胡蝶の夢
詩水
第1話
蝶が燃えた。
鱗粉が爆ぜ、羽の頂きに朱がのって、朱が赤を産み、その赤がゆっくりと広がってゆく。ピンと張った羽の先から、鮮やかに、艶やかに、炎が蝶を包んでいく。蝶は、そのか細い四肢でほんの少し空を掻いて、静かに身を堕とす。冷たい地面に触れる前に、1度だけ羽が瞬いた。諦めを滲ませて、でも名残惜しそうに。鱗粉が散る。火の粉が散る。キラリと光を反射したのは蝶の生きた証か、それとも蝶を呑み込んだ朱色か。
パチパチと炎の弾ける音が耳にこびり付いて離れない。地面に背中を預ける前に燃え尽きて、灰も残さなかった美しい蝶。最期まで羽をたたまなかった気高い蝶。
それはまさしく彼女の生き様であり、彼女の魂だった。
美しい、とても美しい人だった。彼女と初めて出会ったのは葉桜が春の終わりを告げる頃、ちょうど三ヶ月前のことだ。
午前の講義を終え、なんとなくいつもと違う通りを通って大学から帰る昼下がり、ふと白いものが横たわっているのを目にした。近寄ってみれば真っ白なワンピースの若い女の人がぐったりと倒れている。慌てて抱き起こし、救急車を呼ぼうとすると彼女はそのか細い腕で私の腕を掴み、弱々しく制止の言葉を口にした。
曰く、良くあることなので気にしなくてよい。今日は調子が悪かっただけで、あと数分もすれば歩ける、と。道の真ん中で倒れていたのを見た身としてはにわかには信じ難い話ではあるが、話すうちに声がしっかりしたものになっていったのを目にした上、本人が言って聞かないために助けを呼ぶのはやめてしまった。
数分もしないうちに、声をかけてくれてありがとうと言って彼女は歩いていこうとしたので、家の前まで送ろうと申し出た。彼女は黒い瞳をぱちぱちと瞬かせたあとに遠慮の言葉をいくつかこぼしたが、未だ足元が覚束無い様子を指摘するときまり悪そうに同行を許可した。
彼女の家までの道中、私たちはぽつぽつと会話を交わした。彼女がこの日倒れていたのは、持病によるものらしい。最近まで大きな病院に入院していたが、もう長くないという事実が覆りそうになかったため自宅に戻ったのだと言う。戻ってきてからは体調の良い日と悪い日があり、悪い日は室内で読書を、良い日には外を散歩して過ごしていたが今日はその判断を誤ったらしい。迷惑をかけてしまったと彼女は儚く笑った。
途中立ち止まるなど休み休み歩いて数十分、到着した彼女の一軒家は立派なものだった。父親がなかなかに偉い人であるらしい。見届けたことだし帰ろうとすると、お茶を出すから上がっていってくれと彼女から頼まれた。若い女性が見ず知らずの男を招き入れるのはよろしくないと断ったが、貴方は助けてくれた恩人だからと強引に押し切られてしまった。結局家にお邪魔することになり、外観と同様立派なリビングへと通される。一人暮らしには広すぎるように感じられる屋敷は、父親が雇ったハウスキーパーが定期的に掃除に来ているという。整頓され埃一つ無い部屋はなんとも生活感の感じられないものだった。
彼女の入れたお茶を飲み終え、少し話したあとその日は別れた。帰り際に、出来ればまた来て欲しいと、一人はつまらないのだと言う彼女に曖昧に返事をしたのを覚えている。
それから1週間後、今度は図書館で彼女に出会った。こちらを見つけると嬉しそうに声をかけてきたので、2人して司書に注意を受けてしまった。司書の追い立てるような目線を背に2人図書館を出ると彼女はこの後の予定を尋ねた。もう家に帰るだけであることを伝えれば彼女はまた私を家に招待した。断ろうかとも思ったが、本当につまらなそうに家での生活を語る彼女の様子につい肯定の返事を送ってしまった。なんとなく、そんな顔をして欲しくないと思ったのだ。
それから、私は何度か彼女の家を訪れた。ある時は偶然会ってそのまま、あるときは訪れる約束をして。私がインターホンを鳴らした時もあった。どんなに急に訪ねても、彼女は私の姿を見るとにこやかに迎え入れた。ケーキを焼いたのよと手作りのスイーツを振舞ってくれたこともあった。少し端の焦げたそれは、ふんわりと甘い味がした。
ふた月もすれば彼女は家で過ごしていることが多くなった。訪れても眠っていることがあり、そんな日は私は手土産に手紙を添えてポストに置いていくしかなかった。後日訪れた時に彼女は謝りながら手紙の返事を伝えるのだった。
私たちの関係はひどく曖昧なものだった。友人と違って連絡先を知らず、恋人と違って互いの素性を知らない。ひどく脆いその関係性は非日常的でかえって心地よかった。彼女と二人過ごした時間は私にとって満たされたものだった。彼女も同じ気持ちなら良いと私は強く思う。
別れは突然だった。もう訪問回数が両手で数えられる回数を超えた頃、彼女は私に言った。病状が思わしくなく、再び入院すること。おそらく会うのは最後となること。一人寂しい終末をあたたかな思い出で彩ってくれた貴方に感謝している、と。
涙は出なかった。薄々勘づいていたから。インターホンに応えないときが増え、会えても日に日に痩せていく身体。座っていることがほとんどで、最近はお茶を出すのもキッチンに立入る許可を得た私がしていた。
病状を口にして、眉を少し下げて微笑んだ彼女をたまらず抱きしめた。彼女に触れたのは初めてだった。
彼女は戸惑いがちに私の背に手を回したあと、肩を揺らして泣いた。嗚咽は一切漏らさなかった。私はその間何も言わなかった。その日はいつもより長く滞在して、最後に感謝と別れの言葉を交わして別れた。初夏の風がふわり吹いた日だった。
彼女と別れの挨拶を交わして二週間が経った頃、大学の窓際の席で講義を受けていた私のところに一匹の蝶がやってきた。開け放った窓枠を軽やかに飛び越えてやってきた真っ白なその蝶はふわふわと講義室を飛び回ったあと、私が広げたノートの上に降り立った。羽をピンと伸ばしたその蝶はその講義が終わるまでそこにじっと佇んでいた。講義が終わったあと、蝶はまたふわりと飛び立つと窓から飛び去っていった。
それから一週間、私は毎日その蝶を見た。図書館に向かう途中、大学のキャンパス内、家までの帰り道。同一の蝶かどうかなんてわかるはずもないのに、不思議とこの蝶は同じ蝶だという確信があった。真っ白な蝶は私の周りをひらりひらりと飛び回っては気まぐれに飛び去る。大学の友人が気味悪がっていたが私は何故かこの蝶に嫌悪感を抱かなかった。むしろ懐かしさに似た何かを感じて、蝶が私の元に来た時は好きなようにさせていた。
最初に蝶を見てから丁度七日後の朝。午前の講義中のこと。私は例によって窓際の席に座っていた。その講義は人気があまりなく、陽の当たる窓際は特に人がいなかった。教授の平坦な声を聞きとるのに疲れて窓の外を見やったとき、あの蝶はまた現れた。いつもと違い、ふらふらと頼りなく羽ばたく白い羽。辛うじて窓枠を乗り越え講堂内に入ったあと、それは起こった。
突然、蝶の羽の先に火がついた。あ、と思う間もなく炎は小さな白を呑み込んでいく。火の粉を散らして蝶は羽ばたいた。朱色が弾ける。パチ、と小さく音がした。私は目を逸らせない。蝶が落下を始める。細い四肢が空を切る。落ちる。落ちる。蝶が落ちる。炎は小さな生命を包み込んで燃える。火の粉が舞う。段々と炎が小さくなる。小さな灯りが消えゆく。その時、唐突に理解した。
――あぁ、彼女が死んだのだ。
蝶だったものは火の粉を散らして燃えゆく。灰一つ落とさず、僅かに音を立てながら。ひどく幻想的なその光景は、あまりに非現実的であまりに美しかった。小さな生命は燃え尽きてしまった。頬を温かいものが伝う。不意に溢れたそれを拭うこともせず、私は蝶が儚く散った所を見つめた。白い蝶は死んでしまった。それでもこの瞬間まで確かに生きていた。確かに生きていたのだ。
それから数日後、彼女の家を訪れると彼女の立派な一軒家は取り壊されていた。彼女の遺品は一つも私の手元に無かった。当たり前だ。私たちは知り合ってたった数ヶ月で、友人ですらなかったのだから。その事実がひどく虚しかった。私は彼女の、病気の名称すら知らない。
あの日からずっと、あの白い蝶を探している。願わくはまた私のもとへ舞い降りて、ふわりと軽やかに飛んで欲しい。そして出来ることなら、あの白いワンピースを着た彼女のもとへ導いて欲しい。そうしたら私はきっと、笑って彼女にお茶をいれるから。
胡蝶の夢 詩水 @neko_ni_naritai
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