鬼来迎

夜行性

鬼来迎

「地獄の釜の蓋が開くんだよ」


 日に焼けて節くれだった指に短くなったタバコを挟み、煙を吐き出しながら祖父は言った。


 なるほど水平線を燃やすような鮮やかな夕焼けは、まるで地獄の業火を垣間見ているようだ。今なら祖父の言葉が理解できるような気がする。その時は、じごくのかま、というのが何なのか全く分からずに、ただ祖父に手を引かれて空と海の境界を眺めていた。


 それはとても良くできた人形だった。僕よりも少し小さくて、つるりとした白い肌に黒目がちな丸い瞳。鼻は低くて小さく、唇は富士山みたいな形で少し開いた隙間に白い前歯が見えていた。僕と違って髪の毛がまっすぐで柔らかかった。あんなに大きな人形は見たことがない。だから祖父がその人形を捨てると言った時、もったいなくて悲しくて、僕はどうして、と聞いた。祖父がなんと答えたのかは思い出せない。

 

 太陽が沈んだ後の海は、柔らかくて暗い、静かな霧のように見えた。祖父が船からその人形を海に放ると、黒い霧が手を伸ばして人形を抱きとめた。髪の毛がゆらゆらと漂い、白い肌を覆い隠してしまう。少しずつ霧に染まるように消えていく人形を僕は見つめた。水の中でふわりと浮かぶように動いた手が、僕に伸ばされたような気がした。


 地獄の釜が開いて、迎えに来る、確かそう言っていた。今思えば、あの時の祖父は多分酔っていたし、僕もまだ六つか七つで、それほど記憶が鮮明なわけでもない。ただ、それが祖父との最後だったことは覚えている。酷く寒くて、救急車が来て、パトカーが来て、父親は恐い顔をして、母親は泣いていた。

 

 病院に連れて行かれてあちこち調べられ、そのうちに疲れて眠ってしまい、そのまま何日か病院に泊まった。ある日気がついたら家の布団に寝かされていて、浅い眠りが途切れて目を開けると、母親が隣で僕の手を握りながら眠っていた。僕も再び吸い込まれるように眠り、たぶんその時に初めて墜ちる夢を見た。


 しばらくは学校にも行かず、ずっと母と一緒に家にいて、母がとても優しかったのを覚えている。普段あまり買ってこないプリンやアイスを毎日のように食べさせてくれたのが嬉しかった。



 *****

 


 大学生になった年の秋、年上の従兄弟が結婚することになり両親と僕は式に招かれた。派手な披露宴が終わった後、両親は久しぶりに会う親戚たちと思い出話に花を咲かせている。僕は従兄弟について、なんとなく覚えている程度で、特に仲良く遊んだ記憶もなかった。だから彼が挨拶に来た時に、話題に困って子供の頃の当たり障りのない話をした。


「夏におばあちゃんの家に行った時に、一緒に遊んだよね。あの店まで二人で買い物に行ってさ。なんだっけ、あの店、ええと」


「あそこの角のな。名前忘れたけど」


「そう、鳥がいたよね」


「ああ、いたな九官鳥。懐かしいな」


 自分でも意外なほどよく覚えていた。覚えていたというより、忘れていたものが、話し出すと溢れるようにあれこれと思い出されるのだ。そうして子供の頃の思い出を話すうちに、ずっと忘れていたことが口をついて出た。


「おじいちゃんとさ、船で海に行ったことある?」


 僕がそう尋ねると従兄弟は不思議そうな顔をした。


「海? 行ったことないな。船って、フェリーみたいな?」


「いや、おじいちゃんの船だよ、漁に使ってた」


「じいちゃん、船なんか持ってた?」


「漁師だから持ってたよ」


「え? じいちゃん役場の人だろ?」


 従兄弟が不思議そうな顔で僕を見ていた。彼の表情を見る限り、おかしなことを言っているのはどうやら僕の方らしい。僕は咄嗟に誤魔化した。


「——あ、そうか。あれ違うおじさんの船だ」

 

 そう言って従兄弟と別れた後、僕は気分が悪くなってトイレに走り、個室のドアが閉まるのと同時に胃の中身を全て吐き出した。美しく盛り付けられていたフランス料理の色とりどりは、僕のお腹の中で茶色くなっていた。生きていた子羊は死んだ子羊になり、僕に食べられて、そして吐き出されてしまった。


 渦を巻いて下水管に吸い込まれていく子羊を見ながら、僕はさらに自分の胃袋も吐き出してしまいたいくらいに嘔吐えずいたが、もう何も出てこない。鼻水と涙と苦い胃液で汚れた顔を洗って、とんでもない悪さをしたような気分でトイレから逃げ出した。


 ホテルの部屋に戻ってシャワーを浴び、すぐにベッドに潜り込んでも、僕のぼんやりとした記憶から滲み出る違和感は消えない。何時間か布団の中で寝返りをうって、そのうちにまたあの墜ちる夢を見て目を覚まし、僕は少し眠っていたことに気がついた。久しぶりに味わう墜落の感覚はとても気持ちが悪かった。 


 その夜以来、僕はまた度々墜ちるようになり、それと同時に不思議な夢を見た。白い部屋で、僕はゲームや落書き帳を与えられ、それで遊んでいると、女の人がいろんな質問をした。おじいちゃんとどんなところへ遊びにいったのか、おじいちゃんのことが好きだったか、そんなことを聞かれる。夢の中の僕がそれになんと答えたのかは、いつも思い出せなかった。僕はただ、いつもカードを並べたり絵を描いたりしているだけだった。何回か同じような夢を見るうちに、ある日その女の人は人形について尋ねた。



 *****



「ねえ」


 声を掛けられて僕はハッとする。眠っていたわけではない。僕の右手はずっと彼女の髪を撫でていて、僕の目は窓から差し込む夕暮れの残響で、暗いオレンジ色と長い影を映した天井を眺めている。


「お腹減った」


 そう言って彼女は僕の胸の上に両手を置いて、うつ伏せていた上半身を起こした。パラパラと砂が落ちるように彼女の髪が僕の体にこぼれる。背中のシーツが湿っていて気持ちが悪い。僕は体を横向きに起こして彼女に答えた。


「なにか食べに行こうか。シャワー浴びる?」


「うん、浴びてくる」


 体を起こし立ち上がる彼女の裸の背中に流れる黒髪を眺めながら、僕はまたあの人形のことを思い出していた。人形の顔ははっきり思い出せない。ただゆらゆらともやのように漂う髪の毛と、僕の手の中の白くて小さな手に並んだ爪だけが妙に鮮明に浮かんでくる。僕はベッドからシーツを引き剥がして洗濯機に突っ込んだ。彼女と入れ替わりでシャワーを浴び、近所のファミレスへ行った。


 夕食にはまだ早い時間帯、店は空いていて静かだった。窓の外を歩いていく二人は親子だろうか、小さな子供の手を引く女性。子供は泣きながら懸命に何かを訴えている。女性が子供を見下ろして言葉をかけた後、しゃがんで子供を抱き上げた。ずいぶん長い時間をかけて親子は窓を横切り、やがて見えなくなった。僕は視線を正面の彼女に戻す。そしていつかそうしようとぼんやり考えていたことを口に出した。


「夏休み、海にでも行こうか」


 僕がそう言うと、彼女はフォークに巻きつけたスパゲッティに口を開けたまま驚いた顔をする。僕が出不精で、あまり遠出したがらないのを少なからずがっかりしていたのだから、当然だろう。


「珍しい。人の多いところ嫌がるのに」


 僕は去年の学祭で、人混みに酔って気分が悪くなり、人気の出店に並んでいた彼女の時間を無駄にしてしまったことを思い出す。


「ああ、ごめん。——海水浴じゃなくて、ただ海を眺めるだけだけど」


「——だよね。いいよ。私も日焼けすると後が酷いから」


 化粧をしていない彼女の顔は普段よりも随分幼い。派手ではないけれど整った目鼻に白い肌が清々しくて美しいと思う。大学で会う時はいつも濃い化粧をしているが、しなければならない訳ではないらしい。その辺りは僕にもよく分からない。ただ、そんな無頓着さと、薄いそばかすの下に血の色が透ける肌が僕は好きだ。


 恐らく僕は女の人を見る時、無意識に人形を思い浮かべているのだ。あの人形のような肌、人形のような唇、人形のような髪の毛。あの人形がどんな風だったのか、いつもそれを探している。そうして尋ね歩いて、しばらく様子を見て、やはり違うと思う。そればかりを繰り返してきた。


 初めて彼女を講義で見かけた時も、あの人形に似ているような気がしてこっそり目で追った。それから何度か言葉を交わし、彼女が笑ったり怒ったりするのをしばらく眺めて、彼女があの人形とは似ても似つかないことに気がついた時、僕はようやく彼女の体に触れることができた。そして僕たちは何となく付き合い始めた。


 夏休み、僕は彼女と一緒に短い旅行の予定を立てた。目的地は、当然のように祖父の住んでいた街にした。電車で二時間ほどの海沿いの街で、長い砂浜が美しい場所だ。とは言え、さすがに海を眺めるだけでは申し訳ないので、花火大会の予定に合わせての一泊二日を計画した。


 両親にその街に行く事を伝えなかったのは、なぜだか二人に悪いような気がしたせいだ。あの海で夕陽をもう一度眺めて、祖父の墓に行くだけなのに。きっとひとりで行くべきなのだと思う。彼女を付き合わせるのは僕のわがままだ。

 

 彼女は前日から僕の部屋に泊まり、僕は明け方にやはり夢を見て目を覚ました。狭いベッドの上で寝返りをうつと、カーテンの向こうの遠い空で夜を燃やす朝日が、彼女の体のシルエットをぼんやりと僕に見せる。聞こえるはずもない彼女の鼓動に耳を澄ませ、彼女の髪に鼻をうずめた。


 気がつくとスマホのアラームが七時半を知らせていて、僕たちは少ない荷物をバッグに詰めて部屋を出た。電車代も僕が出すつもりでいたのに、彼女はさっさと改札を通り抜けてしまって、僕は慌てて追いかける格好だった。昼前に目的の駅に着いて、僕のバイト代では精一杯の駅前のビジネスホテルへ荷物を預けた。


 大きな観光地ではないが、海の近くには観光客相手の土産物屋や飲食店が点在している。僕たちはいくつかの店を見てまわり、海沿いの店で昼食をとった。


「ちょっと、寄りたいところがあるんだけど」


 僕がそう切り出すと、彼女はアイスティーのストローを咥えながら僕を見る。グラスに並んだ彼女の爪は、いつもより派手なオレンジ色をしていてそこだけ作り物みたいに艶々と光っていた。目を離せずにいると、グラスの肌を滑り落ちる滴が、涙のようにぽつりと落ちてコースターに染みを作った。僕はそれを見つめたまま続ける。


「ここから少し歩くけど、いい?」


 彼女がグラスを置くと、水滴は壊れて次々と流れ落ちる。


「うん、いいよ。もう出る?」


「いや、急がないよ。ゆっくり飲んで」


 僕たちはしばらく涼んだ後、店を出て海沿いの崖に張り付くような細い階段をひたすら登り、海を見下ろす崖の上の墓地に辿り着いた。日の当たる墓地に並んだ墓石が眩しく反射している。


「お墓? 誰の?」


 彼女は見晴らしの良い崖の上から海を眺めて深呼吸したあと、僕に尋ねた。


「おじいちゃんとおばあちゃん」


「そうなんだ。……お墓参りするならお花くらい買ってくればよかったのに」


「いいんだ、そこまでしなくても」


「そうなの?」


 子供の頃から親に連れられて何度か墓参りに来たことはあったが、いつも少し離れた場所から眺めて手を合わせるだけで、こうして間近に墓石を見るのは初めてだった。墓参りの正しい作法はよく分からなかったので、僕はコンビニで買ったペットボトルの水を掛けて短く合掌した。彼女は僕の後ろで同じように手を合わせてくれた。


「ひとつ、確認したいことがあったんだ」


 僕は、彼女に対してなのか祖父に対してなのか分からない言い訳をして、墓石の後ろへまわった。漢字がいくつか刻まれ、その中に読み取れる祖父母の名前と、日付。予感していなかった訳ではない。けれど、いざその事実を突きつけられると、僕の体は竦んで冷や汗をかいた。


「おじいさん、どんな人だったの?」


 不意に投げ掛けられた言葉があまりにも鋭すぎて、僕は弾かれたように彼女を見る。ヒリヒリと張り付くような喉を鳴らして唾を飲んだ。絞り出す声が掠れる。


「会ったことないんだ。僕が生まれてすぐ死んじゃったから」


「そっか」


「そろそろホテルに戻ろうか。一度チェックインしよう」


 彼女を促し、僕は逃げるように墓地を後にした。ホテルに戻ってチェックインを済ませ、時間は午後四時を少し過ぎていた。暑さのせいか、信じたくない事実のせいか、僕は酷く頭が痛かった。彼女は青い顔をした僕を心配して、コンビニで氷やスポーツドリンクを買ってきてしばらく僕を休ませてくれた。


「海の見える旅館とかなら良かったんだけど、こんなビジネスホテルでごめん」


 ベッドに腰をおろすと、スツールに腰掛けた彼女とお互いの膝がぶつかるほど狭い部屋で、僕はぐったりしながら自己嫌悪に陥った。彼女はバッグから頭痛薬を取り出して水と一緒に僕に差し出す。


「ああいう所って泊まるだけで何万もするし。ホテル代は安く済ませて、その代わりに美味しいもの食べに行こうよ。お店調べてみるから、少し休んで大丈夫そうなら出かけよう」


 そう言って彼女は僕の隣に体を投げ出してスマホを弄り、僕は彼女の二の腕に額を押し当てて目を閉じた。僕の中で夢だったものが、いま僕の中から出て来ようとしている。それが夢ではなく、事実であることを思い知らせようとしている。カーテンを閉め切った暗い部屋で、目を閉じていたのが数分なのか数時間なのか分からない。マットレスが軋む音に薄く目を開くと、彼女がごめん、と囁いた。


「いま何時?」


 肘を突いて体を起こすと、僕は時計を探した。


「まだ五時半だよ。具合はどう?」


「なんかスッキリした。大丈夫そう」


「よかった。出られそう?」


「うん、まだ間に合う。出かけよう。花火がよく見える場所があるんだ」


 僕たちはすぐにホテルを出てバスターミナルまで歩いた。花火大会の会場の浜とは反対へ向かうバスに乗り込み、三つ目のバス停で降りるとそこには静かな砂浜が広がる。大きな海水浴場から防波堤で切り離され、駅からも遠く駐車場もないこの浜には、観光客は滅多に来ない。


 バス停近くのコンビニを過ぎると他に店もないので、僕たちはそこで缶ビールを買って砂浜に降りた。案の定、足元は砂に埋もれて仕方ないので二人とも裸足で砂の上を歩く。昼間の太陽に灼かれた砂はこの時間でもまだ熱を帯びていた。


 バスを降りた時にはまだ昼の領域だった空が、少しずつ温度を下げていく。彼女は裸足でまだ温かい砂の上を歩き、そのまま波打ち際まで躊躇わずに足を踏み入れた。砂に汚れた足を洗われて、歓声を上げる。引いた波を追って黒く均された砂に足跡を残し、また押し寄せる波に追われてはしゃぎながら戻ってくる。せっかく綺麗になった足を砂だらけにして僕の隣まで走ってくると、そのまま腰を下ろした。遠くの水平線には、もうじき太陽が囚われようとしている。


「ビールちょうだい」


 彼女がそう言って手を伸ばす。僕は袋から缶を取り出し、彼女に渡す。美味しそうに飲む彼女を見ながら僕も一本目を開けた。


「ねえ見て。すごい綺麗。夕陽ってこんなに赤いんだね」


 微かに残る紺青は眩しい緋に塗り替えられ、海の果てに吸い込まれる太陽は鮮やかな金色の光を水平線に滲ませている。


「地獄の釜の蓋が開いて、迎えに来るんだって」


 僕はふと思い出したその言葉を呟いた。


「じごくのかま?」


 彼女はかつての僕と同じように言う。


「地獄の釜」


「誰を迎えに来るの?」


「……僕を?」


「え?」


「なんてね。意味はよくわからないんだ」


「ふうん。だから海が怖いの?」


 僕を見つめて静かな口調で彼女が呟く。僕は不意を突かれて言葉を失った。


「そう、なのかな」


 やっとのことでそう返すと、彼女は笑って僕の手を掴み、前のめりにバランスを崩しかけた僕を引っ張って波打際まで走った。


「私も怖い。ほら、波が捕まえに来る感じがする。流れる砂に足首を掴まれて引きずり込まれるような感じ」


「僕はたぶん、人が死ぬところを見たんだ」


 彼女は何も言わず、ただ動きを止めて僕の顔を見た。


「その人は、私に似てるの?」


「似てない。——全然似てないよ」


「迎えに来たら、一緒に行きたいの?」


「どうだろう、僕はもう大人になってしまったから」


 足の裏で砂が激しく動き、僕の足元の地面を崩していく感触に意識が遠くなりかける。倒れる、そう思った瞬間、繋いだ右手を彼女が強く握り返し、波は僕を拒むように突き飛ばす。二人とも飛沫しぶきを被って、もう腰まで濡れていた。いつの間にか、太陽は海の中に沈み、ほんの少しの余韻を残して空は夜の色に変わっている。


「僕が殺したのかもしれない」


 僕の手を掴んだ彼女の後ろの空に光が尾を引いて駆け上がり、弾けるように大きな花が開いた。空が破れるような音が響き、僕は水面に映る光が千切れて消えていくのを見た。音が空気に吸い込まれて、ようやく鼓膜が波の音を取り戻した時、彼女が静かに訊ねる。


「それを、確かめに来たの?」


 僕の告白は唐突で、支離滅裂なものだろうと思うが彼女は特に驚きもせず、むしろ混乱している僕に言い聞かせるように穏やかだった。僕の子供の頃の記憶では、祖父と一緒に海に出かけ、そのあとすぐに祖父は亡くなった。両親も誰も、詳しく話しはしなかったし僕自身の記憶も曖昧だった。ただいつも、僕と祖父のほかに少女の人形のことを思い出すのだった。


 海に沈みゆくあの人形は本当に人形だっただろうか。あれは女の子だったのではないか、いつからかぼんやりとそう思うようになり、そしてそれは僕の中で確かな事実に変わり始めていた。従兄弟と食い違う祖父の記憶、そもそも僕にはあの時のあの祖父以外の記憶がない。そして今日、墓石に刻まれていた日付は僕が生まれた翌年のものだった。それならばあの男はいったい誰だったのか。


 二本目のビールを空けながら、僕はそんな曖昧な記憶をぽつりぽつりと彼女に話す。花火もいつの間にか終わり、濡れた体に風が涼しくなってきた頃、僕らは砂浜を後にした。


 ずぶ濡れになった僕たちは、砂まみれのサンダルでバス停まで辿り着くと、払っても払ってもこぼれる砂にうんざりしながら、時間通り現れたバスに乗り込む。服が濡れているのはどうにかバレずに済みそうだが、シートを汚すのは気が引けて、僕たち二人は立ったままで駅前のバス停まで手を繋いでいた。時々大きく揺れる車内で、そのたびに僕は彼女の右手を掴んだ手に力を込める。ビールを飲んだせいなのか、少し高めの体温は僕とちょうど同じようだ。僕の左手の甲に並んだオレンジ色の爪を視界の端に見ていた。


 駅前のバスターミナルで下車して街を歩き回るうちに、僕らの服はだいぶ乾いていた。彼女が見当をつけた店をいくつかスマホで見比べて、ようやく少し遅めの夕食にありつく。ほんの少しだけいつもより贅沢をして、疲れ切った僕たちはビジネスホテルの妙に柔らかいマットレスの上で沈むように眠った。


 目が覚めると朝食の時間をとうに過ぎていて、慌てて散らかった荷物をバッグに詰め込みチェックアウトする。アパートの僕の部屋は丸一日閉じ込めた熱い空気で破裂しそうになっていた。

 

 たった一本の缶ビールで自白した僕の罪は、彼女の中でどう分類されたのだろうか、あれからもう何日も経つのにそのことについて話をしていない。だから週末僕の部屋に来た彼女が、真夜中のファミレスでグラスの底の氷をつつきながら突然僕にスマホを差し出し「これじゃないかな」と言った時、僕は何の話だか理解するのにしばらくかかった。


 彼女が差し出した画面には「小一男児・四歳女児誘拐事件」という見出しで、その事件の概要が表示されていた。僕は同じサイトに自分のスマホでアクセスして、記事を一通り読んだ。それは僕が六歳の夏、祖父の住むあの街で起きた誘拐事件だった。


 十五年前の八月、祭りで賑わう神社の境内で行方不明になった四歳の女の子と小学生の男の子。帰省した両親とともにその街を訪れていた男の子と地元で暮らす女の子は面識のない他人同士だった。被疑者は地元で漁師をしていた五十代の男。泣きわめく女児を連れて歩く姿や、日没の迫る時間に船を出す姿などの目撃情報から、すぐに男が被疑者として浮かび上がった。男は周辺で多発していた児童への不審な声かけ事案への関与が疑われていた。


「事件の二ヶ月後、およそ三〇キロ離れた防波堤で発見された遺体が男であると確認され、被疑者死亡のまま書類送検された」


 僕は記事を読み上げる。ニュースキャスターが原稿を読み上げるのと同じくらい、なんの感情も湧かなかった。スマホから顔を上げると、彼女が僕を見ていた。


「探せば犯人の顔も分かるかもしれないけど」


「いや、いい」


 犯人の顔、その言葉を聞いた途端、僕は急に口の中に苦い味が上がってきたような気がして、彼女を遮るようにそう言うと彼女は申し訳無さそうに黙った。彼女はちっとも悪くないのに。


「あのね、こんな話、するかどうか迷ったんだけど……でもその記事の最後のほう見て」


 彼女に言われて僕は暗くなったスマホの画面に触れ、スクロールして記事の続きを読んだ。

 

 ——海に転落した児童二名は、救助され病院に運ばれた。いずれも命に別状はなかった。二人が救命用の浮環を手にしていたことと、当時は八月で水温がそれほど低くなかったことが幸いしたものと思われる——


 浮き輪、そんなものがあったのかどうかは僕も覚えていない。ただ、今になってはっきりと思い出したのは、男の背中の感触だった。汗と体温でじっとりしたポロシャツの生地と岩のように重い手応えが、僕の手のひらにはっきりと残っている。僕はテーブルの上のおしぼりに手を伸ばし、手のひらを強く拭った。擦るのをやめるとまたすぐに生温かく、湿った不快感が戻ってくる。もう一度おしぼりに手を伸ばすと、その右手に彼女の手が重なる。


 あの時、泣いていたあの子は隣にいた僕の手を掴んだ。手を繋いだ僕たちが兄妹に見えたのか、男は僕たちにおいでと言った。僕の手を掴んで離さなかった小さな手。


 その手を握り返し、僕はやっとあの海の水面に浮かび上がって大きく息を吐いた。


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鬼来迎 夜行性 @gixxer99

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