第5話 食事処 根(ね)
その日。
私・
「薫ーしっかりおし」
勾玉の
座り込む私を屈んで見ていた勾楼は、立ち上がって背後にある建物を見る。
『
入口の暖簾にはそう書いてある。和風な作りのお店で、扉も引き戸に見えた。
私も、水をしまってからぼんやりと暖簾を眺める。酷くお腹が空いていた。走って疲れたのもあって、あんまり頭が働かない。いつの間にか、追いかけて来ていた人影の群れも消えていた。
私と勾楼は今日、親戚の家に訪れて、今はその帰り。
やたら楽しく喋るおばさんで、ようやく家を出たのはすっかり日が暮れてから。道を歩いていたら、真っ白な濃い霧が出てきて、真っ黒な人影の集団に追われた。お化けか人間か分からないけど、やばいことは間違いない。勾楼に引っ張ってもらいながら逃げていたら、ここに辿りついていたのだ。
疲れて、何だかふわふわする。
「大丈夫かい?薫」
勾楼が振り向いて、私を見る。
「ふらふらする……」
立ち上がる私を、勾楼が手を掴んで支えてくれた。
「昼間にクッキー食べただけだからねぇ……」
苦笑いする勾楼の後ろで、引き戸が静かに開いた。
素早く、勾楼が振り向く。
中からは、黒い着物姿の若い男性が出て来た。
「いらっしゃいませ」
普通の飲食店の店員さんが浮かべるような笑顔と共に、その人は私たちに頭を下げた。
普通の店員さんに見えて、私は自然と頭を下げてしまう。
「ーー食事処、って暖簾にあるけどさ。ここは、本当に食事をする処なのかい?」
勾楼が聞くと、店員さんは笑って頷いた。
「仰る通りにございます。外見はご覧のように和風なんですが、洋食のご用意もございますよ」
「ふむーー」
何か考えるように、勾楼は顎に手を当てる。
私はただ見てただけだけど、急に背筋がゾクリとした。
後ろから、何か声が聞こえてくる。さっきの黒い人影だ。そう思った。勾楼も、私の手を掴みながら後ろを見てる。
「ーー中へどうぞ」
店員さんが変わらぬ笑顔で、私たちにそう言う。私と勾楼は顔を見合わせる。正直この人も怖くなってきたけど、結局中に入ることにした。
入ったら、お座敷の席に通された。個室っぽくて、小さい入口に藍色の暖簾みたいな、カーテンみたいなものがかかっている。
中は、普通のご飯屋さんの店内、という感じ。カウンター、テーブル、お座敷の席があって、お客さんもそこそこいる。壁にはメニューらしいものが書かれた短冊型の白い紙がいくつも貼られていたが、文字はインクが滲んでいるように読めない。
「……あんまり見るのはお止し」
勾楼に低い小さな声で言われて、私は見るのを止める。座ったら、急にくらくらしてきた。目の前がぐるぐるする。
隣に座る勾楼に頭がぶつかった。
「ごめ……」
「薫!?」
私は寝かせられて、荷物の中のペットボトルの水を口に入れられる。
何とか飲み干したけど、起き上がれない。景色が歪むから、目を閉じた。
「どうしたもんかね……この店の食べ物は食べちゃまずいだろうし……」
何で食べちゃダメなんだろう……。
「失礼しますね」
凛、とした綺麗な声が聞こえた。
頭の方にいる勾楼が、体勢を変えるのが気配で分かる。
誰か入って来たみたいで、見たいけどやっぱり動けない。目を開けるのも怠い。
女の人の、小さな声が聞こえた。
「随分お腹を空かして来てしまったのね。ーー可哀想に、こんなに具合を悪くして」
「あんたは、」
「これをあなたたちに食べさせる為に来たの。これは、食べても大丈夫なものだから」
ことん、と何かが置かれた音がする。
何とか、目を開けた。目だけ動かすと、私たちの向かいに誰か座っているのが見えた。
でも、テーブルが邪魔でその人の姿がよく分からない。
「……こりゃあ、桃かい?」
「そうよ。ーー店の者や他の客が来る前に、早くお食べなさい。貴方もね」
「私も?」
尋ねる勾楼に、優しくも急かすような声が返す。
桃……?
耳に入る言葉を理解しようとしている間に、私はゆっくり抱き起こされた。勾楼が、私の顔を覗き込んでくる。頬を少し叩かれた。
「薫、大丈夫かい?」
私は頷いて返す。
「口をお開け」
少し開けた口に、何か乗ったスプーンを入れられる。
甘くて少し柔らかい、桃だった。でも、今まで食べた中で一番美味しい。
「……おいしい」
目が覚めたみたいに、急に視界がはっきりした。ぼんやりしていた勾楼の姿がちゃんと分かる。
「もう少しお食べ。私もいただくからさ」
勾楼に食べさせてもらって、多分二人で一個分くらいの桃を完食した。
その頃には、ちゃんと起き上がれるようになってめまいもなくなった。
「ありがとう、勾楼」
「さっきよりは元気になってるね」
「良かったわ」
私はようやく、テーブルの向かいに座る人を見た。すみれ色のブラウスを来た女の人。肩より長い黒髪を左側で一つに結っている。お母さんより少し歳上に見えるけど、かわいらしい感じ。それになんだか、すごく懐かしいような前に会ったような変な感覚になる。
「あの、桃……ありがとうございます」
「ありがとう」
勾楼と二人でお礼を言うと、女の人は小さく笑った。
「いいのよ。早くここを出た方がいいわ」
す、と、その人は、この座敷を出て真っ直ぐの方向を指差した。
「真っ直ぐよ。木で出来た戸があるから、それを開けてまた真っ直ぐ進みなさい。ーー大丈夫」
「あの、」
言いかけた私に、女の人は口元に人差し指を立てて首を振る。
そしてそのまま、桃が入っていた皿を持って座敷を出て行ってしまった。
女の人を見送って、私は勾楼を見上げる。
「……とりあえず、言われた通りに進もうじゃないか」
「うん」
私と勾楼は、暖簾をくぐって通路に出る。
店内はさっきまでと変わって、薄暗くなっていた。お客さんは変わらずいる。でも誰もが、無表情で、機械みたいに黙々と箸を動かしている。顔色が青かったり白かったり、普通には見えない。
「薫、見るんじゃないよ」
先を歩く勾楼に手を引かれ、私は黙って真っ直ぐに進む。「お嬢さんたちもどうだい?」と声がして、通路から近い席の全てから、料理が乗った皿を次々と突き出される。その全ての皿の上には、真っ黒な泥のような何かが乗っていた。びっくりして立ち止まりそうになる身体を、勾楼に強く引っ張られる。
「大丈夫。止まるのはいけないからね。ーー触れるでないよ」
言いながら、勾楼が手で皿を押しやって進む。ふと勾楼を見上げると、怒っているような、悲しそうな、よく分からない表情をしている。不思議と、お客さんたちは席を立ってこっちに来なかった。長いような短いような時間で、言われた通りの木の戸に行き着いた。勾楼が静かに戸を開き、二人で外に出る。直ぐ後ろから、声を掛けられた。
「ーーおや、食事は召し上がらないので?」
揃って振り向くと、店員のあの男性が、にこにこ笑いながらこちらを見ている。
店の明かりのせいか、ぼんやりと身体が青白く光って見えて、怖い。私は、勾楼の着物を少しだけ掴んだ。勾楼は私をちらりと見て、また店員さんを見やる。
「……この子には、まだ早いンでね」
「残念です。この辺りでは久しぶりのお客様でしたのに……先に桃を食べられては、手出しは出来ませんね。お客様たちは運が良い」
どうして桃のことを知っているのか。
びっくりして、着物を掴む手に力が入る。
勾楼が口を開いた。
「ここは、黄泉の食事処だね」
「ーー人によっては、そうおっしゃいますね」
にこりと、店員さんが笑う。
「客を見たが、あんたらまさか、迷い込んだ何も知らない客に黄泉の食物を与えて仲間にーー」
勾楼の言葉を、店員さんは表情一つ変えずに聞いている。
「……否、止めようかね。私らは帰る客さ」
「その方がよろしいかと」
ごきげんよう、と頭を下げて、店員さんは店の中へ戻って行く。それを見送って、私たちはあ、と声を上げた。
蜃気楼みたいに揺らいで、店が消えた。夜に溶けたみたいに。しばらく店があった場所を見ていたけど、勾楼がくるりと前へ向き直る。
「真っ直ぐだろう?さっさと行こうかね」
「……そうだね」
勾楼に手を繋いでもらって、真っ直ぐ進んで行く。聞きたいことは山ほどあったけど、上手く言葉に出来ない。何かの視線をたくさん感じたけど、行きと違って何にも襲われなかった。
「……桃のおかげかね」
「桃の?」
勾楼は前を見たまま続ける。
「桃には古来から、魔除けの力があるのさ。神話でも、桃を使って魔を退けた話があるくらいだよ」
「……そっか」
無事に帰れるまで、その力が続いてほしい。
どれくらい歩いたか。ずっと真っ暗な道だと思っていたのに、気付いたら、最寄りの駅前の道に出ていた。急に人が増えて、賑やかになっている。それでやっと、戻って来た実感が湧いた。勾楼も、ふう、と息を吐く。
「……出られたみたいだね」
「良かった……」
煌々と明るい駅前で、私も息を吐き出した時。
ーー気を付けて帰るのよ、薫
「え?」
耳元で聞こえた優しい声に、私は振り向いた。
けれど、誰もいない。
あの女の人の声だった。
「どうかしたかい?薫」
勾楼が私の顔を覗き込む。
「あの女の人の声が……」
私の言葉に、勾楼も辺りを見てくれたけど、やっぱり近くには誰もいない。
「……帰るよ、薫。お前さんが無事ならあの人だって安心さね」
「うん……」
よく分からないけど、そう言われるとそんな気がして、私は頷いた。
その町では一時期、神隠しのような失踪事件が多発していたことを知ったのは、それから少し後のことだった。
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