第1話
彼女は5年前までは平凡な少女だった。ただ少しだけ他の子よりも勉強と運動が得意で読書が好きな普通の女の子。学校に通い、部活をし、家族と一緒にご飯を食べる……どこにでもいそうなありふれた日常を送っていた。
あの日が来るまでは……。
***
その日はとても暑い初夏の日のことだった。
私は美希、18歳。少し前に高校を卒業し晴れて大学生……ではなく浪人生になった。地頭で勝負したのだがあっけなく志望校に落ちてしまったのだ。まあ、要するに勉強しなかったのだ。そのため今は近所の図書館と家を行き来する日々を送っている。
朝7時半。この日もいつも通りのそのそと起きて階段を降りると母がメダカに話しかけている。毎日見てて飽きないのかと思うほど母はメダカにつきっきりだ。それを一瞥して洗面所に向かい顔を洗って口をゆすぎ今度はキッチンに向かう。その途中やっと私の存在に気づいた母から「おはようさん」と朝の挨拶が飛んできたので会釈で応えると母が沸かしといてくれた白湯を飲みながら朝ごはんを準備する。
「おっ今日はうまくできた」
5回に1回は焦がすホットサンドをインスタントコーヒーとともに楽しみ、身支度を整えた後に運動不足だからと始めたラジオ体操イタリア語版を母と共にやりリュックを背負って玄関に向かう。
ここまでは本当にいつもと変わらない朝だった。けれどもここから先は私の人生を大きく変える出来事だった。
「いってらっしゃい、今日も一日頑張ろうね」
母のその言葉を背に一歩外に足を踏み出した瞬間、踏み出した足が足場を失った。そして私は声を出す暇もなくそのまま穴に落ちていった。いつもは気恥ずかしくて言えなかった”いってきます“の一言。
(……言いたかったな)
穴に落ちながら後悔の念にとらわれたが、ブラックホールなんじゃないかと思うほど体がバラバラになっていくような激しい痛みに襲われ私はそこで意識が途切れた。
***
「…………」
目が覚めると見覚えのない場所にいた。周りを見渡す限り木しかない。こんな事態に陥っても冷静な自分が怖い。目だけ動かして周りの様子を窺うとここは森の中だとわかった。
「……何も情報が増えない」
自分の体を見ると白い無地のワンピースに変わっていたが特に怪我などはないようだ。
「さてどうしようかな……」
とりあえず歩き回ってみることにした。そういえば今何時なんだろう?と空を見上げると、日が傾きかけている。家を出た時は朝だった。ということはただ時差のある海外に飛ばされたかはたまた時間軸の違う異世界に来たか。まあ、後者だろうと当たりをつける。
「まずいなぁ……」
早く森から抜け出さないと夜になってしまう。それにここがどこなのかわからない。闇雲に歩き回るのは愚策だとは思うがどうしようもない。
「ん?」
しばらく歩いていると先の方にログハウスのような家が見えた。もしや人がいるかもしれないと思い駆け寄り扉の前まで来たのだがインターホンがない。ノックしても反応なし。窓にもカーテンがかけられていて中の様子が全く見えない。これは困ったぞ……。そもそも言葉は通じるのだろうか。英語はそこまで得意ではないのだが……。
「何でこんなとこに獣人なんかがいるんだ!」
「わっ……」
驚いて後ろを振り向くとそこには見知らぬ老人がいた。白髪混じりの長い髭を蓄えたその人は一見すると好々爺に見えるがその瞳には明らかな嫌悪感があった。
「あの……すみません、私道に迷ってしまったんですけど……」
「そんなことは知らん!さっさと帰れ!」
ピシャリと言い放たれてしまった。言葉は通じるようだが……帰れと言われても帰り方がわからないのだ。途方に暮れていると、別の方から声がかかる。
「あなた、どうしたんですか?そんな大声出して」
見るとそこにいたのは優しそうな老婆だった。白い髪を後ろに束ねており、おっとりとした雰囲気がある。
「ああ、この娘が急に現れたんだよ」
「あらまあ、獣人の子じゃない。あなた親は?」
じゅうじん?頭にはてなを浮かべつつ首を振る。
「あらじゃあ今晩はここへ泊まって行きなさいな」
「おい!何を勝手に……!」
「いいじゃないですか、こんな小さい子を一人にして置くなんて可哀想でしょう。それに……」
おじいさんを引っ張っていって私から少し離れると小声で何かを話している。さっきからじゅうじんとか小さい子とか気になるんだけど。じゅうじんってもしかして私の知っているこの獣人で合っているのかと頭に手を伸ばすとモフッという感触が返ってきた。……うん、これは間違いなく私の頭にあるケモミミだ。どうやら界渡りの際に体が作り替えられたらしい。あの時の痛みはそのせいかと少し遠い目をする。
そして私は断じて小さくない。よくある小さい人が強がっていうやつではなく私は日本の女性の平均以上の163cmだし法改正で突然であったものの成人している。
「ぐぬぅ……仕方ないな」
どうやら話し合いが終わっておじいさんが折れたらしく家に入ることを許してくれた。こうして私は一晩過ごす場所を確保することができたのだった。
***
「……ごちそうさまでした」
「はい、お粗末でした」
「……」
食事を終え食器を片付け終わったところでおばあさんが私に声をかけてきた。
「アメリー、あなたどうしてこんなところにいたの?」
「それがその……記憶がなくて……」
異世界のことは伏せておいた方がいい気がしたのでそういうことにした。ついでに何かあったとき用に本名も伏せた。命名はフランス語から、勤勉という意味を持つ。怠惰な私にぴったりだ。
二人は難しい顔をして黙り込んでしまった。
「あら……それは大変だったねぇ」
「はい……。それで街までの道を教えてもらえたらと」
「そうなのね。それならちょうどよかったわ。私達も行く予定だったの。明日一緒にいきましょう。あなたもそれでいいでしょう?」
「……ふん」
一応同意はしてくれたらしい。けどこのおじいさんの私への当たりというのだろか、それが結構キツい。嫌われるようなことは何もしていないはずなのに。それに少し引っかかるも頭を下げる。
「ありがとうございます。助かります」
その後しばらく世間話をしていたらすっかり日が傾いてきていた。二人ともそろそろ寝る時間だということなので私は客間を貸してもらい眠りについたのだった。
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