夢雑記
柴犬美紅
第1話 植林する男の夢
男の名前はサイトウと呼ばれていた。下の名前は呼ばれていないから最後まで知らなかった。彼は父親と母親と暮らす、普通の人間で高校にも大学にも普通に通っていた。
人の活気あるところで暮らし、会社でサラリーマンとして働いて、結婚して、安定した家庭を持つ、どこにでもいるような男だった。
ある日彼は会社に行かなくなった、行く会社がなくなった。真昼の日差しで電灯をつけなくても明るい家族向けの大きい部屋の中、家電と家具、空のおもちゃ箱、家族だった名残に囲まれて、サイトウは背広を着たままダイニングテーブルの前に置いてある署名済みの離婚届をただただ見つめていた。
サイトウは車を走らせていた。唐突に話が変わるのは夢ならではだ。自殺しようとか暗い気持ちを抱えての移動じゃないことはなんとなく分かった。橋を越えて、海を越えて、山に入って、曲がりくねった道をどんどん進んでいく。どこにいくかは本人しかわからない。
土砂崩れの酷いところでサイトウは車を降りた。よく見れば彼が運転していた車は軽トラックで、荷台には土と苗木、スコップなど植林に使う道具みたいなものが積み込まれていた。
岩と石と倒れた木、それらを手で丁寧に取り除きながら土を触る。
『生きている。』
触りながら彼は直感でそんなことを思った。
いつの間にか植林の知識をサイトウは勉強していたらしい、土を触っては頷いて、1人で黙々と土砂を片付けて、苗木を植えて、倒れた木もどこかへ植え直して、山の一角の土砂崩れを整え始めた。手際がすごく良かった。
サイトウは山にあった一軒家を住宅兼作業場として利用し始め、彼のことをどこかで知った男が1人、また1人と増えていった。この集まったうちの1人が彼を「サイトウさん。」と呼びかけたことで名前を知ることになった。
サイトウの周りの人は大なり小なり彼と似たような傷を持っていた。
例えば、働いていた工場が潰れ妻子と離婚し独りとなった男、人生に希望を持てなくて、長く引きこもっていた男、家庭環境が複雑で人間関係がうまくいかなくて職場が定まらなかった男、何かしらの傷を抱えた人達が集まっていた。なぜここまで知ってるのかといえば、皆時々一緒に酒を呑んで、その時此処へ来た理由をポツポツ話していたようだ。
皆誰1人欠けることなく話し合って、協力して、とある山の一角を整えていった。お互いの過去を一切を気にすることなく彼らは一緒に働き続けた。
『ああ、俺はこれがしたかったんだ。木を植えて、森林を蘇らせる。できることなら立派になった植木に囲まれて、俺は死にたいな。』
平凡な生活が急に終わった日、全てのことが黒く塗り潰されて、いいことが一つも見えない、浮かばない、そんな気持ちが広がっていたけれど、夢から覚める前の彼の抱えていた気持ちには、その闇からは遠くなっていた。
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