平凡で陳腐な東京ロマンス
ちくわノート
最期の日くらいは空でも飛ぼう(1)
今夜、この東京は、いや、世界は無くなるらしい。
巨大な隕石が地球に向かっているとNASAから発表があった。
きっと明日のテストが憂鬱で仕方ないという学生が、明日隕石が降って地球が滅びますようにと無責任な願いをしたのだろう。そして気まぐれな神様が迷惑にもそれを叶えてしまったのかもしれない。
その重大な発表があったのは日本時間の午前3時30分。枕元に置いていた携帯が聞き馴染みのないアラートをかき鳴らし、眠りについていた日本中を叩き起した。
多くの人が携帯の画面を確認し、次に慌ててテレビやラジオを付けて、今目にした信じ難い情報の真偽を確かめようとした。
アナウンサーが鬼気迫る表情で、今夜の日本時間23時59分に隕石が地球に衝突し、世界が滅ぶとNASAから発表がありました。もはや打つ手立てはない模様で、残りの時間は大切な人と過ごすことを推奨します。と原稿を読み上げる。
それを見聞きした人々がテレビ局やラジオ局、NASAに問い合わせの電話をするのは当然の流れだったが、その殺到した電話を取り上げる者は既に残っていなかった。原稿を読み上げたアナウンサーも、それを撮影したカメラマンも、隕石の軌道を計算していた研究者も、皆最後の仕事を終えてそそくさと家族の元へと帰っていった。
こんな時間に叩き起こすなんて、と的はずれに怒る人もいれば、なんでそんな大事なことを今更発表するんだと憤る人もいた。情報を垂れ流して混乱させるだけさせておいて、後の対応を蔑ろにするテレビ局やNASAに不平を言う者もいた。
ある専業主婦は出張に行っていた夫や、この春上京して家を出ていった息子に電話をかけた。ある独身のサラリーマンはその情報を夢だと信じ、明日の自身の昇進がかかったプレゼンのことを考えながら再び床についた。ある動画配信者はそれが壮大なドッキリだと思い込み、一人で大袈裟なリアクションを取り続けた。
そういう行動が自然なら、世界が終わる前に好きな人に想いを伝えようとした僕の行動も至って自然で、平凡だったに違いない。
僕が隕石の情報を知った時も多くの人と同じく、驚き、混乱し、疑って、落胆した。Twitterのタイムラインは更新しても更新しても尽きることはなく、#地球滅亡という文字が溢れ出した。
しかし、僕が住んでいる6畳のアパートから見える夜景は普段となんら変わらないように見えて、地球が滅びるという実感はいつまでも湧いてこなかった。
僕はLINEを開いて、見慣れたアイコンをタップする。
「聞きましたか。地球滅亡らしいですよ」
メッセージを送信すると直ぐに既読がついた。僕からのメッセージを待ち望んでいてくれたのかなんて淡い希望が一瞬浮かんだが、すぐにその希望は黒く塗りつぶされた。きっと先輩のことだから僕以外にも多くの人からメッセージが来ているんだろう。僕はその有象無象の中の一人に過ぎないのかもしれない。
自身の新着メッセージを確認する。本屋の公式アカウント、LINEニュース、クックパッド公式アカウント。一番上に唯一、人間からのメッセージが届いていた。
「地球滅亡やばくね?」
その下に驚愕しているうさぎのキャラクタースタンプが送られている。
地球滅亡という壮大な問題をここまでポップに言える彼を僕は尊敬した。
少し悩んだあと、「やばい」とだけ返した。
やばいと言う言葉はなんて便利なのだろう。ここまで多くの意味を包括している言葉はそうないだろう。このジュースやばーい(美味しい)。えー、紗英今日まじやばくない(凄い可愛い。似合ってる)。テストやばーい(ピンチ。助けて)。えー、なんかやばーい(????)。
僕がやばいという言葉のやばさについて考えていたところ、シュポッと小気味よい音が携帯から鳴った。
「やばいよね」
憧れの先輩もやばい常用者であった。やばいという言葉はその便利さから若者の間に浸透し、語彙力を奪っていく。語彙力を失った若者たちはもうやばいからは離れることが出来ない。麻薬なんかよりももっと恐ろしいやばい中毒者となるのだ。
やばいについて考えている場合ではないと頭を振って、携帯の画面に集中する。
なんと返せばいいのか。何故、モテるLINEの極意という本に、地球滅亡を前にした時のLINEの返し方が載っていなかったんだろう。なけなしの1800円が無駄になってしまった。
その時の僕は、そのような胡散臭い本に縋らなければならない程、追い詰められていた。恋が身を焦がすなんて言い方はしたくないが、先輩のことを考えなかった日はないし、彼女のSNSにまるでストーカーのように張り付いて彼女の一挙手一投足を知ろうともがいていた。
考えに考え抜いた後で送ったメッセージは「今日暇ですか」というものだった。
出来るだけ無難で、がっついていると思われないようなメッセージにしようと心がけたのだが、送ってから明らかに間違っていることは分かった。将棋でも考え抜いた手を打った瞬間にとんでもない悪手だったというのはよくある事だ。地球滅亡まであと24時間もないのに暇な人間なんている訳が無い。家族や友達と連絡を取り、死ぬまでに何をすべきかを列挙し、行動に移す。暇なんてものが入り込む余地はない。
メッセージを取り消そうとしたが、取り消したとしてもメッセージの送信を取り消しました。というなんともデリカシーのない表示が相手に残るし、そもそも取り消す前のメッセージをもし見られていたらと思うと恥ずかしいことこの上ない。
突然携帯が手の中で震えだし、驚いて携帯を落としてしまった。慌てて拾い上げ、表示された名前に少々落胆しながら電話に出る。
「今日暇?」
先程の地球滅亡やばくね? というメッセージにしてもこの電話口の声にしても一切緊張感を感じさせない。彼は先輩を除いて、僕が大学で唯一話す人物だった。
「暇なわけあるか。24時間もしないうちに地球が滅亡するんだぞ」
先輩に送ったメッセージと同じ台詞に対して僕はそう反駁する。自分で自分の首を締めているようで、なんだか馬鹿らしくなる。
「死ぬまでになにかしたいことでもあんの」
真っ先に彼女のことが思い浮かぶ。先輩に想いを伝えたい。さらに我儘をいえば、彼女も僕と同じ気持ちであって欲しい。そして地球最期の日に愛を確かめ合いたい。しかし、そんなことを言ってはからかわれるのは目に見えているので無難に「美味いものを食べたい」と言う。
「美味いものって何だよ」
「フランス料理のフルコースとか」
「やめとけ。どうせお前の貧乏舌じゃ口に合わなくて後悔するのは目に見えている。マクドナルドでハンバーガーを食べた方が満足できるだろうさ」
「失敬だな」
僕は憮然としてそう言ったが、それもそうだなと後になって納得した。そもそも、テレビ局もNASAも仕事を放り出してるのだからフランス料理店のシェフやマクドナルドのクルーだって仕事を放り出しているに違いない。僕の死ぬまでにやりたいことリストは全て達成されるのが困難なことが早速判明した。
「お前は何をするんだ」
「俺か? 俺はやっぱりおっぱいだな」
「意味がわからない」
「生物学的に、俺たち男はおっぱいに敵わないんだよ。どれだけ金を持っていようがどれだけ体を鍛えていようがおっぱいには平伏してしまう。つまり、俺たちが本能的に求めているものって愛やお金じゃなくておっぱいなんだ。わかるだろ」
僕は曖昧に返事をした。
「だから俺はありとあらゆるおっぱいに触れて、吸いつくし、おっぱいに囲まれた時間を過ごす。お前も一緒にどうだ?」
「呆れて言葉も出ない」
「おいおい、地球滅亡前だっていうのにかっこつけるなよ。本能に忠実に最後を生きようぜ」
「僕は死ぬ前でも紳士であり続けるよ。そんな醜態を晒すなら死んだ方がマシさ」
「醜態とはなんだ。本能に従うことの何が悪い。お前みたいなのがいるから少子高齢化が進んでいくんだ。全国民に謝れ。少子高齢化は全て僕の責任です。ごめんなさいって。NHKで生放送で謝罪しろ。そして泣き喚きながら弁明して伝説の謝罪会見にでもなっちまえばいいんだ」
そう言い終えると彼は煙草の煙を吐き出すようにふーっと息をつく。
「ま、仲間に入りたくなったら言えよ。俺とお前の仲だ。おっぱいのひとつくらい分けてやってもいい」
「おっぱいは2つで1つだろ」
僕がそう言うと、少し間を開けてそれもそうだなと彼は同意した。
「じゃあ、2つ分けてやる。但し、Cから上は全て俺のもんだ。AカップかBカップで我慢してくれ」
「馬鹿」
僕がそういった時には既に通話は切れていた。スマホを耳から離し、画面を確認すると新着メッセージが一通届いていた。
先輩からだ。
「夜の9時以降なら」
僕の心臓は飛び跳ねた。これはデートに誘ってもいいのだろうか。地球最期の日に会いたいですだなんて図々し過ぎるだろうか。
机の上に置いてあるモテるLINEの極意に目を向ける。表紙には眼鏡をかけた胡散臭そうな男がこれで彼女が1000人できました。と嘯いている。その横にはでかでかとLINEでの駆け引きには『押し』が肝心! と書かれている。
信じるぞ、と胡散臭い眼鏡の男に全責任を押し付け、僕はLINEを送った。
「もしよければ、世界の終わりを一緒に見ませんか」
直ぐに既読がつく。既読がついてから返信が来るまでの時間は地獄である。僕の心臓はこれまでにないほど早打ちし始め、スマホの画面を見るのが耐えられなくなり、スマホをベッドの上に投げ捨てた。そして意味もなく、普段はやらないスクワットやら腕立て伏せをする。今更体を鍛えても無駄だというのに。僕の心はもう取り消せない、なるようになれ、という開き直りとこのまま既読無視されたら? もしも断られたら? という巨大な不安で埋め尽くされていた。
スマホから着信音が鳴り、慌ててスマホに飛びつく。彼女からたった一言、返ってきた。
「よかろう」
僕は狂喜乱舞し、タンスに足をぶつけて悶絶した。
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