§ 2ー9 7月7日② からっぽのコーヒーカップ
--1年前・7月上旬--
「ねぇ、颯太くん。私たち付き合ってみよっか?」
思いもよらない告白。彼女は髪をかき上げ、いつもより一歩近い距離で、いつものようにイタズラっぽい笑顔だった。
バイト帰り。泣き出した梅雨空。身を隠した
年齢も学年もバイト経験も2年上の
整った目鼻立ちと手入れが行き届いたロングヘアーとスタイルは、風祭さんを筆頭にお客さんも含めて人気があり、彼女目当てで店に来る人もいたほどだ。交友関係は広いようだったが、ちゃんと話ができる相手はそんなにいないんだよね、と少し無理に笑って見せたのは印象的だった。彼氏の
「え、いやいや、紗良さん、彼氏いるんでしょ?」
「あー、彼氏、彼氏ね〜、そーれーはー昨日別れた! だって、なんか
「はは(汗)。きっと紗良さんに優しくしようと思って気を使っていたんですよ。でも、ダブルバインドとかフット・イン・ザ・ドアとか考えれたら良かったですね」
「ん? ダブルバインド? フット・イン・ザ・ドア??」
「あー、心理学の話ですよ。ダブルバインドは『パスタとハンバーグ、どっちがいい?』みたいに選択できるように質問することで、フット・イン・ザ・ドアは、えーっと『もう少し話さない? まだ2人で一緒にいよ? 静かなところに行こうよ?』なんて感じで徐々に要求を大きくしていく手法ですね」
「え、なんか、怖いんだけど。そういうの分かって話し聞いたら、逆に引いちゃうかも」
「そ、それはそうですね。まぁ、どこにでも
「あはは。颯太くんは心理学学んでるんだもんね。なんか、手の平で
「いやいや、紗良さんの相手の方が手の平で
「あれ、
「え?」
「えーっと、私と付き合うのと、毎週一緒にお出かけするの、どっちがいい?」
自動販売機の光が、紗良さんを照らす。少し頬を赤らめて小首を傾げ、覚えたてのダブルバインドを使う顔は、ただただ可愛かった。彩のことが一瞬頭をよぎる。それでも、雨と闇の混ざる景色に浮かぶ彼女にドキドキして、うんっと照れながら
恋人。初めてのことで、どうしたらよいか分からないことだらけだった。恋愛心理学から入り、HOWTOをネットで調べ、流行やデートスポットを軽音楽部の面々に聞き込んだ。
流行りの映画を観に行く。
海に行く。
お祭りに行く。
ショッピングに行く。
水族館に行く。
……
キスをする。
甘く抱きしめ合う……
自分で言うのも変だけど、順調に交際していたと思う。しかし、付き合いだして3ヶ月程経ったころ、2つの変化が紗良との関係の歯車を狂わせたのかもしれない。
1つは彼女が喫茶ル・シャ・ブランをやめたことだ。某TV局の内定が決まっていたことから、研修やらなんやらで忙しくなりバイトを辞めることになった。「寂しいだろ〜」となじってきた風祭さんが一番肩を落としていたかもしれない。
もう1つが、匡毅と彩が付き合い出したことだ。匡毅が彩に惚れているのは分かっていたことだけど、彩が匡毅の告白にOKをするとは心の底では思ってもみなかった。そして、それが今までの関係・距離感を変えざるおえないことを理解した。
それでも紗良とは、ライブに来てもらったり、学祭を一緒に回ったりと出かけはしたが、会える機会は少しずつ減っていった。会ってるときの素ぶりや仕草、笑った顔は以前と同じだと思った。でも、少し疲れていたようにも今思えば感じる。
12月24日。恋人がいる初めてのクリスマス・イブ。イルミネーションを見に行こうと待ち合わせたカフェ。16時の約束に30分前にブレンドコーヒーを注文する。席の横に置いた
16時。5分。10分。15分……。【どうしたの?】のメッセージには返事も読んだ
30分。45分。1時間……。何度か送ったメッセージの後に彼女からの言葉が届く。
【突然だけど他に好きな人が出来て、その人と今日は過ごすから会えません。これで終わりにしましょう。ごめんなさい】
え? どうして? それだけが頭をいっぱいにする。メッセージを返しても、電話をしてもその後、彼女に繋がることはなかった。すっかり空になったコーヒーカップと同じ。窓から見える夜空のように、ただ真っ暗だった。
大学はもう単位を取り終えて彼女はほぼ通っていない。内定の決まったTV局の前で待ってみても、彼女には会えなかった。匡毅や他の知り合いから連絡してもらっても、何も話すことはない、という返答を人づてで聞くばかり。
自分の何がいけなかったのか? 別れたくないという思いより、別れに
こんな結果になるなら……
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