いだ柊が水から顔を出すと、目の前に夏人がいた。

「うわ!!!!」

飛び込み台の隣で、ちょこんと体育座りをしている夏人を見た柊は、驚きのあまり叫び声に似た声を発した。

「お、お前!驚かすなよ!」

柊はバクバクしている胸に拳を当てた。

「ははは、ごめん、ごめん!」

『ドッキリ大成功!』みたいな顔をして喜んでいる夏人。その笑顔を見た柊も、思わず笑った。



「斗真くんからここだろうって聞いて」

「俺のかっこいいルーティーン聞いたの?」

「うん、聞いた。かっこいい!」

夏人はクスクスと笑っている。

  

 まだ水の中にいる柊は、夏人を見上げている。

そういえばここで初めて会った時は逆だったな、と柊は思った。

夏人を見下ろしているのは自分だったと、思い出していた。


 端正な顔立ち。華奢だけど、そこそこに鍛えられた体。オレンジがかった髪色。少しハスキーで綺麗な声。そして美しい背泳ぎをする同級生の椎名夏人。

 初めはそれくらいしか知らなかった。


だが友達になって日が経つにつれ、夏人を知れば知るほど、柊は夏人に惹かれていった。

 言葉足らずのところも、猫好きなところも、ワンテンポずれて笑うところも、微かに甘い香りがするところも。


 そして、実の父を亡くし、大好きな義兄を亡くし、泳ぎを辞め、自分を責め、もがき苦しんだ夏人も。それでも、前に進もうと歩き出した夏人も。

全てが柊は『愛おしい』のだ。


 

 夏人を見上げている柊は、この抑えても溢れ出る想いを、今すぐにでも伝えたかった。

だが、柊は怖かった。

 男に告られたって、気味悪がられて終わりだ。せっかく夏人が過去を受け入れて、歩き出したのに…。それにめっちゃ拒否られたら、俺が立ち直れない…かも。

そんな思考が、柊の頭の中でグルグルと回っている。

 

 うわー、俺、自分勝手だよな。最悪……。

柊は溜め息を吐いた。


 その時、左利きの夏人が、敢えて右手を差し出してきた。

そろそろ上がったら?と言わんばかりの顔だ。

「…………うん」

柊も右手を伸ばした。

 

 柊と、夏人の指が僅かに触れた瞬間、突然風の音も、水の音も、聞こえなくなった。

まるで、無音の世界に2人きりになったようだった。

 しかし、少しハスキーで綺麗な夏人の声だけが、微かに、だがはっきりと柊に届いていた。


「俺、柊くんが好きだよ。友達としてではなく、恋情的な意味で…」



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