第3話 水溜まり竜宮



土砂降りの大雨が降った日の翌日。


「近くの神社の境内に、綺麗な水溜まりがあるから見に行こうよ」


と誘われて、私・扇形薫せんがたかおるはカバンを家に置いてからその神社に向かった。

昨日の大雨が嘘みたいに、空は晴れ渡っている。道のあちこちに、大小の青空が溜まっていた。まだ景色のあちこちに雨とその匂いが残っている。吸い込む空気も、何となく濡れているような気がした。

現地集合で、境内には何人か同級生たちが集まっている。

「あっ、薫ちゃん!こっちこっち!」

声に案内されるまま、私はみんなの元に近付いた。その足元には、かなり大きな水溜まりがある。跳んでも越えられそうにない。

「大きい水溜まりだね」

「でしょ?今朝見つけたんだ」

わいわいしてる中、私は水溜まりに目を向ける。境内の地面が見えるほど、水溜まりの水は澄んでいた。集まっている私たちが映っているのは、まるで鏡みたい。

「ーーもっと綺麗なものが映るよ」

耳元で聞こえたような声に、ハッと顔を上げる。でも、左右どちらにも近くには誰もいない。不思議に思いながらまた水溜まりに目を戻して、私は声を上げた。

「これ、なに……?」

水溜まりの中に、見たことのない景色があった。いくつもの赤い柱の極彩色な建物。空を泳いでいる魚。色が金や銀の珊瑚。柱の隙間から、宴会のようなご馳走が並んだ長いテーブルが見える。鮮やかな赤や青色の着物を着た人々が、楽しそうに飲み食いしながら話しているようだ。

そんな光景が、見える。水溜まりの中に。まるで竜宮城みたい。

私は後ろを振り向いたり、上を見たりした。でも、あるのは晴れた空と神社だけ。私はまた水溜まりを見下ろす。

そこにはやっぱり、豪華絢爛で美しい景色がある。すごいものを見ているな、という感覚はあって、私はしばらくその宴を見ていた。

綺麗なものってこれのことだったんだ。

「綺麗でしょ?」

「うん」

また隣から声がした。耳元で聞こえたのに、左右どちらにも誰もいない。でも、気にならなくなっていた。それよりも、この竜宮城を見ていたい。

見ている内に、だんだんと自分もこの場所に行ってみたいと思った。まるで目の前にあるみたいに鮮明だし、手を伸ばしたら入れるかもしれない。そんな気になって、私はその場にしゃがみ、水溜まりに向かって手を伸ばす。

指先が水面に触れそうになった、その時。

「薫。何やってるんだい?」

声と同時に、伸ばした手を掴まれた。

私は声の方を向く。

勾楼こうろうだった。お祖父ちゃんの持つ勾玉の付喪神つくもがみ。一つに結っているさらさらとした黒髪を揺らしながら、私の隣に屈んで、右手をしっかりと掴んでいる。いつの間に来たのだろう。

「勾楼?」

言いながら、また水溜まりを見た私は、あっと声を出した。

「……水溜まりが、ない」

「水溜まり?」

勾楼も私と同じ方を向く。

さっきまであんなに大きい水溜まりがあったのに。それは消えていた。それどころか、地面は濡れてさえいない。勾楼は私と地面を見比べて腰を上げる。

「……立てるかい?」

「うん」

右手を掴んだまま促され、私は立ち上がる。

周りを見渡して、また驚いた。

ここは近くの神社ではなかった。もう少し離れたところにある、廃神社。ボロボロになっている本殿、賽銭箱がそのままになった、その境内の真ん中にいる。

そういえば。みんなはどこに行ったんだろう。

訳も分からずキョロキョロしていると、勾楼が口を開いた。

「一人でこんなところで何してたんだい?」

「……一人?」

私は勾楼を見上げる。

勾楼は、私の手を少しだけ強く掴む。

「……何があったか話しておくれな」

私は言われるまま、勾楼にここまで来た説明をした。

「ふうん」

勾楼は私から手を離して、何か考えるように腕を組む。

「薫。お前さんを誘った友達、名前を言えるかい?」

「え?ええと……あれ……誰だったかな」

おかしい。確かに今日、放課後になってから誰かに誘われたのに、それが誰か分からない。

それに、さっきまで何人も同級生たちがいたはずなのに、誰がいたのか、一人も思い出せなかった。

何も言えなくなってしまった私に、勾楼は少しだけ笑った。

「なるほどねェ。薫は呼ばれちまったんだ」

「呼ばれた?」

訳が分からず首を傾げると、勾楼は少し本殿を向く。

「ここはさ、元は龍神様を祀っていた社だからね。加えて、昨日は大雨だっただろう?」

本殿を見上げる勾楼を見ながら、私は頷く。

「ちょいとばかり残っている微かな神気が、雨と呼応して竜宮と繋がったのかもしれないね」

私は視線を落として、水溜まりのあった地面を見る。

「見せてくれたのさ。神様の気まぐれか知らないけどね。自分らの美しい都を」

「……あれ、本当に竜宮城だったんだ」

「本当のところはどうだろうね。人間に分かる言葉に例えるなら、ってとこさ。そういう異界ってことさね」

「そっか……」

でもね、と勾楼は私を見る。

「触れるのは良くないよ」

「……何で?」

「異界ってのはさ、こちらとはやっぱり違うからね。向こうで一日過ごして、こっちで百年経ってたらどうするんだい?異界に入った瞬間、こちらに生きては帰れなかったら?」

「……」

それはとても怖い。

今更だけど、身体が中から冷えていくような感覚になる。

「勘違いされちゃ困るし、脅かしてはないけどさ。全てが悪いわけでないしね。でも、そういうことがあるかもしれないってことは覚えておくんだよ?」

「分かった……」

「ーー良い子だ。帰ろうかね」

私と勾楼が並んで鳥居をくぐり抜けた瞬間。ぴちょん、と雫が落ちる音がした。

揃って振り向くと、鳥居の向こうに、さっき見た竜宮城の景色が広がっている。

賑やかな宴の喧騒や、美しい音楽も聞こえてきた。

城の中から、透けた布を肩に纏う着物姿の天女のような女性が、にっこり笑いながらゆっくり飛んでくる。

その人は私に微笑みかけると、無言で鳥居から手を差し出した。

私はその手を見、女性を見、ゆっくり首を横に降る。

「……素敵な世界を見せていただいてありがとうございます。でも、私はそちらには行きません」

勾楼が、何か驚いているようだったが、よくわからなかった。女性は微笑んだまま手を戻し、ふわりと回転して一礼した。

私も思わず頭を下げる。そのまま、彼女は城の中に消えて行き、戻って来なかった。

中から聞こえていた賑やかな喧騒が段々聞こえなくなった、と思ったら、竜宮城は廃神社に戻っていた。しん、と静かになった神社を眺めてから、傍らの勾楼を見る。

「勾楼、見た?」

「ああ。ーー竜宮城だったね」

勾楼が私の頭をくしゃりと撫でる。

神社の中から吹いて来た風には、まだ僅かに雨の匂いが残っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る