東京の思い出
@bingoyotaro
全1話
私は東京が嫌いである。
第一印象が悪かった。
もう50年近くも昔の話になるが、東京の某私立大学(以後「W大学」)に受かって広島から上京し、下宿先に着いた時のことである。
そこは新宿区内の2階建ての一軒家で、近くを首都高の環状8号線が通っていた。
敷地は30坪くらいだったろうか。そこに大家の家族4人が住んでいた。
50代の主人は都内の食品会社に勤めていて、空いた部屋が下の階に2部屋あるので、そこに学生を住まわせていたのだ。日当たりは悪く、高速道路を走る車の音で深夜までうるさかった。
50代の奥さんが朝と夜の食事の世話をしてくれる。
一か月の家賃は食費込みで2万6千円だった。
子供は2人いたが、長男は既に大学を出て大阪の会社に勤めていた。残っていたのは小学6年生になる次男だが、主人の70代後半になる母親(姑)も同居していた。
そこで暮らし初めてすぐ私は下宿先のおばさんにこう言われた。
「あなたは長男だから、大学を卒業したら地元に帰りなさい。」
私はびっくりした。
まだ東京に出てきたばかりだというのに、なぜ、いきなりもう帰る話が出てくるのだろう。
そして、そこの姑にもやはりすぐに同じことを言われた。
「あんたは、東京にはいない方がいい。長男なんだし、帰った方がいい。」
私はこの時、地方出身者は東京で歓迎されないのだろうかと薄々感じ始めた。
そして、しばらくしてバイトを見つけた。
出版社のトラック助手である。
そこでも、トラックの運転手の人からいきなりこう言われた。
「おまえ何で東京に出てきたんだよ?」
「はぁ?」
「何も東京に出てこなくたって広島にも大学があるだろう?」
「いや、受験雑誌にW大学は名門の大学で就職するのにも有利だと書いてあったもんですから。」
東京在住で生粋の江戸っ子である運転手は、ふんと鼻を鳴らして、私を馬鹿にしたような態度を取った。
「おまえもアホだな。本に書いてあることを鵜呑みにしたのか?」
運転手は続けた。
「おまえらみたいな何も知らない若者が東京に出てくるから、東京が住みにくくなってかなわないんだよ。」
私はその時実感した。
受験雑誌に書いてあることをそのまま信じた自分が馬鹿だったのだ。
東京がこうまで地方出身者を歓迎していないということを、誰も教えてはくれなかった。
やがて私は就職に際して一番有利に働くのはコネであることを知ることになる。
運転手は自分が日大の出身であることや、大学時代は水泳部に所属していたことなとを話した。
私は運転手だから高卒なのかと思っていたが、そうではなかったのだ。
W大の学生だからといって「偏差値の高い大学だな」と特別視することもまるっきりなかった。
「おまえみたいなW大出身者や京大出身者も俺の会社にはいるぜ。別に大したことはないがな。」
彼は鼻で笑った。
「見ろよこの光景。」
そう言って彼は運転席の窓の前を指さした。
自動車の排気ガスが舞い上がる、空気の悪いごみごみした街中を多くの人が行き交っている。若者やサラリーマン、主婦らしき人や年輩の人など、ここまで多くの人混みを見るのは私自身にとっても初めての体験であった。
「ろくでもない人間だらけだろう。こいつらみたいな連中が多いから東京が住みにくくなるんだ。家賃は高くなるし、満員電車で通勤しなきゃならない。物価も高くなる。俺たちだって東京を逃げ出したいんだ。だが、行くところがない。仕方なしにここで暮らしているんだ。」
彼は吐き捨てるようにそう言った。
私はただ黙って聞くしかなかった。
他のバイト先でも、「地方の連中が東京に出てくることはないんだ」とはっきり言われた。
また、東京出身の学生の中には地方出身者をあからさまに馬鹿にする者もいた。
「俺たちは実家が東京にあるから有利だよな。バイトのお金は全部自分の小遣いだもんな。ハハハ。」
「お前ら金ないよな。この貧乏人。」とまではさすがに言わなかったが、その心の内は読み取れた。
私より20歳年上の叔父が東京で警察官をしていたが、そこに行った時にたまたま近所の東京出身のおばさんが遊びに来ていた。
その人からもいきなりこう言われた。
「まぁ、広島から東京に来たの?よく親も出したわね、こんな遠いところに。」
まるで、私が東京に出てきたことが気に入らないかのような口ぶりであった。
私のことを一流大学(受験雑誌の情報による)に受かって偉いねとか、感心するそぶりはまったくなかった。
中でも、受験雑誌に書かれていたことと現実の違いを痛感したのは、W大の名古屋出身の学生と話をしたときのことだ。
彼は、「W大に進学する」と近所の人に話をしたら、「遊びに行くのですか?」と真顔で聞かれたと苦笑した。
名古屋では大学と言えば大阪大学、京都大学、そして名古屋大学であって、東京の私学などは金持ちのお坊ちゃんが遊学する大学と見なされているのだ。
これは関西地方でも同様で、大学と言えば大阪大学、京都大学、そして名古屋大学のことを指し、わざわざ東京方面の大学には行きたがらない。ただし、東大は別格である。これは改めて言うまでもないがどこでも同じ。
現に私の友人の中に同じ広島出身で東大に受かったB君というのがいるが、どこへ行っても「へぇ~、すごいですね」と感心さることはあっても、間違っても私のような扱われ方をされたことはない。
東大というのは東京では(と言うか世界を除く日本全国で)別格のブランドであって、大学の中の大学であり、それ以外の大学はどこもどんぐりの背比べでしかないのだ。
ただし、東京工大、一橋大学、東京芸術大学は少し扱いが上のような気がした。
受験雑誌は若者を餌食にしていた。
本当は大差のないようなことを、偏差値という数字で大げさな記事を書き立てて受験生を洗脳し、受験関連の書籍を売りさばいていたのだ。
私は愚かにもたくさんの受験雑誌を買いあさり、参考書や問題集を山のように買い、大学受験の評論家になれるくらいの知識を身につけていたが、何というアホなことをしたのだろう。
よく雑誌などで「一流大学を出ると一流企業に勤めることができる。給与も良い」などということが書かれている。
しかし、受験生諸君、こうした言説には気をつけた方がいい。
一流企業に入りたいなら、学歴よりも自分の家柄をまず考えた方がいい。
もし、自分の家が中流階級以上の家でなければ、すなわち、少なくとも自分の父親がそうした一流企業の中間管理職クラスでなければ、たとえ、運良く一流企業に入れたとしても苦労が待っているだけだ。
なぜか?それは育ちが違うからである。
家柄のさえない新卒者が何かのきっかで(成績が非常によいとか、体育会系のクラブ活動をしていたとか)入社できたとしても、周りは家柄の良い社員ばかりで、海外旅行や留学など当たり前のようにしたことがある。
普段から日常的に高級レストランに行き、良い服を着て、一流のアクセサリーを
身につけ、マナーも良い。
会社からもらう給料なんて当てにしていない。
それぐらい実家に力がある人が多い。
そんな世界の中で渡り歩くというのは、まるでトラの群れの中を野良犬が走り回るようなものである。
私がある飲み屋でNHKの人と話をしたことがある。
東北大学の出身だという彼は「NHKにはコネのある人しか入ってこない」と語っていた。
「僕も最初はそういのはよくないと思ったけど、今はむしろコネがある人の方が優秀だと考えている。」
また、NHKには県会議員や国会議員の子弟が入局しやすいという噂も聞いたことがある。
話は大きくなってしまうが、日本のように南北に細長い国がひとつにまとまっているのは、天皇制が役だっているのではないだろうか?
医者に診てもらうことも時々あるが、普通の家庭に生まれ、苦学して国立大学の医学部を出た医者よりも、代々医者の家系の出身で私立大学の医学部を出て医者になった人の方がまだ人柄が良いような気がする。
何というか、余裕が違うのである。ゆったり構えていて落ち着きがある。
何代も続く名門の家系というのはどこか違う。
どこの馬の骨とも分からないような人間が突然彗星のごとく現れて、国のトップになるようなことが起きるときはろくなことがない。
三井、三菱、住友、安田という四大財閥が日本にあった。太平洋戦争に負けて米国を始めとする連合国により解体されたが、やがて復活し、今もその支配力は健在である。
これらの財閥系の会社に入社するには一流といわれる大学を出ていると有利ではある。
しかし、それは絶対条件ではない。
一番ものを言うのはコネである。
例えば、三井は江戸時代に今の三重県にあった越後屋を発祥としているし、住友もやはり江戸時代の別子銅山の経営で発展してきている。あの当時から、別子銅山の責任者には支配人という名称が使われていた。まるで現代の企業のようである。
そうなると、今こうした四大財閥に入社してくる社員は、曾祖父の代から縁があったという人もたくさんいるはずである。
大企業といってもそれほど難しい仕事をしているわけではない。
大して頭を使うわけでもなく、決まり切った書類仕事を淡々とこなすだけである。
そんな世界でものを言うのはなんと言っても育ちの良さからくる人柄である。
私の大学時代の友人にWD君というのがいた。
彼の父親は東大卒で三井系の企業の重役をしていた。
WD君が就職する時期になって、父親はこう言った。
「おまえな、三井系の会社に行きたいんだったら、どこでも入社させてやる。だけど止めとけ。優秀な人材が山のようにいるから、入っても苦労するだけだ。」
彼の父親はかねがね「俺がここまで出世できたのは、住友系でも小さい方の会社に入ったからだ」と言っていたという。
これだけの家柄の息子ですらこの有様だ。
勉強をして偏差値の高い大学にいけば、出世していい暮らしができる、というのはあながち間違いではないが、自分の親が親なら、育った環境が環境なら、それほど大きなことは期待しない方がいい。
もうひとつ例をあげよう。
やはり、私の同級生で三菱系の企業で次長をしている人の息子がいた。
YJ君という。
彼はそのコネで三菱系の金融関係の企業に入った。
会社訪問の解禁日に即、彼は内定をもらった。
多くの学生が脚を棒のようにしてあちこちの企業を訪問していたのを尻目に悠々たるものであった。
YJ君は東京出身で実家は金持ちだった。祖父は医師だったと言っていた。
「就職したらアメリカ製のスポーツカーを買いたいな」と彼は就職の抱負を述べた。
大学の成績は中くらいで、サークル活動を熱心にしたわけでもない。バイトなどはしたこともなかった。
「地方なんて行く気がしない」と吐き捨てた。
しかし、これほど毛並みの良い彼であっても、入社してからは地方のドサ回りの連続だった。
WD君の父親の予言は正しかった。
今日は北海道、明日は沖縄という具合に日本国中や海外など2~3年おきに転勤があった。
そんな会社員生活に嫌気がさしたのかどうか知らないが、結局彼は50歳前半で希望退職に応じて辞めてしまった。
そのときの資金を元手にして現在は投資家の生活をしている。
自分が一流企業に向いているかどうか自分でテストしてみるいい方法がある。
子供の頃に自分が欲しいものが買ってもらえなかった人。
いろいろな年中行事の時に家族揃ってパーティをするとか、国内外の旅行に出かけるとか、ピアノやバイオリン、あるいは油絵などの高尚な趣味に浸る生活を送れなかった人。
年がら年中学生服しか着るものもなく、おしゃれな服を各季節ごとに買ってもらう余裕の無かった人。
そういう人は財閥系の会社には向いていない。
勉強ができるできないの問題ではなく、そもそも家柄や育ちの良さで負けているのである。
「そんな馬鹿な、それは差別だ!能力主義に反する」という声はあるだろうが、残念ながらそれが事実である。
今の自民党の国会議員の経歴を見れば分かる。
2世3世議員のオンパレードだ。
これは他の業界でも同様である。
では、何もない人間にとって、どういう生き方が利口なのか?
私の高校生時代の同級生にM君という優秀な学生の例がある。
彼は私のように受験生活一点張りの一流大学を目指すだけの、あるいは偏差値を上げなくてはなどと大騒ぎはしなかった。
ろくに参考書や問題集も買うこともなく、落ち着いているというか、「学費が安いから」と言って広島大学に進学していった。
彼の実家はただの農家であった。
今では珍しくなったが、イ草を栽培していた。
それなりに収入はあったが、洗練されたおしゃれな暮らしをしていたわけではない。
彼は自分の家柄をよく知っていたのだろうか。
後にM君の広島市内にあった下宿先に遊びに行って驚いた。当時は広島大学も広島市内にあって、そこからすぐの所に彼の下宿はあった。広々した部屋でひとり暮らしをし、私のような他人の家で食事をするというような窮屈な生活はしていなかった。
気ままに学食で食事をし、アルバイトも広大の学生で優秀だというので家庭教師の職を見つけ、結構余裕のある生活をしていた。
学校へも歩いていけるし、地下鉄だのバスだのに頼る必要もない。
私は大学に通うためのバス代30円が惜しくて歩いて通っていた。
自転車に乗りたかったが、東京では置く場所もない。
広島だと広島大学は結構ブランドなのだとこの時実感した。
東京だと東京大学だが、さすがに広島に東京大学の学生がバイトには来ないから、広島大学の学生が偉い感じになる。
これは京都や名古屋、そして大阪といった大都市でその地の国立大学、特に旧帝国大学がブランドであるのと似ている。
50年前において所詮私学は私学でしかなかったのである。
各私大間に受験雑誌が偏差値で格付けするほとの差異はない。
私は受験雑誌に踊らされた調子者だったのだ。
M君の他にも同級生で広大に進んだS君(土木科)とかK君(数学科)といった同級生もいたが、スモッグで空気が汚れ、学生運動でざわつく東京で苦労している私よりもよほど優雅に暮らしていた。
広大に進んだ彼らは私のように受験雑誌を読みあさったり、合格体験記などの本を読んだわけでもない。
彼らの思考は単純明快である。
「地元の国立大学に行けば金がかからない。」
そして、それが堅実で正解の大学進学である。
今思い出して見ると、広大に進んだこれら3人は数学が得意であった。
やはり、損得勘定も得意なのだろう。マスコミが騒ぎ立てるフェイクニュースに惑わされることなくコストのかからない道を選択する。
数学の得意な人と言うのは特に受験勉強らしきものはしなくても常に試験の点数が良い。
物理とか化学も先生の話を聞くだけですぐに理解できるようであった。
私は文系の頭なのでこうした理系の勉強にはついていけない。
いくら数学の問題を解こうとしてもさっぱりダメであった。
私が得意なのは国語、英語、社会といった学科で、結構覚えることが多い学科である。
本を読むのが好きだが、そのために余計な受験情報ばかりを頭の中に入れてしまい、結果的に落ち着いた判断ができなくなった。
それに歴史の年号とか重要な事件や人物の名前といった文系の内容を覚え続けておくのは大変だが、理系の才能というのはそれほど暗記に頼らなくても直観というかセンスがものを言う。
だから、受験になっても、それほどムキになって勉強しなくても普通に問題が解けてしまうもののようであった。
現に先にも述べたが私の友人で東大に受かったB君は数学が得意であった。というか、彼は元々理系であって、本来理学部を目指していた。
その彼にとって東大文系の数学など簡単であった。
B君は東大の理系の同級生から「おまえは汚い。理系の癖に文系を受けるなんて、あんなの入試の内に入らない」と非難をされた。
私などからすると東大法学部というのは超難関の学部に見えるのだが、それすらも簡単だと言い切る東大の理系の学生というのはどれくらい優秀なのだろうか?
本当に上には上があるものだ。
そういえば、私の中学校から神戸市の灘高校にトップで受かった人がいた。500点満点中497点ぐらいの成績であったらしい。
その人は東大法学部よりも難しいという理学部に進学してたが、その人に東京で偶然会った。
すると、そこに一緒にいたその人の上級生らしき東大医学部の人が「おまえは馬鹿か」と本気で怒鳴りつけているのを目撃した。
・・・・・
話を元に戻す。
今はどうか知らないが、「東大の入試を制するのは数学力。数学の試験が5問出て、そのうち1問と半分が解ければ合格」と言われていた。
B君は「数学の問題が2問解けた」と語っていたが、それで十分だったのだ。
正直、彼の英語力は明らかに私より劣っていたが、いざ入試ということになると、英語はともかく国語とか社会ではそれほど点差が開かない。
頭の良い子は小学生の頃からはっきりしている。算数のできが良い。
広大のM君が高校時代に「数学は暗記力だ」と言って。
彼の説明では小学校の頃から一つ一つのことを丁寧に覚えていくと自然に数学力が身につくということらしい。
彼は高校時代も三年生の秋頃までバレーボールのクラブ活動を熱心に行っていた。
そういう状態でも理系の学力は落ちない。
確かに数学は若い頃が勝負で、その能力が頂点に達するのは20代前半までのことではないか?
大学受験はこの頃に行われるので優秀な生徒にとって数学はとても強力な武器になる。
私は東京で暮らすうちに次第に腹が立ってきた。
かといって当時流行っていた学生運動に走り出す元気もなく、ただ悶々として日々を過ごしていた。
「地方出身者がどうしてこんなに東京で毛嫌いされるのだ?
俺たちが東京のためにお金を落としてやっているんじゃないのか?」
故郷の親は少ない稼ぎの中から生活費を切り詰めて、自活を始めてもよい年頃である20歳近くのトン太郎息子のために高い私学の授業料を払い、生活費まで仕送りしている。
私のような地方出身者が東京で大学に進学するためにどれくらいの費用がかかることか。
まず、高校生の段階から受験勉強に費用がかかる。
東京の進学専門の出版社が行っている全国模試を受けたり、予備校の夏期講習に参加することもある。無論それらは有料である。
参考書や問題集もたくさん買ったし、どこの大学が優れているのかを知るために受験情報誌や合格者の体験集の本なども買った。
そして、東京でさまざまな大学を受けることになれば、受験料は当然のこと、交通費や宿泊費もかかる。
大学に受かれば受かったで下宿先も見つけないといけない。
礼金や敷金、そして家事のための道具や布団なども新たに購入する必要が出てくる。
こうしたお金はほとんどすべてが東京に落ちる。
そして、家の中に空いた部屋があるからそこを学生に貸してお金を得ようという商売も生まれる。
こういう発想は田舎ではまずあり得ない。
中には、3畳間くらいのバストイレ台所無しのような部屋を貸す大家もいた。
こんなことでも主婦の小遣い稼ぎにはなる。
それは誰のおかげか?
俺たち地方出身の若者(バカモノ?)のおかげではないのか?
そして、中華料理店やレストランの皿洗いとか、中元歳暮の配達だとか、交通警備員などの辛い肉体労働のアルバイトを安い賃金で請け負って、東京の業者達を儲けさせてやっているのは俺たちのような貧乏人の地方出身者ではないのか?
また、東京で生活する中で服も買えば外食もする。喫茶店でコーヒーを飲むこともあるし、居酒屋や焼き鳥屋でコンパを開くこともある。レコード(CDはまだなかった)や書籍、そしてラジカセやテレビ、コタツなどの電化製品も購入する。
麻雀をやるために雀荘などにもよく通った。
W大の周辺は雀荘だらけだった。ろくに授業にも出ない学生達が朝から晩まで雀荘で麻雀をしていた。私もその1人だったが。
そして、音楽会、コンサート、ビリヤード、映画館、劇場、芝居小屋、ボーリング、野球やラグビーの試合観戦など、さまざまな場所で若者が東京でお金を落とし続ける。
こういう場所の経営者や従業員は「おまえら何で東京に出てきたんだ?」などと言うわけがない。
金を落としてくれるありがたい存在であるから、ニコニコ顔でもてなしてくれる。
だが、サラリーマンなど普通の暮らしをしている東京人にとっては迷惑な存在でしかない。
若者が上京してくるせいで家賃が高騰し、土地の価格も上がる。地価が上がれば固定資産税も増える。
不動産業者ならそれも嬉しいが、一般の東京人は自分が住んでいる家を売るわけにもいかず、ただ値上がりする固定資産税を払い続けるのみである。
食料品などの生活必需品の価格も地方に比べれば割高だ。
こうした変化に応じて儲けが増えるわけではない普通の会社員や公務員のようなサラリーマンにとって、東京へ大波のように押しかけてくる地方出身者は、今でいうなら西ヨーロッパに押し寄せてくるアフリカや中東の難民のようなものである。
ただし、今、私は広島に住んでいるが、こうした経験をしてよかったと思うこともある。
東京に行って、東京に暮らす人達の生の声を聞くことができたからだ。
一般庶民は地方人のことを歓迎していない。
もし、私が東京で観光だけをしていたらどうだったか?
行く先々でお客さん扱いされて、東京は華やかでいいなぁ、と感激して終わったことだろう。
こうした苦い経験があるからこそ、広島に東京の物産展などがデパートに来ても、私は相手にする気になれない。
彼らの本音を知っているからだ。
しかし、今さらこんなことを言うのも何だが、「ひょっとして自分が東京に出て行ったのはそんなに間違ったことではなかったのではないか?」という気持ちになることがある。
私は10歳の時、つまり小学3年生の時に、自分は漫画家か作家になると心に決めていた。
そして、高校生になった頃もこの夢は変わらなかった。
だとすれば、やはり東京に出て行くしかなかったのではないだろうか?
最初に変なことを言われていじけてしまったが、それにくじけるようではいけなかった。
初志貫徹というか、何としてでも作家的な仕事を見つけてそこにしがみつくべきであった。
確かに、先ほどの広大に進学したS君などは県庁に入庁して土木部長まで昇進した。これは立派なことであるが、私としては全然羨ましくもないし、比較しようという気持ちも湧かない。
なぜなら、私の夢はそういことにはなかったからだ。
最初からサラリーマンなどになる気はなかった。
会社勤めのような、上の指示だけを受けて何も考えずに与えられたことだけをするなどという人生は私の性には合わない。
東京で頑張るというのはそれなりに苦労もあっただろうが、しかし、芸能界や出版社、映画や劇場といった文化的な仕事に就きたかった自分にとって東京は最高の舞台になったのではないだろうか?
現に東京に嫌気がさして広島に戻り40年近くになるが、広島では話が合う友人もできないし、自分に合った仕事も見つからない。
県庁にも勤めたことがあるが、ひどい目に遭って辞めてしまった。
英語が好きだったのでそれに関係した仕事をしたかったが、見つからず最終的に自分で英語塾を運営せざるを得なかった。
大して儲かりもせず、青息吐息の毎日だった。
状況が変わったのは1995年のWindows 95の登場からである。インターネットの劇的な発達によって翻訳の仕事が広島でもできるようになり、これによって本来自分がやりたかった仕事ができるようになった。
というか、正直翻訳の仕事は私が本来夢に見た一番の仕事ではない。
私の夢、それは作家になることだった。
この志は10歳の頃から心に決めて以来、一度も私の心を離れたことはない。
そこで大学時代は法学部の専門書ではなく、さまざまな小説を読んだ。
東京中の映画を観て回った。その数は年間200本くらいだったろうか。
何しろ、ビデオやDVDとかはない時代だったので、映画を観るということになれば、直接映画館に足を運ぶしかなかった。
地方では映画館は比較的大きな街でも数軒しかないが、東京だといくらでもある。
これには感激した。
新宿、渋谷、池袋、高田の馬場、お茶の水、銀座、水道橋といった場所にある古い映画を安く上映している(1本200円ぐらいだったように記憶する)映画館に足繁く通った。
当時ピアという雑誌が出て、それに都内各地の映画の上映情報が載っていたので、その記事を参考にした。
邦画には興味がなく、もっぱら洋画を見た。
中でも嬉しかったのは、お茶の水のアテネフランセで『突然、炎のごとく』というフランス映画を観ることができたことであった。
このタイトルはフランス人作家アンリ・ピエール・ロシェが74歳の時に出した『ジュールとジム』(1953年出版)という小説の邦題である。
それをフランソワ・トリュフォー監督が1961年に映画化し、世界中で大ヒットした。
私がこの本を読んだのは1972年頃のことで、まだ高校生だった。
それ以来この作品の映画を観たかったのだが、東京に出てきてやっとこの映画に巡り会えた時は本当に嬉しかった。
主演は、ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、そしてアンリ・セールだった。
だが、ここに東京の落とし穴がある。
若い人にとっては楽しい所かもしれない。
しかし、年齢を重ねるに連れて貧富の格差が広がっていく。
東京出身者は親の家に住み、自宅から仕事に通えるので小遣いもたっぷりある。
だが、地方出身者は自力ですべて賄わないといけない。
私の同級生の中に地方出身者で女の子にモテるH君という男がいた。
彼はハンサムで背が高く、何人もガールフレンドがいて満足そうに東京生活を楽しんでいた。
「俺さ、彼女のアパートに泊まって耳かきしてもらうんだ。膝枕でいいんだよな。へへへ」と悦に言っていた。
彼は居酒屋などに飲みに行き、そこで目が会った若い女子大生などと仲良くなるのが得意であった。
H君にとって東京は天国、地上の楽園のように思えた。
H君は大学卒業後、大手の食品メーカーに就職した。
その頃になってもまだ遊び癖が抜けず、複数の女性と関係を持ち続けた。
しかし、30歳を超える頃になると、あまり女性にもてるということもなくなってくる。
若い頃はただ容姿が良いというだけでモテもするが、年を取ると一番ものを言うのはお金である。
H君は大学卒業後、単なるサラリーマンになったので、それほど金があるわけではない。
あれだけ、彼のことを慕っていた女達も、ひとりまたひとりと彼の元を去って行った。
「結婚してくれないのなら嫌よ」ということだ。
実際、毎月ひとりの女あたり30万円ぐらいわたすことができれば、何とかつなぎ止めておくこともできるだろうが、大した収入もないただの月給取りに複数の女性関係を維持できるわけがない。
もちろん、H君は30歳を過ぎた頃になって結婚をしたが、その家庭を維持するだけで精一杯の暮らしになっていった。
しかも、若いときに遊びすぎて結婚が遅かったので、子供も当然遅くなる。
また、自分はモテ男というので鼻っ柱が強く、上司に反抗ばかりしていた。
結果、上司から煙たがられるようになり、出世コースからは外れてしまう会社人生になった。
無論給料も大して上がらない。そのため、家を建てることもままならず、40歳過ぎても都心からかなり離れた団地住まいであった。
H君に最後に会ったのは彼が50歳くらいのときだったが、腹が出て頭は白髪で薄くなっていた。前歯も2~3本抜けていたが、入れ歯が痛いらしくて歯茎しかなかった。かつてはハンサムだったその容貌に昔日の面影はなかった。
あの、大学時代の華やかさはどこに行ったのか?
彼は、「都心からかなり離れた場所に中古の一戸建てを購入した。通勤に1時間半以上かかるのはきついよな」と語った。
「娘がいるんだけど、美大に進学したいらしくて、絵の具代やキャンバス代やらで何かと金がかかるんだ。」
奥さんのパート代を頼りに家計をやりくりするのが、彼の日常であった。
H君の娘さんも年頃ということだろうが、彼女もまた昔のH君のような地方から出てきたハンサムな青年に心をときめかせて、あげく捨てられるのか?
それとも、彼女が捨てる側になるのだろうか?
輪廻は巡る小車の...ではないが、何のことはない。H君はただ都会の甘い誘惑に駆られて、吸い寄せられ、結果として都会を富ますだけの肥やしになっただけであった。
「都会の肥やし」という言葉の意味がお分かりだろうか?
要するに「都会で、資本家のために、自分が働いて得たわずかのお金を、消費するだけの存在になる」ということである。
若いときは若葉の頃ので好き勝手にさせておく。
そのうち30歳、40歳になると家庭ができたり、身体の体力が落ちて自由もきかなくなる。
今更転職もできない。
ただ、会社と家とを往復して、稼いだ金を東京の経済発展のために落としていく。
こうして熟成した肥料ができあがる。
その肥料を使って東京の支配者階級は太っていく。
プロレタリアートという言葉がある。
これは日本語では「労働者」と訳されているが、「プロレタリ」とは「子供を繁殖する能力」のことを指す。そして「アート」とは言わずと知れた「芸術、技術」のことである。
つまり、プロレタリアートとは「子供を増やしていく能力だけの労働者」という意味になる。
これにルンペンという言葉がつくと、ルンペンプロレタリアートとい言葉が生まれる。
「ルンペン」すなわち「物乞いをする人」という意味で、「仕事を失ったらたちまち食うに困る労働者」を指す。
この点からするとさすがにルンペンプロレタリアートの数は少ないが、都会にいる労働者はほとんどがプロレタリアートといえるのではないか?
ブルジョアとかプチブルといった、働かなくても生きていけるのは少数派だ。
プロレタリアートでは自分自身の財産が増えることはない。
こうした状況の中、大都会は若者を餌食にして増殖する。
当たり前のことだが、都会で農業をして生きていくことはほぼ不可能である。
日雇い労働者、建設作業員、運転手、サラリーマン、セールスマン、自営業者などになるしかない。
とにかく何か農業以外のことを生業としなくてはならないのだ。
そこで餌食になりやすいのが若者である。
若者は元気がいいし、遊ぶことも好きだ。飲み食いする量も多い。
そして、永遠にその若さや体力が続くと思っている・・・というか、続かないと分かっていても自分で自分がどうにもならない。
ホルモンの働きが活発になってきて、野生を理性で止められない。
そこを年長の大人達が利用して金づるにしていく。
自動車、オートバイ、スキー、スノボー、海水浴、ブランド物のファッション、アニメ、コスプレ、アイドル、雑誌、漫画、ポップミュージック、ビデオ、麻雀、ビリヤード、ボーリング、海外や国内の旅行、スポーツ観戦、競艇や競馬といった公営ギャンブル、パチンコ、スロット、ゲーセン、飲食店、キャバクラなどの風俗、カラオケボックス、演劇、コンサート、英会話教室、予備校などの受験産業、新興宗教への勧誘、等々。
これはいずれも若者をメインターゲットにしている。
むろんこれらのことに大人も金を落としていくが、若者の消費意欲の方が圧倒的に強い。
そこで、ずるくて悪賢い大人達がこの勢いを利用するのである。
たとえて言うなら、大都会は一種のギャンブル場のようなところで、わずかの成功者を引き合いに出して、多くの若者を引き寄せ、彼らにゲームをさせて金を巻き上げる。
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