CHAPTER.8 終の蒼(ツイノアオ)【天体衝突1日前(彼岸)】

§ 8ー1  3月23日  月に叢雲花に風



 吹いている風がまったく同じでも、



 ある船は東へ行き、ある船は西へ行く。



 進路を決めるのは風ではない、



 の向きである。



 人生の航海でそのすえを決めるのは、



 なぎでもなければ、嵐でもない、



 心の持ち方である。




 エラ・ウィーラー・ウィルコックス (Ella Wheeler Wilcox)




   ♦   ♦   ♦   ♦




 死が近づく人は何を思うのだろう?



 あなたなら死にくときに何を思うだろうか?



 死とは孤独なもの。繋がった人と世界からの断絶だんぜつを意味する。この世界に母から産み落とされたのだから、繋がりのない者などいないのだ。


 エリザベス・キューブラー・ロスがいう死の受容過程の最終過程では、人は死を受け入れる。運命だと心にやすらぎを得るという。


 多くの者は死をむかえるとき、おだやかに、すこやかに、心やすらかにりたいと願うだろう。最後に目にするのは大切な人の顔であり、耳にするのはその人の声でありたいと願うだろう。そんな風に思える大切な人にいだく感情こそが『愛』という情なのではないだろうか。



 愛した代償だいしょうに、最後のそのとき、かたわらに居てもらうことを望んでもいいのではないか。


 心やすらかに、孤独に始まる次の旅を祝福してもらうために。 




   ♦   ♦   ♦   ♦




--神奈川県・横浜市近郊--



 あおと黒の空。1秒毎に黒が世界の終焉しゅうえんへ向けて広がっていく。昼間だというのに、街は薄暗く肌寒い。引力による海水の満ち引きが、春の風をほろびの風に変え、痛いほどの暴風ぼうふうとしてすべてをおそっていた。


 こうなってしまうと、もはや『社会規範きはん』というこの国の神への信仰心は、生物としての本能に容易たやすく負けてしまう。電線が切れたら、それを直す者はもういない。列車を運転する者もいない。それどころか、空の魔女におびえ、外出する者などほとんどいない。異常な風の音だけが、世界に木霊こだましていた。



 何も通らないのに待つ赤信号。黒いコートと白いコートがそれぞれ強くはためく。遠目に見える病院へ、ゆらゆらと、それでも1歩1歩明確な意思を持って進む2人。


「今日は颯太もお母さんに会ってよ」


 黒猫のバレッタでたばねた白い髪をなびかせながら彩が言った。白髪しらかみに戻してからも、舞衣の歌唱レッスンを受ける日々も、あのTV局で演奏えんそうした日も、彩は病院へお母さんのお見舞いに行かなかった日はなかった。



 病院は自家発電で得た電気で、明かりも空調も医療機器もまだ使用できていた。しかし、医師も看護師も3分の2はおらず、キャパシティーを超えた業務で残された医療従事者たちは疲弊ひへいしきっていた。途中会った看護師の夏生なつきさんは「人手も足りないけど、医療品や輸血用の血液がもう無いの……」と無理やり作った笑顔で言った。助けられる命を助けられないことは、彼女にとってこの上ない苦痛に違いないのに。



 4Fのクリーム色の廊下の奥の部屋。ドアに伸ばした手は、今日はふるえていなかった。「入るね、お母さん」とドアを開ける。


  フフフフーン、フフフ、フフ〜♪


 驚いた。しばられもせず、ベッドの上で上体を起こし、彩のお母さんは鼻歌を歌っていた。穏やかに、昔のような優しい顔で。


「お母さんね、私たちが出たTV観てくれたんだって。歌も聞いてくれたみたい。真剣に見てたって夏生なつきさんが言ってたの」


 ゆらりと微笑ほほえんでそう言った彩。どうやらそれからは眠っている以外のときは、今のように鼻歌を歌って過ごしているそうだ。


 思い出した。


 あの鼻歌は、彩が彩のお母さんの真似まねをして覚えたものだった。彩の家の色とりどりの花がかざられた居間で、ソファーで横並びに座って歌っていたのを。




   ♦   ♦   ♦   ♦




--4日前--


 

 TV局でスタジオに入る前の楽屋がくやにいたときのことだ。舞衣の楽屋にしのび込んで、3バカトリオの御三方が用意した衣装いしょうに着替える。

 着替え終わった白いスーツ姿を鏡で確認したとき「こんな姿でホントにTVに出るの?」と恥ずかしくて怖気おじけづいてしまった。ひらひらの羽根は厨二病をわずらった颯太おれでもさすがにないな、とはずそうかとも思った。彩の姿を見るまでは。


 白いドレス姿の彩はまるで天使に見えた。白い髪も相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。


「ねぇ、颯太……。ホントにこれ着てTVに出るの?」


 顔をあからめて、もじもじしている手は震えていた。自分の気恥きはずかしさなんか構っていられない。こんなときに彼女の力になってあげたくて、心理学を学んできたんじゃないか。そんなことを支えにして、彩に声を掛ける。


「なぁ、彩。あの、えーっと……」声を出したが、何を話せばいいか頭が回らない。


「な、何? 颯太……」下に泳ぐ目。それは、不安の表れだ。


「ちょっと左手を出して」これしか思いつかなかった。


 恐る恐る突き出した彩の左の手。ポケットに入れておいたくれない色のリングケースを取り出す。ただ不安や羞恥心しゅうちしんを取り除いてあげたい。その一心で、ケースを開いて彩に見せる。


「え……、颯太、これって」


「気に入ってくれるといいんだけど」


 薄く桜色に光るダイヤモンドの指輪。ケースから取り出し、彩の左手の薬指に慎重にはめる。思ったとおり、良く似合ってる。左手を引き戻して、目の前で確認する彩。不安や羞恥心を驚きで上書きできたのか、手の震えは消えていた。表情が柔らかくなる。顔は赤いままだったが。


「綺麗……。ふっ、ふふ、あはは。そっかぁ、だから前に指のサイズなんて聞いてきたんだね♪ 期待してなかったわけじゃないけど、こんなときに渡されるなんて思わなかったよー」


「こんなときで悪かったなー」戻ってきた恥ずかしさで顔が熱くなる。


「……ありがとう、颯太。ホントに、嬉しい」目がウルウルしている。


 ホッとした。本当に。彩が嬉しそうに微笑ほほえんでいる。


「でも、左手の薬指なんて……。まるで結婚指輪だよ」


「その……つもりで、用意してたんだけどな……」


 しまった、と言うつもりではなかった言葉に、口を手で押さえる。彼女の表情を恐る恐る確認する。


 彩は目を真ん丸に見開いて、涙がこぼれていた。




   ♦   ♦   ♦   ♦




--神奈川県・梅ヶ丘家--



 世界の最後の夜。窓から見える夜空には星はなかった。光る月にも叢雲むらくもがかかっている。街明かりもとぼしく、静寂しじまと暗闇のとばりが降りていく。


 けている食べ物で、彩はこの夜のためにとカレーを作ってくれた。タマネギもジャガイモもニンジンもわずかな形を残すだけで、牛肉も豚肉も鶏肉も入っていない。カセットコンロで煮込んで、あらかじいた2人で1合にも満たない白米を分け合う。キャンドルでともした柔らかい光の中、2人で最後の晩餐ばんさんを開いた。


「「いただきます」」


 1口1口、少しずつ食べる。よく噛んで、少しでも満腹感を得られるようにゆっくりと食べる。空腹は感情を短絡たんらく的にする。


「明日、ホントに衝突するのかな……」ポツリとらす彩。


「昼過ぎに太平洋が接触、するらしいよ」電源が切れる直前に見たスマートフォンで確認したこと。


「そっか……」


 それ以上の会話はなかった。死を目前として、冷静さを保っていられることなどできない。先日までは音楽にただ夢中になっていた。また、その余韻よいんが残っていた。しかし、その熱も冷め、いよいよもって最後の夜となった今宵こよい。ついに未来がないことを直視する。昨日から電気もガスも使えなくなったことが、なお悲観的にさせる。


 綺麗ごとなど言えない。死を間近に感じれば、なおさら。



 だから、2人は自然と手を握った。その体温が現実をぼかしてくれる。恐怖を言い訳に想いが素直になる。このままで終わってしまうなんてありえない。もっと、もっともっと、キミを近くで感じたいから。


 窓の外の夜空にはオーロラのカーテンがらめいていた。叢雲むらくもから抜け出た月は、そのカーテンを超えて触れ合う2人を照らす。白い髪があわく光る。触れてはいけないと禁じていた唇は熱を帯びていた。死が薄れていく。肌を合わせるほどに。



 それは欲求によるものではない。



 キミと一緒になれる喜びで満たされているから。



「好きだよ」



 間に何物も邪魔のない距離でそうささやく。



「……言ってもらえて、嬉しい」



 何度もわした口づけに、想いが重なった。


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