藪問答
草森ゆき
1
それなりに昔の話っていうか、まあ済んじまって今更どうにもならない、結果だけ残ってる話だよ。あんたも知ってるだろうけど、一応聞いて。おさらいとか、復習とか、した方がいいだろうしさ。
おれの母さんはかなり綺麗な人だったらしい。見た目も整っていたけどそうじゃなくって、佇まいとか、声の調子とか、全体的な雰囲気とか……きんと冷えた冬の朝にさ、誰もいない湖に行ってみたことって、ある? おそろしく綺麗なんだ。色なんてほとんどなくて、耳鳴りがしそうなくらいに寒くって、零度に近づいた水は皮膚の感覚を根こそぎ自分のもんにし始めて、それで、底が見えるくらいに澄み切って透明でさ、おれの母親っていうのは、そんな人だったらしい。
まあ、おれに覚えはないからさ、ちょっとは与太なんだろうとは思うけど。同時にめちゃくちゃ本気なんだろうなってわかるわけ。
で、その透明で綺麗な母さんに、父さんは一瞬で虜になった。あいつも馬鹿だよね。口下手だし、何喋っていいかわかんないから、悩んだ挙句にひとまず花束をこさえたんだと。できるだけ彩り豊かに、母さんに似合うようにがんばって束にして、今さっき話した湖に母さんはよく行ってたらしいんだけどその日もいたから、突撃して作った花束を渡したんだって。無言で。驚いてる母さんに、無言で差し出し続けたって。
いや正直さ、母さんも心が広すぎるんだよ。ついでに胆力がありすぎる。そんな得体の知れないのが急にやってきたら怖くて逃げる奴の方が絶対に多い。
その得体の知れないのが、なんだか頑張って作ったと思われる花束なんて出してきて、それ以外は本当に何もしてこないけど意図がよくわからないって状況でさ。
父さんは緊張のあまり棒立ちの馬鹿になっちゃってる。想像すると面白いだろ?
でさ、その状況で母さんは、まず笑ったらしい。それはもう可憐だった、ってのは父さんの感想だ。差し出しっぱなしの花束を受け取って、ありがとう、って言ってくれたんだってさ。その声もめちゃくちゃ綺麗で、澄んでいて、余計に好きになったって。
それから何回も、父さんと母さんは湖のそばで会った。父さんは相変わらず緊張してて、喋ろうと思えば喋れるのにほぼほぼ黙って隣にちょんと座ってるだけだったんだと。
母さんは母さんでたくさん話す人ではなかったみたいで、たまにぽつぽつと、住んでる村の話とか、自分には両親と兄がいるとか、この湖にはほとんど毎日来てて、静かに水面を見てる時間が一日でいちばん安心する時間だとか、その安心の中に突然現れた父さんのことも含めて、とても大事にしたいと思ってるだとか、言ってくれたらしい。
花束を渡してから三ヶ月後くらいには、もうお互い惹かれあって好きあってる状態だったんだってさ、犬も食わない話だよ。でもおれは何回もこの話を父さんにせがんで、何回も聞いて、父さんは何回も……
なあ、聞いてる? 父さん、本当にバカだよな? 同じくらい母さんもバカだよな?
だって父さん、化け物なんだぜ。人の形だってしてなくて、四足歩行で、いちばん近い生き物って言えば狼とか虎とかで、そいつらがデカくなって爪とか牙とかが鋭くなって飛び出してて森とか山に陣取ってさ、麓の村には恐れられてるっていう、正真正銘の化け物なんだぜ。
それでなんで、人間の母さんに惚れちゃうかなあ。
それでなんで、母さんは父さんを受け入れちゃうかなあ。
まあとにかくさ、これが全部の始まりじゃん。この後だよ、おれが聞きたいことは。あんたに確認しておかなきゃあ、どうしても気が済まないことはさ。
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