天国まで持っていけるもの

安路 海途

1(雨の降る絵)

 ――その絵の中では、雨が降っていた。けっこう、本格的な降りかただった。誰かに決められた時間を守るみたいに、長い時間をかけて降る種類の雨だ。情景全体が雨に煙っていて、輪郭や色彩をぼやけさせている。駅、だろうか。遠くにそれらしい建物の影が、水面をのぞいたときの不正確さで描かれている。声や物音の聞こえてこないその距離に、大勢の人々が群れ動いているのが見てとれた。人々は一様にはっきりとしない沈黙の底にあって、その思考や運命は、絵の中の距離と同じくらい遠い。駅前にある広場には、駅舎と同じかそれ以上の高さの建物が並び、歩道のそばには一台の馬車が停まっていた。人を乗せるところなのか、下ろすところなのかはわからない。

 絵の手前には、一人の女性が大きく描かれていた。どうやら、それが絵の主題らしい。ちょっと古めかしい、十九世紀も終わり頃といった感じの黒っぽいドレスを身にまとっていた。ルノワールなんかの絵に出てきそうな感じのやつだ。彼女はそれほど歳をとっているわけではないけど、少女という年頃でもない。僕はその当時の衣装のことなんて全然知らないけれど、それなりにきちんとした格好をしているのは間違いなさそうだった。裕福かどうかはともかく、ごく平均的な中流階級の人間、という感じだ。彼女は雨傘をさして、駅のほうを向いている。でも駅をまっすぐ見ている、というわけじゃない。どちらかというと体を横に向けて、顔だけをほんの少し曲げている感じだった。ちょうど、聞き覚えのある声を耳にして、その正体を探っているみたいに。彼女の顔はわずかにのぞくばかりで、頭の半分以上は雨傘に覆われていた。

 全体の雰囲気からいって、彼女は誰かを待っているように見える。その誰かは当然、駅からやって来るのだろう。でも彼女は、努めて無関心を装おうとしているようだった。まるで、その誰かを案じていることを自分に知らせまいとするみたいに。そうした不安の中でその誰かについて考えることが、運命に悪い影響でも及ぼしてしまうみたいに。

 彼女がどれくらい、そこで待っているのかはわからない。彼女がどんな顔をして、どんな思いを抱いているのかも。音のない雨が絵の中で降り続き、運命から遠く離れた場所で人々が群れざわめいている。雨傘をさした女性が、そうした光景を一人で眺めていた。言葉も、表情も、明確な印一つさえなく――


 ――その絵は、志花しはなにとってお気に入りの一枚だった。彼女はことあるごとに出かけては、飽きもせずにその絵を眺めた。少なくとも僕が彼女から聞いた話によれば、そういうことになっている。出不精の彼女が、そんなに足しげく絵のある場所まで通ったとは信じられないけれど。

 でもどちらにせよ、彼女がその絵を深く愛していたことは間違いない。敬虔な信徒が、夜明けに祈りを捧げるみたいに。牢獄の罪人が、夜更けに救いを求めるみたいに。

 いや、違うな――

 その絵は彼女にとって、この世界において必要なある一つの定点だった。自分の居場所を知るための、固定された座標。夜の空にその位置を示す、名前のない小さな星みたいに。



 僕が彼女と知りあったのは、高校時代のことだった。そこの文芸部で、僕は志花とはじめて出会ったのだ。その出会いに関しては、これといって特筆すべきことはない。

 僕と彼女は同学年だった。世界の終わりも始まりも感じさせない、ごく散文的な四月のある日に、僕たちは新入部員として部室で顔をあわせた。そしてよくある簡単な自己紹介をすませてしまうと、運命の歯車はもう役目を終えてしまったとばかりに、それ以上噛みあうようなことはなかった。

 僕が文芸部に入ったのは、よく本を読んでいたので、どうせ入るのなら、というだけの理由でしかなかった。特に旺盛な執筆欲というものはなかったし、誰かに自分の書いたものを読んでもらいたいという願望があったわけでもない。

 志花のほうはというと、その姿勢だけは少なくとも僕より真剣なものだった。彼女は中学の頃から、そうしたことを続けていたのだという。

 そう――

 志花は小説を書いていた。というか、を。

 本人によれば、自分が書いているものを小説と呼称すべきかどうかは、よくわからないということだった。別に詩や箴言集を書いていたわけじゃないし、形式的に見ればそれは小説というしかないものだったけど、志花にとってはらしい。彼女いわく、「わたしはただ、好きなものを好きなように書いているだけ」だった。

 だからというわけではないにしろ、彼女がどんなものを書いていたのかというのは、どうも説明が難しい。

 ジャンルに当てはまらない、といえば聞こえはいいけど、要するにそれは、作品を類別化できるほどの精度や技術に欠けていた、といったほうが近いかもしれない。純文学といえるほどのものじゃなかったし、かといってエンタメ小説というのでもない。雑多な種類のものを書いていて、その中にはSFやミステリといったものも少しだけ含まれている。

 僕は当然、そのいくつかを読ませてもらったけど、確かにどう評価していいいかは困るところがあった。読んでみて、結局それが何の話だったのかと言われると、ただちには返答しきれないところがある。

 彼女がいわゆる「小説家志望者」のようなものだったかというと、それは少し違っていたと思う。彼女は小説家になりたいというのとは微妙に異なる欲求で、それを行っていた。その二つが、ネジ頭のプラスとマイナスくらいにしか違わないものだったとしても。

 ごく客観的にいって、彼女に文筆家としての才能があったかどうかはわからない。

 僕の個人的で控えめな意見を述べさせてもらうなら、そのことに関してはかなりの疑問だった。彼女の書くものは往々にして、ポイントやテーマがゆるく、曖昧だったし、その文章は独善的で、鼻について、仰々しく、ほとんど読んでいる人のことなんて考えていなかった。

 そして――

 そして時々、はっとするほど〝きれい〟なところがあった。波に洗われて丸くなったガラスや、光に透けて緑色になった木漏れ日みたいに。

 どちらかというとそれは、僕を悲しい気持ちにさせたけれど。



 前置きが長くなったけど、要するにこれは彼女の話だ。を書いていた、ある女の子の話。彼女はある意味ではもう失われてしまったけれど、それでも冷蔵庫に貼っておくメモくらいには、語るだけのものは残っている。

 もちろん、これはたいした話なんかじゃない。地球が滅びることもなければ、人殺しや探偵が登場するわけでもない。はらはらするようなサスペンスも、きらびやかな舞台も、胸のすくようなストーリーもない。いわんや、文学的価値においておや、だ。

 これは本当に、何でもない話だ。たぶん、何の価値も、意味もない。風の囁きほども、手から零れ落ちていく砂粒ほども、次の日には溶けてしまう雪ほども。

 出てきたものをそのままごみ箱に捨ててしまったほうが、ずっとましな話。


 ――それでも、誰かがそれを語るべきなのだとは思う。

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