君想う

鹽夜亮

第1話 君想う

 雨がしきりに降っている。カシャカシャとベランダの雨どいが安っぽい音を立てて鳴っている。それとは対照的に、室内の空気は静まり返っていた。皮膚がひりつくような、そんな感覚だ、男は思った。

「もう、別れようと思う」

 沈黙を破って、切り出したのは彼女だった。その言葉により一層空気は緊張感を増した。雨の音が鳴り止まない。しかし、男の耳にはもはやそれが聞こえているのかいないのか、判断もつきかねた。

「…嫌だ。君と別れるくらいなら…」

 バン。机が叩かれる。

「何度も聞いたよそれ。でも、何も変わらなかったじゃない。もう飽き飽きなの。出て行くから」

「待っ…」

 男の静止の声も虚しく、女は立ち上がると、何も持たずに部屋を飛び出した。玄関の扉が閉じるまで、男はただ伸ばしかけた手を宙ぶらりんに、情けなく何者をも掴まずにいることしかできなかった。ただ一瞬、開いた扉の向こうの雨が、男の脳裏に焼き付いていた。…


 部屋の外に飛び出した女は、マンションの階段を夢中で駆け降りた。涙が視界を曇らせたが、どうせ酷い雨だ。大して何も見えやしなかった。階段を降り、道路に出たところで女は自分がサンダルを履いていることに気づいた。ペディキュアが雨と泥で滲んでいた。何故か情けなさを…そして孤独を感じた。涙の勢いが強くなる。それは雨のように、止むことを知らない。行くあてもない。何も持っていない。ただ、それでも、女はどこかへ向けてまた走り始めた。…


 何秒だったろう。扉が閉まって、それからどれくらいの時間が経ったのだろう。男は改めて、女が何も持っていなかったことを思い出した。外の雨の音が急激に鼓膜を打った。まるで今まで止んでいたのに、唐突に降り出したかのように男には思えた。考えるよりも先に、体が動いた。男は傘を掴んで玄関から飛び出した。


 どれくらい走っただろう?女は無我夢中にただ駆けていた。雨の降る夜中、人はいない。足も、手も髪も、何もかもびしょ濡れだった。何もかもどうでも良いと思った。この、アイスピックで突き刺され続けるような胸の痛みを感じている今、雨に濡れたなど何の意味を持つのだろう?

 それでも疲労は女の体を確実に蝕んだ。息が上がっていた。運動をしていなかったせいか、脇腹は痛みを発している。泥の中、足を引き摺るかのようにそれでも女は歩いていた。どこに行くとも知れず、ただ歩いていた。目の前に、人影が現れるまでは。


「やっと見つけた…びしょ濡れだろ…まず傘させって…」


 目を上げると、同じようにびしょ濡れの男がいた。傘を持っているのに、さしていなかったのだろう。

「何で追いかけるの」

「別れるとか別れないとか以前に、体が勝手に動いたんだよ。風邪引いたら心配だって…」

「……」

 女は差し出された傘をとった。そしてびしょ濡れのお互いを雨から隠すように、半分を男にも差し出した。

「良い歳してお互いびしょ濡れとか、馬鹿みたい」

「……それこそお互い様だよ」

 急に笑いが込み上げてきた。安心感だろうか。さっき自分から別れを切り出したばかりの男が目の前に現れて、それでも安心する自分に可笑しさを感じた。

「笑うとこあった…?」

 男が訝しげに女の顔を覗き込んだ。女は笑みを漏らしたまま、答える。

「どうでも良くなっちゃってさ。…帰ろ?」

 その言葉を聞いて、男は一瞬戸惑ったかのように目をキョトンとさせた後、びしょ濡れのまま、笑った。………

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