第一話 僕は僕ではなく
(……あー……頭痛い)
ふっと目が覚める。
あぁ、あれだけ殴られても人間って死なないんだな。と考えていると見知らぬ女性が覗き込んできた。
「アリス様! お目覚めですか! 私がおわかりですか?」
誰だろう? と思うよりも前に口が勝手に動いた。
「リリー?」
「あぁ!! 神よ……ありがとうございます」
彼女はグレーの瞳から涙を溢れさせた。
――――どういうことなんだろう?
瞳を動かして部屋をぐるりと見渡すと、見たこともないような豪奢な装飾が施された壁や扉が目に入ってくる。
どうやら病院ではないらしい。
「……ここは、どこ?」
「アリス様の寝室でございます。落馬なさってこの一週間ずっと意識が戻らず……それはもう私は心配で心配で……」
「ここは、ど、こ」
同じ言葉を繰り返す。彼女に再び同じ質問をしたわけではない。“声”が聞いたことのない声だったからだ。
明らかに女性の声。
「な、んで」
聞いたことのない声を発する己の唇を、震える指先で触れる。そんな様子を黙ってみていた“リリー”は不安そうな顔をして、近くにいた女性に目配せをしている。
「すぐにお医者様が参ります。何も心配なさることはございません。ケンジット公もすぐにいらっしゃいますよ」
(ケンジットコウ? 誰?)
聞き慣れない外国名の名前が次々出てきて、頭の痛みが余計強まる。
そもそも落馬とは? 自分は父親に殴られて――――それで……。
(やっぱり、死んだ――――のか?)
幼い頃から虐待を受け続け、未来に対して希望など抱いてはいなかったが、あんなふうに人生の幕を閉じたことに対して残念に感じていた。
(……だったら、一度くらい、本当の父親とやらに会ってみればよかったかな)
何故急にそう思ったかわからなかったが、そんな思いが脳裏に浮かぶと、ふいに身体が光り輝いた。
「な、何?」
『やっと望みを言いましたね』
ぼうっと人が現れた。
髪が長く、この世のものとは思えぬ美しい顔を持つ女性は、にっこりと微笑んだ。
彼女の身体には蔦のようなものが巻き付いていて、その蔦は生き物のようにうねっている。
「あなた、誰」
恐る恐る聞くと彼女は衝撃を受け、信じられないといった表情をみせて、ホロホロと泣き始めた。
『なんということでしょう、このわたくしめを忘れてしまわれたか。あなたの誕生を“この世の誰より”喜び、だからこそ、祝福を授けたというのに』
「……祝福って?」
「ちょっとぉまったぁあああああああああ!」
ばああん! と扉(やたら精緻な彫刻が施されているとてつもなく大きな木の扉)が勢いよく開かれて、身なりが良い中年の男性が飛び込んできた。
「いっ今の言葉は聞き捨てならん! 我が愛娘、アリスの誕生を誰よりも喜んだのはこの私だ!」
得意げに彼は胸を叩く。クラバットが派手に揺れた。
(だ、誰)
我が娘、と言ったところからすると、彼がこの身体の父親になるのだろうか。
「おぉ、アリス。やっと目覚めてくれたか、この数日間生きた心地がしなかったぞ」
彼がアリスに抱きつこうとした瞬間、蔦がしゅるしゅるっと伸びてきて、彼の身体はグルグル巻になった。
『アリスは目覚めたばかり。乱暴にするではない』
「可愛い娘を抱きしめて何が悪い! そ、それを乱暴などと、いくらモーレックの森の守護者であっても----」
『聞き捨てならん----か? あなたはいつも同じことばかり言うな』
守護者と呼ばれた彼女は大仰にため息をついてみせた。
(……これはいったいどういう……)
ふたりはやれ『そもそも乗馬など危ないことをさせて』だの「貴族の嗜みとしての教育」だの『娘の命と嗜みとどちらが重要か』などと言い合っている。
(そもそもここは、僕がもともといた世界とは違うみたいだな……)
何故か喋っている言葉はわかるが、その内容に関しては、摩訶不思議だった。守護者であるとか、祝福であるとか、蔦でグルグル巻にされる、であるとか----。
それから、ややあってから医者がやってきた。
「あぁ、先生。よかったです」
彼らの様子を見ていて、すっかり困り果てていたリリーが、医者に頭を下げる。
「アリスお嬢様がお目覚めになられたとのこと、何よりでございます」
医者も蔦でグルグル巻になっているアリスの父に深々と頭を下げた。
「うむ、そなたの回復薬が聞いたのだろう。礼を言う」
威厳のある声で彼が言うと、蔦が解けて守護者のもとに戻っていった。
「いいえ……私よりも、モーレックの森の守護者様がずっとついていらっしゃったので、そのおかげかと」
「断じて認めたくないな」
父と守護者の間に火花が見えたような気がした。
(なんでこのふたりは、こんなに仲が悪いんだ?)
幼い頃に見た、喧嘩するほど仲がいい、猫とねずみのアニメを思い出す。
(あぁ、あれ、面白かったなぁ……)
ぼんやりしていると、目の前に青い色の液体が入った小瓶を差し出される。
「“ポーション”です。お飲みくださいませ」
「ポーション?」
ゲームか? と心のなかでツッコミをいれながらそれを受け取る。
『すごく不味いですよ、甘くしましょうか? お望みならば』
(不味いのか……)
と、考えながらも守護者の言う“お望み”に引っかかりを覚えて、小瓶の蓋をあけると内容物を一気に飲み干した。
(不味からず、美味からず……あ、でも、なんだか身体が楽になってきたな)
倦怠感で重かった身体がわずかに軽く感じた。
(ヒットポイントが回復したのかな)
自分の手に視線を落とすと、華奢な白い腕が目に入った。
(うわ、細いなぁ……)
高校時代は弓道部に入っていて、それなりに鍛えていた。
鍛えてはいたが、父親の暴力からは逃げなかった。自分が抵抗すると彼はより怒りを強くし、暴力が長く続いたからだ。
ふっと小さくため息をついて、その細い腕をぱたりとベッドのうえに落とすと、リリーは心配そうに声をかけてくる。
「なにか召し上がられますか? 目覚められたばかりですし、温かいスープでも」
「……そうだね……あ、そ、そうね」
メイド服を着た女性が数人、部屋からすすっと出ていった。
「食欲があるようでしたら、より早い回復が見込めるでしょう。なにか変化があればすぐにご連絡ください」
医者はそう言って、父に深々と頭を下げた。
「あぁ、頼む」
父の名前はケンジット公爵エドワード・オーガスト。(ケンジットコウではなく、ケンジット公だった)
ケンジット公爵領の領主様だそうだ。
母はアリスを出産時に亡くなったらしい。後妻は娶らなかったせいでアリスはオーガスト家の一人娘のようだ。
十六歳にして三人の婚約者候補がいる。
ルートヴィッヒ・ミゼル(ローゼン公爵の令息)十八歳。アルバート・ランセル(モーリア伯爵の令息)十八歳。モルベルト・セイラス(ガリレア伯爵の令息)二十歳。
何でもアリスが生まれたときに、年の近い令息をもつ家に片っ端から婚約者候補としての声をかけまくった結果、こうなったそうだ。(片っ端と言っても、家柄の良さは第一条件だったようだ)
アリスが社交界デビューをする年に正式な婚約者を決めるらしい。
――――それが今年。この夏がデビューだそうで。
(僕の、この状態は)
前世で死んで、転生した(地球ではないどこか? 世界線の異なるどこか?)という小説かなにかのような状況なのだろう。
前世のことは思い出せたのに、現世のことが今ひとつ理解できないのは、落馬事故のせいかと考える。でも、言葉はわかるし、字も読める。記憶が曖昧であること以外不便はなさそうだ。
令嬢としての身のこなしも、身体が覚えてくれている。
(……もう少し、筋肉が欲しいな)
あとは、モーレックの森の守護者は精霊で、アリスは精霊の祝福を受けたおかげで、魔力強めの精霊使いらしい。
(でも、落馬するのかぁ)
そのあたり、魔力だの精霊ではなんとかならなかったのだろうか。
(考えても仕方ないな)
姿見の前に立つ。
大きな鏡に写っている自分は、美しくて可憐そうな少女だった。ゆるくうねったプラチナブロンド。宝石のような青い瞳。白い頬。ピンク色の唇。
何もかもが前世の自分とは違った。
「……僕は、アリス……」
もう違う人間なのだと思うと、ほっとする反面、悲しくもあった。
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