第14話 椎名陸玖

 夏人なつとが水泳部に入部する。それは自分自身が良ければいい話ではない。夏人にとって、家族の同意も必要なのだ。

 初詣から帰ってきた夏人は、直ぐに姉の部屋をノックした。

「おかえり。案外早かったね!」

みのりは笑顔でドアを開け、どうしたの?と聞いてきた。

「ん、姉ちゃんに話があって。聞いてくれる?」

そう言った夏人は、何か決意したような、覚悟を決めたような表情をしていた。

 こんな夏人の顔見るの久し振りかも・・・。

みのりの胸はわずかに高鳴った。


 みのりはベッドに座り、友達とのLINEのやりとりを止めて、スマホを手元に置いた。

夏人はカーペットに正座をし、みのりを見上げ、口を開く。

「俺、水泳部に入ろうと思うんだ」

「・・・・・・え?」

みのりの瞳が大きく開く。

泳いでみたい」

「・・・・・・・・」

みのりは言葉が見つからない。沈黙の時間が流れた。

「姉ちゃん、どう思う?」

夏人は相談しているように見えて、実は既に決めているのだろう、とみのりは理解した。


 突然みのりの脳裏に、これまでの出来事が浮かんできた。そして気が付いた。

「もしかして、今日一緒に初詣に行った友達って、水泳部の子?」

「うん。柊祐介ひいらぎゆうすけくんって友達」

「一緒に勉強するって言った友達も?」

「うん」

「年末、猫を見せてくれるって言った友達も?」

「うん。全部柊くんだよ」


 みのりは愕然としていた。

弟の心を溶かしてくれて、小さな変化をもたらしてくれていたのが、まさか水泳部の子だったなんて・・・。

 黙っているみのりに、夏人は話を続ける。

「去年、俺がプールに忍び込んでいたのを見つけたのが柊くんで。それから、水泳部に誘ってきたんだ、お前の泳ぎがキレイだからって・・・」

 夏人は自画自賛しているようで照れ臭くなったのか、少し顔を赤らめて話を続けた。


 「もちろん、最初は断ったよ。でもそれから柊くんは水泳の話には触れずに、普通に友達として接してくれて・・・」

「俺の知らないことを教えてくれたり、知らない場所に連れて行ってくれたり」

「それに」

みのりを見ている夏人の顔は穏やかだ。

「柊くんは明るくて、みんなに優しくてさ、友達がたくさんいるんだ。だからこんな俺にも柊くんを通じて友達が増えて。今、学校が楽しいかもって、思えてきてる」


 みのりは弟の変化には気付いていた。

気付いてはいたが、ここまで大きく夏人が変わっていたとは、驚きだった。

 こんなにコロコロと表情が変わる夏人にも。

学校が楽しいと言う夏人にも。

なにより、泳ぎたいと言う夏人にも。

 全てが驚きだった。


「今日柊くんが言ったんだ」

夏人は真っ直ぐにみのりを見つめた。

「『夏人はよく下を見てる。俺なんかってすぐうつむく。でも俺はお前に上を見て欲しい。前を向いて欲しい。お前には好きなことをして、笑っていて欲しい。俺はその手助けをしたい。お前の可能性を引っ張りあげたい』って」

 夏人は、神社での出来事を思い出しているのか、どこか嬉しそうだ。


「どうしてそこまで?って聞いたらさ。『大事な友達に笑顔でいて欲しいって思うのは当たり前だろ?』って笑うんだ」

 夏人は、着ているセーターの胸の辺りをギュッと掴んだ。

「姉ちゃん、柊くんが言ってることって・・・」

「うん。そうだね・・・。覚えているよ・・・」

みのりは大きく深呼吸をした。

「死んだ、陸玖りくにぃと同じこと言ってるね」

 

 みのりは、ローチェストの上に飾ってある写真に目を向けた。

そこには、金のメダルを首から下げた高校1年生の陸玖りくが、プールサイドで中学生の夏人とみのりの肩を抱き寄せている、一枚の写真がある。

 3人とも嬉しそうだ。特に陸玖は、腰を屈ませて妹弟きょうだいに顔の位置を合わせ、幸せそうに笑っている。


 「ただ、一つだけ・・・」

夏人もみのりと同じように、写真の陸玖の笑顔を見ながら言った。

「俺だけ好きなことして、笑っていいのかな。陸玖兄だって、もっとずっと笑ってたかったはずなのに。それに・・・」

「母さんは許してくれるかな」

 あれから2年が過ぎても、夏人は責任を感じ、大きな大きな後悔を背負っている。無理もない。当時の夏人はまだ、14歳の子供だった。

 みのりも15歳と、同じ子供だったが、きっと弟の方が、何倍も何十倍も苦しんできたと想像できる。


 「柊くんに、陸玖兄のことは?」

夏人はフルフルと首を横に振った。

「まだ言ってない。水泳辞めた理由が何かあるだろう、と気付いているみたいだけど・・・」

「いつか話さないといけないかもしれないけど、まだ怖い・・・かな」

「そっか」

みのりも弟の怖さが分かるような気がした。

 そんなみのりも、陸玖のことを話している友達はいない。

唯一知っているのは、みのりが今付き合っている彼氏だけだ。彼は陸玖の後輩でもあったので当然、陸玖の死も、死の理由も知っている。


 「でも、泳ぎたい気持ちは変わらないんでしょ?」

みのりの言葉に、コクンと頷いた。

「水、怖くない?」

「まだ、ちゃんと泳いでないから、絶対、とは言えないけど・・・」

「多分大丈夫、だと思う」

柊くんたちと一緒だし、と夏人は付け加えた。

「それより、母さんのことが心配で・・・」

「そっか。うん、そうだよね」

みのりは再び、写真の中の陸玖を見た。



 ダイニングテーブルに両親と向かい合った夏人は、かなり緊張していた。

みのりに『泳ぎたい』と正直に思いを伝えた次の日。

「お父さんたちにも話さないと」と言ったみのりが、この時間をセッティングしてくれたのだ。

 正月2日のテレビは、どのチャンネルもバラエティ番組ばかりで、うるさいほどだった。

みのりは、そんな特番しか放送していないテレビを消した。

 コーヒーを煎れながら、改まってどうしたの?と微笑む母の顔を、夏人は直視できない。

隣に座っていたみのりが、夏人の冷たい拳に、そっと左手を置いてくれた。

 

 夏人の頭に、柊の笑顔と言葉が浮かぶ。

『お前には好きなことをして、笑っていて欲しい』

 

 それからは、せきを切ったように、自分の気持ちを伝えまくった。

学校が楽しくなってきたこと。学食が安くて美味しいこと。話せる友達が増えてきたこと。その新しい友達とサッカーをすると、上手い!と褒められたこと。帰りのコンビニで食べる肉まんが美味しいこと。

 そして・・・。

柊祐介、という大事な友達ができて、彼と一緒に泳ぎたい、と思っていること。

陸玖兄が大好きだった水泳で、陸玖兄が見ていた景色を見てみたい、と思っていること。

 

 マグカップを両手で握っていた母彩乃あやのは小さく震えている。

俯いていて、顔は見えないが、多分泣いているのだろう。

 そして、そのまま立ち上がり、母は自分の部屋に入ってしまった。

「・・・・・・・。」

数秒間、暗く重い沈黙の時間が流れた。

「母さん、また発作起こさないよね?」

夏人が恐る恐る父に聞いた。みのりも不安そうな顔をしている。


 「大丈夫だよ。お母さんのことは任せなさい」

父は努めて明るい声を出した。

「それより・・・」父が夏人を見つめた。

「ずっと自分を責めて、苦しんで・・・。そのうち感情そのものを、上手く表現できなくなっていた夏人が、自分から好きなことをしたい!と話してくれたのが、父さんは嬉しいよ」

「しかも、陸玖が大好きだった水泳を、まだ好きだと言ってくれるなんて・・・」

父はうっすらと涙を溜めている。

 そして「水はもう怖くないか?」と夏人を気遣った。

「夏人が本気で水泳をしたいなら、父さんは応援するよ!」

この人は、本当に優しい人だ。母がこの人を好きになった理由がよく分かる。

 

 隣に居るみのりは、ポロポロと涙を流している。

夏人も泣きそうだった。

「大丈夫。俺もっと強くなるから・・・。それに1人じゃないし・・・」

父と姉を交互に見た夏人に、父は安堵の表情を見せた。

「いつか、母さんにもわかってもらえるように、強くなる」

夏人は独り言のように、母の部屋の方向を見て、ポツリと言った。

 『強くなる』という言葉が、正しい選択かどうか夏人には分からなかったが、今はこれが精一杯の言葉だった。


 自分の部屋に戻った夏人は、ベッドに横になり、天井を見つめていた。

すると、さっきまでドクンドクンと規則正しく動いていた心臓が、急に止まりそうになる感覚に襲われた。苦しくなり、思わず体を丸める。

「陸玖兄・・・」

夏人は声にならない声を出す。


 やっぱり母さんにはまだ許してもらえていないよ・・・。

 当たり前だよね。

 だって、俺が陸玖兄を殺したんだから・・・。


 

 

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