§ 4ー7  12月24日② 現実を覆う雪



--神奈川県横浜・郊外--



 この道を前に通ったのはいつ頃だろうか。高校生のときに数回歩いた道。無意識に、あまり思い出さないようにしていた記憶が、現実と混ざり合い、当時のことを鮮明せんめいに色付けていく。

 帰り道。小学生だった凛が泣いていたこと。父が無言だったこと。母がうつむいていたこと。はかなく見送る彩の顔。何も出来ない無力さをめた苦い思い。



 この冬一番の冷え込みの夕暮れ時に、横に並んで歩く彩に何も言えずに目的地に脚を進めていた。


 彩が肩にかけている大きめのいつものバッグ。それを見る度に、いつも言葉が出なくなる。「もういいんじゃないか……」と何度も口からこぼれそうになった。今もそうだ。でも、言えない。このバッグを肩に持つ贖罪しょくざいを止めてしまったら、彼女はまた壊れてしまうから……


 花も葉も何も身に着けていない桜の並木通りを通り過ぎると目的地の入口に辿たどり着く。すっかり雲におおわれた空の下に静かにたたず白濁はくだく色の建造物。



 そう、彩のお母さんが入院している病院だ。




   ♦   ♦   ♦   ♦




「こっちだよ」


 不安も焦燥しょうそうもない声。彩の案内する声はどこか感情がない。表情も歩き方もよどみがなく、瞳はいつもより深く黒い。

 4Fのクリーム色なのに無機質な廊下を、慣れた足取りで進む彩に連いていく。前を歩く彩との間をロープでつないだように、1mほどの間隔を保ちながらただ歩いていく。窓から見える薄暗い空が不安をあおる。それでも父との約束を果たすためにも進まないわけにはいかない。視線を前に戻す。


「ここだよ」


 廊下の突き当りの病室の前で立ち止まる。彩はこちらを向かずに閉まったドアに手をかける。金属のドアノブをつかんだところで動きが止まる。いや、震えていた。


「……驚かないでね」


 静かにうなずくと、彩は一瞬だけ口元を緩ませた。


 颯太おれは解っているつもりだった。彩が背負った罰を。しかし、そんな生ぬるい理解はこれまでの現実を何も見ていなかった自分を嫌悪けんおさせることになった。自分は何をしていたのだろうと……




   ♦   ♦   ♦   ♦




 ベッドにしばり付けられ、昔の面影もないほどせ細った女性が目を見開き天井を見つめていた。乱れた長い髪の隙間から見える顔は白く生命力を感じさせない。その姿に足が止まる。無意識化でこれ以上近づけない異質さがそこにはあった。


「お母さん、今日は颯太が来てくれたよ」


 異様さに平然と近づき耳元でつぶやく彩。その声に女は反応しない。と思った矢先にゆっくりとこちらに顔を向ける。ゆっくりと視界の焦点を合わせてるような視線。様子を見ていることしかできない颯太おれにピントがあったのか、青白い唇が動く。


「紅茶を持ってきてくれたの? 遅かったじゃない」


 ただ心が凍てつく。穏やかだがかすれた声。以前来たときと同じで、トクンッと鼓動の高鳴りが体内で響き渡る。


「違うよ、お母さん。颯太だよ」


「あなたは誰? 知らない……誰? やめて、来ないで!」


 彩を凝視し、急にヒステリックに叫び出す。ベッドがきしむほど、頭を激しく右左と振る。掛けられた毛布が乱れ、垣間見えた手はグッと震えながら強く握られていた。


「ああ”あ”あぁぁ! やめてぇぇぇ!! ああ”あぁ!」


 躊躇とまどいのない叫び声。彩が「大丈夫だから、大丈夫だから」と優しく落ち着かせようとする。フゥゥッ、フゥゥゥ、と鼻息をあらげている。ウゥンゥゥ! と首筋が強張こわばっている。優しい表情を崩さず、彩は両肩をおさえる。

 その腕にみつこうとした歯が彩の腕に紅い傷をつける。じんわりと広がる赤の線。唯一動く瞳には、彩の腕に無数の、縦、横、斜めと残る薄い傷が見て取れた。


 目の前の光景は、彩にとっての日常。


 その日常こそ、彩にとっての『罰』。


 家族を壊す原因と生き残ってしまったことが、彩にとっての『罪』。




   ♦   ♦   ♦   ♦




 すっかり日が沈んだ寒空の屋上。自動販売機で買った温かいミルクティーのペットボトルを2人それぞれ手に持ち、青いベンチに座る。


「驚くよね? ごめんね、颯太」と視線を下げる彩。


「こっちこそ、ごめん……」と自分のすべてをいる颯太。


「謝らないで。颯太は何も悪くないんだから……、今日は来てくれて嬉しかったよ」と我が身のことを他所よそに笑う彩。


「いや、俺から来たいって言ったのに、何もできなかったから……」と顔を見れない颯太。


「颯太が気にすることじゃないからね、ホントに。そんな落ち込まないでいいんだから」と紅い傷のことなど忘れたかのようにはげます彩。


「…………」無理くり笑顔を作ろうとしても作れない颯太。


「…………」大丈夫、と語りかける、無理にでも作った笑顔の彩。




 言葉を失った空間に、突然響く。


 フフフフーン、フフフ、フフ〜♪


 懐かしいメロディ。昔、彩がよく歌っていた曲。楽しげにはかなげに響く彩の鼻歌に乗せて、くつ先が同時に踊り出していた。


「おれが演奏するから、彩が歌えよー」


小学6年の頃だ。父が引くクラシックギターが格好良くて、自分にもできるはずと得意げに言ったセリフ。


「えー、颯ちゃんには無理だよー。ギターって難しいんだよ?」


 そう疑う彩にムッとする。


「じゃぁ、約束な! 絶対弾けるようになってやるからなー!」


 彩はあやしむ目をしながら、ニヤついた顔をする。


「いいよ、約束ね。やぶったら針千本飲〜ます! だからね!」


 そんな懐かしく忘れていた約束を今になって思い出す。そういえば、父にねだってゆずり受けたギターを必死に練習したのはこの頃からだ。



 そんな歌に連られたのか、静寂の空からハラリハラリと氷の精が舞い降りる。


「あ! 雪! 雪だよ、颯太♪」


「ホントだ。どうりで寒いと思ったよ」


「ほら、颯太。ホワイトクリスマスを楽しも♪」


「……そうだよな!」


 ホワイトクリスマスの夜。シンシンと振り重なる氷の精。パッと明るく照らす笑顔。

 何のためにここに来たのか。絶対に守らなければならないから。


 父との再会の約束を。


 彩のお母さんの言葉を。


 自分の内の魂を。


 そして、彩を……


 半分以上残っているペットボトルを脇に置く。白い精にはしゃぐ彩。


 紅い傷のついた左腕を、その手を、必死に、切実に、壊れないように、右手で優しく握る。


 まばたきが止まる彩。


 握られた手を見つめる。チラッと颯太を見て、また視線を外す。その代わりに握られた手を慎重にゆっくりと返し、手のひらを合わせる。指は互い違いに。



 触れられない、触れてはいけないといましめていたその手の温もり。それは氷の精でも冷やさない、お互いの確かな熱を伝え合っている証だった。


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