雷獣は獅子奮迅す
呆然とする俺を前に、妖狐は改めて自己紹介を行っていた。こいつの本名は島崎源吾郎というらしい。名前から既に明らかだけど男だった。というか今の妖狐、いや島崎は何処からどう見ても男にしか見えない姿である。
しかし特筆すべきは、その島崎がずっと変化していた姿であろう。巨大な狐の姿はまぁいい。だが彼はずっと清楚なお嬢様の姿に擬態していた。あとむっちりとした肢体のドスケベエロ狐にも変化していたか。
「言っておくが俺はあの玉藻御前の末裔なんだ。だからその辺の凡狐とは格が違う」
のっぺりとした面を妙に火照らせて島崎はそんな事を言っていた。後ろで揺れている四尾がぴんと張り、放射線状にまっすぐ伸びている。
玉藻御前。その名を聞いた俺は震えあがっていた。妖怪の事はさほど詳しくない俺ではあるが、葛城のお陰で妖怪の名前は幾つか聞いていたのだ。
聞かされた妖怪の名前の中に、玉藻御前も含まれていた。日本三大悪妖怪の一体に数えられるほどのビッグネームだと葛城も言っていた。美貌と籠絡術で多くの王朝を惑わせ亡ぼした傾国の美女。その正体は大陸からやって来た九尾の狐である。
今ここにいる島崎が、その九尾の狐の末裔であるとは。にわかに信じられない話である。しかし、彼の先程までの言動は、伝承に残る玉藻御前のそれによく似ていた。美女ないし美少女の姿に化身していた訳であるし、その姿で俺たちを誘惑していた事にも変わりはない。しかも一尾じゃなくて四尾もあるし。四尾がどれくらいの強さかは解らない。しかし九尾が一番強いという事ならば、四尾もかなりの強さを保有しているのかもしれない。
俺が怖いか。呆然とへたり込む俺の頭上に島崎の声が降りかかる。見下ろす島崎はほんのり笑みを浮かべていて、何となく優しげに見えた――優しげだと? 冗談じゃない。こいつは今しがたバケモノの本性を余すところなく俺に見せた所じゃないか。
俺は事ここにきて、妖怪やバケモノがどういったものかを知ってしまった。この後殺されてしまうのかもしれないけれど。
「しかもこの俺の事をツレと一緒にペットにするなんて言ってたな。他人の事は言えないが、中々どうしてビックマウスをかましてくれるじゃないか。
だが残念だな。俺にしろあいつにしろ君ごときのペットに成り下がるほど安い存在じゃあないんだよ。というか俺には正式なあるじがいるわけだし」
呆然とする俺を尻目に、島崎は自分の喉元に手を伸ばしていた。何をしているのかと思ったら、嵌められていた首輪を外している所だった。やけに丁寧な動作で首輪を床に置き、それからドピンクだなんて趣味が悪いなどとぼやいている。俺はただそれを眺めているだけだった。
そうした作業が終わると、島崎は俺に視線を移し、またしても笑みを浮かべる。
「ははは、俺もまだひと仕事あるし君にもその事でちと手伝ってもらわないといけないんだけどなぁ……この姿だったらどうかな?」
身をかがめた島崎の姿がさっと一変した。そこにいるのは四尾を具える青年の姿ではなく、一尾のお嬢様めいた風貌の少女だったのだ。俺がこの部屋に連れ込み鎖で繋いで調教しようとした、宮坂京子の姿を取っていたのだ。ブラウスは引き裂かれていないし、着衣に乱れもない。きちんとした姿だった。
「ねぇお兄さん。鍵なら開けて差し上げるから、私を六花の許に連れて行ってくれるかしら。早めにあの子の所に行かないと、大変な事になってると思うの」
宮坂京子……いや少女の姿に化身した島崎が俺に囁きかける。声音も口調もまるきり清楚なお嬢様のそれだった。
可憐な少女のその姿を見た俺はぶるぶるっと身震いしていた。殺して山奥に埋めた少女の亡霊を、安全な部屋の中で目の当たりにしたような気分だった。変化術で見せている少女の姿は愛らしく美しい物だったが、だからこそ悪夢のようなおぞましさを伴っていた。
いずれにせよ、バケモノ丸出しの本性を知った今では、どのような姿であれ恐怖しか浮かんでこないのだ。
「解ったよ……解ったからそんな姿を取るのはやめろ。お前が手に負えないバケモノだって事は十二分に解ったからさ」
「そうなのね。この姿の方があなたには嬉しいかなって思ったんですけれど……気に入らないなら仕方ないな」
宮坂京子と名乗る変化の幻影は一瞬で消え失せ、今再び妖狐は島崎源吾郎としての姿に戻っていた。わざわざ変化したのにそれを拒絶された事について、島崎は特に思う所はないらしい。落胆しているどころか、むしろうっすらと微笑んでいるくらいだった。
「まぁ実際の所、俺もこっちの姿の方が色々と都合が良いかなと思ってたんだ。玉藻御前の末裔として知られているのはこの姿だし、何より変化の術は維持し続けるのに妖力を消耗するからな」
それじゃあツレのいる部屋に俺を案内してくれよ。立ち上がった俺に島崎は命じた。大学の後輩に投げかけるような穏やかな声音であるが、それはもはや命令と言っても同然のものだった。無論俺はそれに従うしかない。
ツレというのはもちろん梅園六花とかいう雷獣女の事だ。当初葛城は雷獣の方が強いから自分が相手をすると言っていた。だから俺は弱いと思っていた妖狐の方を引き取った訳であるが……実際には藪蛇みたいな結果だった。
「どうしたんだい? 渋っているなら俺一人で部屋中見回る事になるけれど?」
「お……俺は悪くないからな。あの雷獣がどうなっていようと俺の責任じゃあない。雷獣を大人しくさせると言ったのは葛城だからな」
妖狐の島崎は俺の言葉を聞き、怪訝そうな表情を浮かべていた。葛城は多分、今俺たちがどういう状況なのか知らないはずだ。知らないから嬉々として雷獣女を従えるべく何がしかの術を使っているのかもしれない。場合によっては既に殺しているのかもしれない。
傷つき、或いは殺された雷獣を見て島崎が激昂したらもう終わりだ。その事が解っていたから、俺もこうして説明していたのだ。
だがそもそも、雷獣が殺されていたとしても自業自得ではないか。俺はそのように思い始めてもいた。よく考えれば島崎自身も大変な事になると言っていた訳だし。
「なぁ島崎さん。ツレの雷獣がどんな事になっていても俺を恨まないでくれよ。お前とて大変な事になるって解っていたんだろう?」
「……大変な事になるって確かに俺も言ってたね」
島崎は俺の言葉をオウム返ししていた。その声音は妙に呑気である。ツレである二尾の雷獣がどうなっているか、全くもって一顧だにしないような物言いだった。はじめからあの雷獣がどうなっても構わないと思っているのか……明らかに人間とは異なる存在である島崎の事だ。そう言う考えを持っていたとしてもおかしくはない。
「ふふふ、どうやら君は何か勘違いしているみたいだから教えてやるよ。元より俺はツレの安否なんて心配していないんだよ」
そこまで言うと島崎は勿体ぶったように口を閉じた。いつの間にか鍵を外したらしく、ゆっくりと扉を開いている。
雷獣の安否は気にしていない。うっすらと笑みを浮かべる島崎の姿に俺は慄然とした。それとともに、生理的・根源的な嫌悪感が滲み上がってくる。こいつはやっぱり人のなりをした畜生なのだ、と。
「俺が心配しているのは、むしろ君のお友達の方だよ」
島崎の笑みは深まっていた。この時彼の瞳孔が縦長に裂けている事に俺は気付いた。
獣そのものの笑みを浮かべながら島崎は続ける。
「俺のツレは強いからねぇ。戦闘能力だけで言えば正直な話俺より上回っているんだよ。まぁあいつは君ら人間や俺みたいな妖狐とは別種の生き物だからねぇ。正真正銘の獣・純粋なバケモノだと思ってくれても問題はない。
君の友達は妖怪退治を生業にしているというけれど、本物のバケモノであるあいつに太刀打ちできるとは思えないなぁ……まぁ、生命があれば僥倖って所さ」
あの雷獣女の方がとんでもないバケモノだ。島崎はさらりとそんなカミングアウトを行っていた。しかしその割には深刻さは無く、むしろ世間話を行っているかのようなノリである。
「な。俺の言う大変な事が何か、君ももう解っただろう?」
彼の言葉に俺は頷くほかなかった。妖狐の島崎は、二十一世紀に再来したヘレン・ヴォーンであった。だが葛城が相手をしている雷獣は、その彼をして本物のバケモノと言わしめるものなのだ。
一体俺たちは、何を招き入れたというのだろう?
※
葛城にあてがった地下室に向かった俺は、目の前で繰り広げられる光景を前にまたも言葉が出なかった。
葛城は部屋の隅にへたり込み小刻みに震えていた。
彼の視線の先には、童顔でグラマーな雷獣女の姿はない。代わりにそこにいるのは巨大な獣だった。雷獣女の事を正真正銘の獣と島崎は言っていたのを、俺はぼんやりと思い出していた。
獣はやはり巨大だった。狐姿の島崎と異なり全体的に長い毛に覆われているのだが、それを差し引いてもやはり大きい。虎やライオンほどの大きさは普通にあるだろうか。白銀の毛皮を持つその獣は、一体どのような獣なのか判然としなかった。しかし何となくであるが、大型のネコ科の獣に似ているような気もする。
「グルルルルル、ガアッ……!」
雷鳴にしか聞こえないような声で獣が吠える。白銀の毛皮の表面が細かく発光している。金色や薄青く光るそれは小さな稲妻なのだと俺は悟った。あの獣は雷獣なのだから。
くぐもった唸り声を放つ雷獣は何かを咥えていた。それは黒い犬に見えた。その犬もその犬で大きく、シェパードかドーベルマンほどの大きさはあるだろう。しかし雷獣があまりに大きすぎて、黒犬自体も捕まった哀れな獲物にしか見えなかったが。
それにしても――何故犬がいるんだ?
雷獣から意図的に視線を外し、俺は周囲の様子を窺った。元より調度品や家具の少ない部屋であるから、殺風景な雰囲気である事には変わりない。しかし雷獣と葛城の周囲には、白い紙片がばらまかれたように飛び散っている。
――ああそうか。あの犬は式神みたいなやつか
ふいにそんな考えが脳裏をよぎった。葛城は妖怪退治の術を知っていて、妖怪退治の術と言えば式神だろう。そのように連鎖的にひらめいた事だった。
そうして曲がりなりにも状況を把握しているまさにその時、俺はまた思いがけぬものを発見した。大蛇である。アナコンダかニシキヘビかは定かではないが、ともかく密林に生息していそうな感じの大蛇が、音もなく雷獣の斜め後ろからにじり寄っていたのだ。俺はちらと葛城を見る。怯え切っていた葛城の面に、ほんのわずかな笑みが広がったのを俺は見た。どうやらあのアナコンダモドキも葛城の顕現させた術らしい。凄いなアレ。だが大蛇にしろ何にしろ、このおっかない妖怪とやり合う為なんだから致し方なかろう。
咥えた黒犬を振り回し前足で押さえていた雷獣がやにわに振り返った。首を起点に上半身を振りかぶる。その反動が大きかったためか、黒犬は雷獣の口から外れ、そのまま真っすぐ吹き飛んでいった。そのまま大蛇に正面からぶつかっている。
ぶつかった所で黒犬も大蛇も輪郭がぼやけて消滅した。どちらもレシートみたいな細長く白い紙に戻っている。
葛城の顔には笑みも余裕の気配も何もない。血の気の引いた蒼い顔で、じりじりと後退しようと尻を動かしている。しかし既に壁際に寄っているために、逃れる事は出来そうにない。
「嘘だろ……あの十二神将を打ち破るなんて……本家伝来の奥義なのに」
「二十分前までの威勢の良さは何処に行ったのさ、退魔師殿よぉ」
雷獣が尻尾を振り回しながら口を開く。尻尾は三本あった。獣の唸り声が出ていたはずのその口からは、流暢で意味のある人間の言葉が紡がれる。但し口調も声色も若い男のそれであった。
「俺だって相手が外道退魔師だと知ってひと暴れ出来ると思ってウキウキしてたのに、ふたを開ければとんでもないヘタレじゃないか。全く、期待外れ調子外れだぜ」
雷獣は右前足を舐めて頭を掻くと、何を思ったか後足だけで立ち上がった。その姿が若干縮み、半獣の姿を経て人間の姿になった。癖のある銀髪と翠眼はそのままであるが、その姿は俺たちが最初に見た雷獣女の姿では無い。若い男の姿だった。十代半ばか後半くらいであろうか。ほっそりとした身体つきではあるがひ弱そうな雰囲気はない。そもそも見た目がどうであれ、あの荒ぶる獣の本性を見ればひ弱とかそのような考えなど吹き飛ぶわけなのだが。
「……でもなぁ、操る術が一流ならば使い手も一流って昔から言うもんなぁ。だからさ葛城君。俺は君自身の力も見てみたいんだけどさ。第二ラウンドと行こうじゃないか。ほら、俺の方でもハンデを付けといたんだからさ。君は非力な人間だし、こっちも人型で立ち向かってあげる」
人型になった雷獣はぺらぺらとそんな事を語っていた。鮮やかな翠の瞳がうっとりとした光を放っているではないか。俺はもちろんの事、相対する葛城もその事に気付いているはずだ。
「めっちゃ闘る気に満ち満ちてるじゃないか……」
気の抜けた発言をするのは妖狐の島崎だった。雷園寺! 少ししてから彼は雷獣に呼びかける。雷園寺と呼ばれた雷獣の視線が俺に向けられた。厳密には俺の隣にいる島崎に。
「あ、先輩の方も片が付いたんですね。人間相手だからもうちょっと時間がかかるかと思ったんだけど……」
「まぁ、そっちがどうなってるか気になったからね」
島崎はそう言うと俺をちらと見やり、満面の笑みを浮かべた。じゃれ合う大学生の笑みに見えなくもないが、その奥に隠れる魔性と獣性を俺は感じずにはいられなかった。
「というか雷園寺君も言うて時間がかかった方じゃないのかい? まぁあの十二神将とやらも俺は気になるが……変化術くらいならご自慢の雷撃をかませばすぐに決着がついただろうに」
「それこそ俺も尺稼ぎをやっていたんだってば。それにまぁ雷撃を使ったら相手が死ぬかもしれないし」
「そっかぁ……」
島崎も雷園寺と呼ばれた雷獣も表向きは和やかに話し合っている。時々両者から笑い声さえ混じっていたのだから。二人とも尻尾以外は――結局のところ、妖狐は四尾で雷獣は三尾だった――人間のそれと大差ない。しかし会話の内容も表情も人間のそれとは思えなかった。
人の姿に擬態しつつも人ならざるモノ。人の理解を超えた異形の存在。そのようなモノである事を、彼らはただそこにいるだけで示していたのだった。
「雷園寺と言えば雷獣の名門一族じゃないか。それに玉藻御前の末裔まで……そんなバケモノが、何でこんな所にいるんだよ……」
存在を忘れ切っていた葛城が呟いた。やはり彼は妖怪退治の専門という事であり、彼らの存在を知っていたようだ。というか雷獣の方は雷園寺と言うのか。
「とぼけた事を仰るじゃあないですか。そもそも俺らをここに招待したのはあなた方だったはずですけどね」
「まぁ、俺らを罠にかけたつもりが逆に罠にかかってたって事だろうね。ははは、実は俺らの方も君の事を追いかけていたんだよ。罪もない妖怪を遊び半分に殺している外道術者がいるってね」
葛城の問いに応じたのは島崎と雷園寺の二人だった。この妖怪たちは申し訳程度の笑みを貼り付けてはいたが、その眼は笑ってなどいなかった。
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