人間姫

 深い深い、海の中。それまで多くの人間が探し求めて見つからず、遂には空想だと断じられた人魚達が今、誰も知らない海底で、誰にも知られずに会話をしていた。


 「ねえ、最近静かになったと思わない?」

 「うん、最近静かになったと思う」

 「何で、静かになったのかな」

 「何で、静かになったんだろう」


 彼らの最近とは、いつからいつまでなのだろうか。その長さを計り知れはしないけれど、しかし彼らは最近、そのことばかりを考えている。

 どうにも、海が静かになった──けれどそれは海が平和になった、という意味ではなかった。相も変わらず小魚や貝たちは、食べられる運命に抗おうと必死に知恵を絞っていて、対する鮫や鯱といった海の狩人は、獲物を逃すものかと威厳たっぷりに尾を振りながらも、いつも狩りの失敗に怯えていた。果てなく冷酷な蒼海そうかいは、そんな彼らのせわしない生の持続と死の到来を、今でもずっと、内包している。

 それでも静かになったと思うのは、それよりも大きな存在が、めっきり干渉してこなくなったからだった。あの悪どい人間の、大きい網や、見えない糸付き餌の罠。それらが近頃、全く見かけなくなったのだ。

 人魚は元から、そんな物に引っ掛かりはしなかったけれど、それでも人魚は人魚であるから、人と同じように、どうしようもなく理由を考える。


 「もしかして、人間はもう、魚を食べなくなったのかな」

 「どうして、食べなくなったの」

 「きっと、地上の動物を食べるようになったんだ」

 「そうなのかな」


 人魚たちは、この考えは地上に住む動物たちがかわいそうだと思ったけれど、それ以外の答えも出てこなかったので、それで一応の納得をした。だけれど、不気味なほど姿をあらわさなくなった人間がどうしているのかという好奇心は燻って、ずぅっと残り続けるのだった。

 それから、しばらくのち。一人の人魚が、ついに我慢ができなくなった。人間がどうしているのか、海面まで行ってみると言い出したのだ。


 「やめなよ。見つかったら、大変だ」

 「遠くから、見るだけだから大丈夫だよ」

 「でも、心配だ。心配だから、僕もいく……」


 仲間は必ず、一言は止めて見るけれど、でも誰も、軽く言うだけだった。他の人魚もみんな、心の内では気になり続けていたからだ。だから、誰かが言い出すのを待っていて、さぁその誰かが出てきたぞと、心配するフリをして、全員が後ろをついていった。

 そうして人魚の一団は、陽の光できらきらと輝く、宝石よりも美しい水面を目指して泳ぎ、ついに近くの漁港へと着いて、みんなでそーっと、顔を出して覗いてみた。


 けれど、そこにはなんにも、面白いものはなかった。

 昔はあった、漁港も、船も、海岸も、奥にあった防風林も、そこから伸びた海沿いの道路も、そこを行き交う車も、その先にあった綺麗な港街の灯火も、そしてそこで暮らしていた、人間たちの営みも。

 全てが、失われていた。全てが、塵と灰になっていた。そして、今そこにある塵芥ですら、たまに吹く風に運ばれて消えてしまって、元からあった存在は、もうどこにも無くなっていた。


 「どうしたんだろう。人間が、いなくなっちゃった」

 「どうしたんだろう。あんなに騒がしかったのに、今では砂だけになってしまった」

 「どうしたんだろう。」

 「どうしたんだろう。」


 人魚たちはそう言って、みんなで考えてみたけれど、なかなか、答えは出てこなかった。

 そうして頭を捻っていると、仲間が波間に漂う、人間の衣服を見つけた。


 「見て、彼らの服を見つけたよ」

 「ほんとだ、どうしてここにあるのかな」

 「これを身につけていた人間は、どこにいってしまったのかな」


 人魚たちはボロボロになった服から、思考を膨らませていく。


 「きっと、人間たちは海に飛び込んだんだ」


 一人の言葉を皮切りにして、皆が発想を連ならせる。


 「きっと、人間たちは海に憧れて飛び込んだんだ」

 「きっと、人間たちは海に憧れて飛び込んだけど、馴染めなかったんだ」

 「きっと、人間たちは海に憧れて飛び込んだけど、地上の決まりを破ったから泡になってしまったんだ」

 「きっと、人間たちは海に憧れて飛び込んだけど、地上の決まりを破ったから泡になってしまって、それは人間の誰かが、人魚の誰かに恋をしたからなんだ」


 そうして人魚たちが行き着いた空想は、いつしかの人間の空想に、とても似ていた──。

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