真実を見抜く眼

 あるバーで男が一人、ウイスキーを飲んでいた。彼はいわゆる美術商。日中は仕入れ先や買い手との値段交渉に神経をすり減らし、夜に行きつけの店で心を癒す、それが彼の日課であった。毎晩くるから、店からすれば常連客。それに彼は毎回、一人で飲み悪酔いもしないタイプだったから、マスターや他の常連から煙たがれることも無かった。


 この日も、彼はカウンターで静かに飲んでいた。いつも通り、自分のペースでゆっくりと。店のレコード盤から流れる音楽に耳を傾けて、軽く酔いが回っていくのを実感する。彼にとってこの時間ほど、幸せなことは無かった。

 

 だが今日は、そんな幸福な時間を邪魔する者が現れた。


 「どうも。お一人ですか?よろしければご一緒しても」


 何だ、ちょうど気分が良くなっていたのに。彼は軽く相手を睨んだ。そこに居たのはサラリーマン風の男。見知った常連客達は彼が一人で飲むのが好きなのを知っていて、周りにもそのことを説明しているから、そこからの繋がりというわけでもないだろう。


 「誰ですか、あなたは」


 彼はスーツの男に、怪訝な表情で答えた。


 「あ、いや、気分を害したのなら申し訳ない。実は私はこういうものでして」


 男はそう言って、懐から名刺を取り出した。そこには"○○製薬"という会社名と、男の名前が書かれていた。


 「実はですね、あなたの話をちょっと小耳に挟みまして。よろしければ我が社の商品を見ていただけないかと」

 「ふん、製薬会社ね。しかし私は今、身体のどこが悪いというわけでもない。膝や腰が痛いなんて歳でもないですしね。どこの誰から聞いたかわかりませんが、私に薬を売りつけようとは、お門違いもいいところですよ。どうぞ、お引き取りを」

 「いえ、勘違いをなされては困ります。私はあなたが美術商だと聞いたので、こうして話しかけたのです。それに我が社の、とりわけ私が所属する部署はそういった怪我の痛みを治すような物ではないのです。言ってしまえばもっと超常的で、人によってはオカルトに思えてしまうような……」

 「ほう?」


 ここで美術商は初めて、男の話に興味を持った。お堅いセールスなら断ろうと思ったが、何だか面白そうじゃないか。これで商品が本物にせよウソにせよ、酒の肴にはできそうだ。


 彼が美術商という仕事を選んだのも美術品が放つ神秘的な、人を魅了する力に惹かれたからであった。そしてそういった背景があるからこそ、彼は一般には存在しない、ありえないと断じられてしまう物品に対しおおらかで、また協力的であったのだ。

 

 「で、結局あなたは何を売ってるんですか」

 「はい、こちらになります」


 セールスマンが鞄から取り出したのは、一本の栄養ドリンク。何がくるかと期待して、出てきたのが見慣れた瓶だったので、これには美術商もいくらか肩を落とした。


 「何だ、テレビ通販でも見るようなありきたりなものじゃないですか」

 「いいえ、違います。どうやらあなたは早とちりなさる癖があるようだ」

 「では、何が変わっているのですか?」


 そう聞くと、セールスマンは小声で彼に耳打ちをしたのである。


 「……いいですか?これはですね、その人が本当のことを言ってるのか嘘を言ってるのか、見分けが付くようになるんですよ」

 「まさか!」


 彼は一笑に付した。しかしセールスの男はこの反応を見飽きているようで、やれやれと言った顔でこう提案したのである。


 「信じられないのはわかります。だけれど、これは本当です。いま、私が飲んで証明しましょう」


 そう言って、セールスマンは瓶を一気に飲み干した。


 「では、何でも良いので私に嘘か本当かで答えられるクイズを出してください」

 「じゃあ、私は結婚している」

 「あはは、それは簡単ですね。嘘です」


 たしかに、これは結婚指輪をつけているかいないかで分かってしまいそうだ。それなら、自分しか知らない情報……これはどうだろうか。美術商は考えた後、次の質問をした。


 「今日、私は利益が多かった」

 「それも嘘ですね。むしろ悪かったのでは?」


 驚いた、当たっている!こうなると、この効能が本当のように思えてくる。だが、素直に信じるわけにもいかない。


 彼はもう一問、少し意地の悪い質問をして確かめることにした。


 「一週間前の朝食、私が食べたのはパンである」


 どうだ、これは自分でも覚えていないことなのだ。嘘とも本当とも、答えればそれは偽物だということになる。


 彼は若干、勝ち誇った顔になった。が、しかし。


 「うーんこれは……分かりませんね。あなた自身、覚えていらっしゃらないんじゃないですか?」


 セールスマンはピタリと言い当ててしまったのである。これに、美術商は愕然とした。


 「これは、まいった。全く、オタクの会社はすごい発明をしましたな。一体、どういう仕組みなのですか」

 「はい、コレはですね。これを飲んで会話相手の口を集中してみれば、相手が言葉を発した時に口元からモヤモヤとした色が見えるようになるのです」

 「ほう、色が」

 「ええ。本当のことを言っていれば白色のモヤが、嘘を言っていれば黒色のモヤが。どちらともない場合は透明のモヤ、つまり何も見えなくなります」

 「なるほど、それで最後の質問の答えがわかったわけですか」

 「そういうことです」


 ははぁ、と彼は感心した。こんな凄い発明品が世の中にあるとは。


 「いやぁ、おたくの会社は凄まじい発明をしましたな。けれど、どうしてコレを広く販売しないのです?大きく話題になって利益も出ますでしょうに」

 「それは、この商品が普及してしまったら都合の悪い人間が世の中に沢山いるからですよ。皆が皆、嘘を見抜けるようになってごらんなさい。政治家の信頼はガタ落ち、大手の商品会社もコマーシャルの売り文句を変えなければならない。それに家族、親友、恋人……どんな関係であろうと、隠し事が一つや二つあるものです。それが全部見抜かれてしまうとなれば、世の中の大混乱は免れません。それに──」

 「なんです?」

 「そもそも広告を打っても、信じない人が大勢ですよ。あなただって、初めはそうだったでしょう?」

 「うーむ、その通りです。全く、お恥ずかしい」


 美術商は気まずそうに頬をかく。


 「ですが、それはさっきまでのことです。今はもう、このドリンクが欲しくてたまりませんよ」

 「そうでしょう、そうでしょう。最初に申し上げたように、これは美術商を営んでいるあなたにこそおすすめなのです。上手くゆけば、作品の虚実を見抜くこともできるのですから」

 「その通りです!ぜひ、私にお売りください」

 「ご購入、ありがとうございます。ですが、手元にあったのは先ほどの一本だけなので、後ほどあなたのお家へ届く形になりますが、それでよろしいでしょうか」

 「ええ、構いません」

 「では、お代はこちらほどで……」


 値段は通常の栄養ドリンクと比べてしまえば、ぼったくりと呼べるほどは高かったが、今までのやり取りに男のセールストーク、それと酒の力も働いて、美術商はそれすら安いと思ってしまった。そして彼は言われたとおりに契約を済ませ、酒場をあとにしたのであった。


 ──数日後の朝。美術商の家に例のドリンクが届いた。けれど、その表情は晴れやかではない。所詮、酒の席での取引だったのだ。日が経って冷静になればなるほど、騙された気がしてくる。


 「勢いに任せて、変な物を買ってしまったなぁ」


 だが契約してしまったものは仕方がない。それに、本物の可能性だって万に一つはある。物は試しだと、彼は瓶を一つ開けた。匂いも味もなんだか独特で、美味しいとは言えない。いつもの栄養ドリンクと同じような、そうでないような。


 その後身支度を整えて、彼は普段通り仕事場に出かけた。そこで書類整理をしていると、電話が鳴る。年代物の珍しい絵画があるから、是非とも買って欲しいという連絡だった。それではまず物を見てからと、相手が指定した場所へ赴く。

 

 「こんにちは。早速ですが、お電話で話していた作品はどちらですか」

 「この絵です。どうです?これはとある筋から手に入れた、海外で有名な画家の未発表作品でしてね……」


 こうして、相手は絵の入手した経緯やら歴史やらについて長々と語り始めた。仕事だから真剣に聞きはすれども、時たま集中力が途切れてしまう。そうして意識が逸れた時、彼はふと、あのセールスマンの言葉を思い出した。


 (そういえば、相手に集中すればモヤが見えると言っていたな。丁度いい、時間潰しにでもやってみるか)


 思いたって、美術商は気持ちよさそうに話す売り手の口元に集中してみる。

 するとどうか。始めはうっすら、次第にはっきりとモヤが浮かんできて、それは黒く漂っていたのだった。

 

 「そういうわけで、私の手元へとこの絵がきたのですが……」

 「えっ!」

 「どうしました?」

 「あっいえ、お気になさらず」

 

 思わず声が出てしまった。本当に見えてしまうとは。しかも、黒色。ということは──。


 「そういうことですので、この金額で、こうしてあなたへお売りしようかと」

 「……うーん、すみません。残念ですが今回はお断りしようかと」

 「それは、どうしてですか?」

 「ここまでの美術品ですと、管理などにおいて私の手に余る物になってきますので……」

 

 美術商はもっともらしい理由をつけて、今回の買取りを断った。売り手の男は、


 「そうですか、こういった価値ある物はなかなか出回らないので、この機会を逃すのは勿体無いと思いますが、そういったことなら仕方ない」


 と落胆する素振りを見せ、絵をしまう。もちろん、その言葉のモヤも黒色であったが。


 「申し訳ない。ではまた今度、ご縁があれば」


 そういって、美術商は事務所へと戻っていった。だが一見して冷静に見える彼の心臓は、バクバクと激しく動き続けているのだった。


 「万に一つの本物だった。私は、とんでもない商品を買ってしまった!これは何と素晴らしい幸運だ」


 それから、男は仕事前に必ずドリンクを飲むようになった。これによって、偽物を掴ませようとする悪徳な輩を排除できるからだ。


 けれどこれを飲んだとて、美術品の真贋が全て分かるわけでもなかった。例えば、売り手が嘘の情報を鵜呑みにして信じ込んでいれば、それは白いモヤになって見えてしまう。


 しかし売り手の嘘が分かるようになっただけでも、彼の仕事への意欲はこれまで以上になった。また最終的な価値を見抜くには結局、自らの審美眼を磨くしかないのだということも、彼自身が腐らずにいれる、良い要素として働いたのだった。

 

 こうして彼は眼力を磨き続け、やがてはドリンクに頼ることも無くなった。そしてついには、名のある美術商として名を馳せるようになったのである。


 「今日も、いい作品を見つけることができた」


 それでも以前と変わらず、彼のお気に入りはこのバーだ。今日も仕事帰りで、ゆったりとウイスキーを嗜んでいる。


 「お隣り、よろしいですか」


 その声に反応して顔を向ける。そこには、いつか見たセールスマンの男がいた。


 「おお、あなたですか。どうぞ。今日も、何かお売りで?」

 「いいえ、もうあの仕事は辞めました。今はただの、バーの客ですよ」


 男は、カウンターに置かれたグラスを見つめながら言った。


 「そうですか。それにしても、あなたには感謝してるんです」

 「私に?」

 「ええ。あなたがあの時、私にあの商品を売ってくれなければ、今の私はありませんから」

 「そうなんですか」


 そう言われても、男はうつむき暗い顔。それを見て、美術商はこう続ける。


 「でね、最近こうも思うんです」

 「なんでしょう」

 「実はあのドリンクの効果は偽物、あなたのセールストークも、巧みに客を陥れる偽物だったのではないかと。つまり私は騙されていたのだけれど、思い込みで効果を信じて、それがきっかけで自分の心眼が開いたんじゃないかってね」


 この言葉に、男は体をびくりと震わせた。そして美術商の方を向き、ぎこちなく微笑むのだった。


 「さあ、それはどうでしょう」


 彼の口から黒いモヤが出てきたのを、今の美術商が見逃すわけは、無かった。

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