皿双樹の花の色
ま行
数える女と皿焼く男
「一枚…二枚…三枚…」
女は皿を数える。
「四枚…五枚…六枚…」
もはやそれに意味はなく、女は幽霊に身をやつしてひたすらに数える。
「七枚…八枚…九枚…」
九まで数えて女の声を止まる。これ以上意味はない、希望もなければ展望もない、九枚数えてそこまでだ。井戸に戻りまた夜を待つのだ、揃わない皿を数え終わらない数字を羅列する為に、女は囚われ続けている。
「今日もまた揃わない」
揃う筈がない、揃わない事が決められている。誰にも聞かれないため息も消えて、夜な夜な響く幽霊の怨嗟は切なく繰り返される。
「しけた面にしけた声だ。皿が無いから何だってんだ?そんなに欲しいなら俺が一つ焼いてやろう」
急に聞こえてきた声に驚き、女は振り向く。
「お前がお菊か?」
「は、はいそうです」
男はよしよしと頷いて、どかっと地面に腰を下ろす。
「俺はな、お前が数えても数えても揃わない皿を揃えに来てやったぞ、俺がお前の為に最高の皿を作ってやる」
「あの、一体何を?」
「皿割っちまったんだろ?だったら新しく焼けばいいじゃねえか、俺はお前が恨めしい声を上げ続ける事に腹を立てているんだ。どんなに綺麗な皿でも割れる時は割れる、覆水盆に返らずだ」
お菊は突然現れたその男に戸惑いを隠せない、しかし男はお菊に遠慮などしない、よく回る口で喋り続ける。
「お前は徹吾ってんだ。皿づくりに人生を捧げて、人里離れた所で皿を焼き続けている。まったく人と関わらんからな、いつの間にか変人と呼ばれるようになった。失礼な奴らだと思わんか?俺のどこが変だってんだ?」
お菊は狼狽えながら言う。
「あの、私は幽霊何ですけど…」
「それがどうした?幽霊と喋るのは初めてだが、意外と口が聞けるじゃあないか、俺とここまで話が弾むなんて中々喋り上手だ」
徹吾が勝手に喋っているだけなのだが、お菊は楽しそうに話しているので黙っている事にした。豪気でがさつだが、お菊に驚きもせず話しかけてくる人は初めてだった。それだけでお菊は少し嬉しかった。
「それでどんな皿が良い?ああ、お前が割った皿そのままが良いか?いやしかしそれでは芸がない、もっとでかくて豪華な物にするか!色も派手にしよう、そうと決まればこうしちゃおれん待ってろよお菊!」
「あ、ちょっ、ちょっと!」
お菊が声をかける前に、徹吾は言うだ言って荷物を纏めて行ってしまった。お菊は伸ばした手を下ろして、何だか可笑しな人だったなと思わず笑みが零れた。はっとして口元に手をやる、幽霊になってから顔をほころばせたのは初めての事だった。今度はいつ訪れるかと、ほんの少しだけ期待してしまう夜だった。
「お菊!今日も来てやったぞ!」
徹吾は次の日の夜も来た。
「えぇ?お皿ってそんなにすぐ出来上がるんですか?」
「出来ん!だが一月もすれば次々に持ってきてやるぞ!十枚なんてケチな事言わずに百枚ほど揃えたらどうだ?」
「そんなに必要ありませんよ、お店を開く訳でもないのに」
「確かにそうだ!だが、あればあるほど割り放題だぞ!お前も責めを受ける事もないだろう」
徹吾の言葉にお菊は少し顔を曇らせた。井戸に囚われ、幽霊となり、皿を数える怨嗟の声は、強い怨みによるものだ。
「徹吾さん、私にあまり近づかない方がいいですよ。私は悪霊です。成仏もせずに怨み言を呟く、そんな事ばかりしているのが私なんです」
「馬鹿を言うなお菊、お前は俺が怨めしいか?」
「いいえ、そうではありません」
「ならばいい!」
「しかし悪霊である私と一緒に居れば、きっとよくない事があなたに起こるかもしれません」
徹吾は立ち上がって言った。
「お菊、やれるものならやってみろ。だが俺はお前の為に皿を焼くぞ、俺は一度決めた事は必ずやると決めているのだ」
じゃあなと声をかけて徹吾はまた去って行った。しかし一月かかると言いながら、徹吾は毎夜毎夜井戸に訪れる。その度に楽しげに話をしては帰っていく、お菊はいつの間にか徹吾が訪れるのを心待ちにするようになっていた。
「来たぞお菊!」
「どうしたんですか!?その傷」
徹吾は頭に包帯を巻いてやってきた。お菊は心配そうにそれに触れようとするが、幽霊であるその手はすり抜けてしまう。
「何だか知らんが最近家の物が勝手に動くのだ。棚から小鉢が落ちてきてな、少し怪我をしてしまった」
お菊は自分と関わっている事で霊障が起こっているのだと悟った。
「徹吾さん、もうここには来ないでください」
「何を言うかお菊、俺は…」
「来ないでください!!」
お菊が叫ぶと瘴気が辺りから吹き出す。徹吾は吹き飛ばされてひっくり返った。
「私と一緒にいるだけで、徹吾さんはきっとどんどん不幸になります。もうここに来てはいけません。大体徹吾さん毎夜うるさいんですよ、私には静かにここで皿を数えているのがお似合いなんです」
徹吾は何度もお菊に近寄ろうとするが、瘴気に阻まれてまったく近寄る事ができなかった。叫び声も届かず、お菊はそのまま井戸の中に消えた。
徹吾はその夜からお菊の元へ訪れる事は無くなった。いつものように数え終わる事のない皿を数える、いつもの事だったのに、酷く寂しく感じられるようになった。それでもお菊はそれでいいと思った。もう徹吾が傷つくことはない、それだけでも何故か少しだけない筈の心が暖かくなるように思えたからだ。
一月立つ頃、お菊はいつもの様に皿を数えていた。
「七枚…八枚…九枚…」
今日も一枚足りない、そう彼女が思った時、大きな声が響いて来た。
「十枚加えてあと九十枚だ!どうだお菊百枚あるぞ!」
振り返るとそこには徹吾が居た。風呂敷一杯にお皿を抱えて、大手を振ってお菊に笑顔を向けている。
「どうして…?何故ここへ来たの?」
「俺はやると決めた事はやると言っただろう?皿もきちんと焼いて来た。沢山あるぞ、どれだけ割っても怒る奴はもういないだろう、どれもこれも俺の渾身の作品だ。お前が割った皿なんか目じゃない、もっと高価な物だ。だからお菊、ない皿を数えるのはもう止めろ、成仏して俺の所に来い、皿の焼き方を教えてやる」
「成仏して、どうやってあなたに会いに行けばいいの?」
「それは俺にも分からん、だが、俺は待っているぞ。皿を焼くしか能のない男だ。変人だと有名だし、きっとすぐに見つかる。お前を待っているからなお菊、皿を焼いて待っている」
「馬鹿な人」
お菊はとびきりの笑顔を浮かべて消えた。その美しさたるや、他に並び立つものなしの見事な優美さであった。
着物姿の綺麗な女性がいた。歩けば男女問わず振り返るほどの美人だった。
「もし、すみませんが、この辺で里から離れて皿を焼く変人がいると伺ったのですが」
「へえ、それならここを行った先です。しかしお嬢さん、一体あんな所にどんな用事があるってんです?」
「お皿を頂いたんです。とても沢山。その御恩を返しに参ろうと思いまして」
人里離れた所に住処を構える。変人と名高い皿焼き職人が住む家の戸が叩かれる、家の中から聞きなれた大声が響く。
「今手が離せない!用があるなら入ってこい!」
女はそれならばと遠慮なしに家へ上がる。勝手知ったる相手だ遠慮する事もない、すいすいと家の中を進んでいくと、土を捏ねている男が居た。
「やあ、珍しい客だな」
男は振り返る事もなく言う。
「あらどうして?」
「ここに来るのは大抵商人だ。あいつらは金の匂いをさせている、しかしあんたからは綺麗な花の香りがする、何の用だ?」
女は変わらないなと思いくすりと笑う。
「実はお皿作りを教えてくださるとあなたから言われまして、こうして尋ねた次第でございます。少し待たせてしまいましたか?」
男は初めてそこで振り返る、笑顔で待ちわびた女の名を呼んだ。
「そんなに待っていないさお菊、さあ教えてやるから一緒に皿を作ろう」
徹吾の差し出した手をお菊はしっかりと握った。ごつごつとして土まみれでもお菊は気にならなかった。その温もりに触れられた。それだけでお菊の胸の内は一杯であった。
皿双樹の花の色 ま行 @momoch55
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