眼鏡を除いて
濡月沙衛
第1話
それはもう随分昔のことだ。私にはかつて好きな人がいた。彼はクラスでも目立たないタイプで、どこか触れ難い雰囲気を纏っていた。けれども彼の黒縁眼鏡や長く伸びた前髪、それでいて整った顔立ちは彼の魅力を最大限に引き出していたように思う。
私のクラスには確固としたスクールカーストが存在していた。しかし、下克上などは起こらなかったため安定した政治が行われていたのだ。
あの日までは。
それは雨の強い日の事だったと思う。クラスの中心的存在のK君が殺されたのだ。警察によると、凶器は現場に落ちていたガラス製のトロフィーで、後頭部を殴られたことによる撲殺、死亡推定時刻は午後2時55分頃だという。
話を聞いている時の皆の反応は意外にも様々であった。多くの人は青ざめ、口を押さえている人もいる。ある人は探偵を気取って「お前が犯人だ!」と叫び、先生に連行されて以来帰って来ない。彼も目を細めて真剣に話を聞いているように見えた。私はというとミステリマニアとして人が殺されたという事実に不謹慎ながらも興奮していた。本来ならばみんなに話を聞きたい所であったが、人が殺されたという事実は一般人にはあまりにも重すぎたらしい。張り詰めた糸が私を縛り上げて微動だにさせなかった。
次の日から学校生活が一変した。事件の説明があった日はクラスの中心がいなくなったことに混乱が残っていたものの、一日が経ち、落ち着いたことで些細な争いが目立つようになっていた。私は説明を受けた日のうちに勇んで証拠集めに向かったのだが、既に規制線が張られており、現場に入ることは出来なかった。そのため、しばらくは柄にもなくクラスメイトとの談笑を通して事件についての情報を集める事にしたのだ。
一週間が経ち、K君の腰巾着的存在だったAが逮捕されるという形で事件は終わりを迎えた。警察は終礼の時間からこのクラスの人間以外犯行が不可能だったこと。防犯カメラの映像から死亡推定時刻前後に出入りした人物はA以外いなかった事を挙げ、万引きの口封じという動機もあったことが決め手になったと説明した。
私はこの一週間、全くと言っていいほど情報を集められなかったのでこの事実を受け入れる他仕方がなかったが、このような呆気ない終わり方ではつまらないと思ったため、事件現場に行ってみる事にした。
現場からは既に規制線は外され、証拠と思しき類は全て回収された後のようだった。私はホームズさながらコートの上で腹這いになる。紅色に染まったクローバーが雨に降られてどこか艶やかげに煌めいた。
泥濘んだ地面に警察が残していったわずかな硝子片が輝く。私はそれらのうちのいくつかをピンセットでつまみ上げた。
「何をしてるんだ?」
また降り始めていた雨に混じり、よく知った柔らかい男の声が聞こえた。少し間が空いて私は振り返る。
「何をしてるんだ?」
彼がもう一度聞いてくる。私は今の自分の状態を省みてどう説明するかに戸惑った。しかし、嘘を言ってもしょうがないと思い、本当の事を話す。ミステリが好きなことや、今回の事件の顛末に不満を持っていることまで。
彼は穏やかな表情で聞いていた。今思えば、自分の趣味の話をしたのはこの時が初めてだったと思う。
「そうか、君にはそんな趣味があったのか」
「趣味ってほどではないけど…。読書ってパッとしないし…」
「いいんじゃない?君らしくて。…邪魔して悪かったな」
そう言うと彼は現場を去ろうとした。
その時、私はある事に気がついた。そして、そのことはこの事件の真犯人を示唆していたのだ。
「待って」
私は彼を呼び止めた。
「どうかしたのかい?」
答える代わりに私は手に持っていた決定的なそれを彼の前に出した。
時間が止まる。遠くで雷が鳴っているようだ。思いの外時間が長く感じられた。
彼は息を呑んだかと思うと、突然笑い出した。さっきの穏やかな表情とは全く違う、狂気を帯びた笑いだった。
「そうだね。君の勝ちだ」
彼が決定的な一言を告げる。私は安堵した。
「どうしてKを殺したの?」
野暮なことはわかっていたが、思わず聞いてしまった。
「人を殺すのに理由なんて必要なのか?」
彼はそう尋ね返す。私には理解できないと思った。彼は気にせずに続ける。
「彼にはなんの恨みもなかった。本当にただ、目についただけなんだ。Kを殺したからクラスで騒ぎになったみたいだけど、本当はAでも、君でもよかった。殺しさえできれば…」
「分からない」
「死が美しいと思えたんだよ。太宰先生も川端先生もみんな自殺で死んだ。彼らは老いて死ぬのではなく最期の瞬間を自分で決めたんだ。ただ、僕は人の死ぬ姿を見てみたかっただけなんだ。けど、失敗したよ。撲殺はあまり美しくなかったな…普段『かっこいい!』って持て囃されているKの醜態は傑作だったが…」
彼は美しかった。艶かしささえ感じさせる彼の容貌を見て、人の死はここまで人を変えるのかと思った。
気がつくと彼はそこにはいなかった。そこにはレンズの外れた眼鏡が落ちているだけだ。私は眼鏡を拾い上げるとついていた泥を拭った。雨空の中、彼はどこかに消えてしまった。あるいは、この堅苦しい世の中を憂いてどこかへ行ったのかも知れない。
これが私の見た彼の最期の姿だった。
眼鏡を除いて 濡月沙衛 @nureki-sae8115
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