タナトスの福音

祐希ケイト

Ⅰ 血の涙を流す少女

 イギリス、ケント州にある小さな教会──オール・セインツ教会──にて。


「ふぅ、このオンボロの建物が教会だなんて誰が気付くんだ」


 帽子を深めに被ったその男は、ようやく目的地にたどり着き一息ついた。視界の端にあった建物が探し求めていた教会とは気付かず、駅から何度も行ったり来たりして無駄足を食らってしまっていた。


「それにしても長閑のどかだな。静かな郊外に建てられたにも関わらず、人気が出るのも頷ける穏やかな場所だ」


 そこは、トンブリッジ駅から歩いてすぐのところにあった。マルク・シャガールがデザインしたきらびやかなステンドグラスを通して、その神秘的な空間を鮮やかな光で満たしている。季節は秋から冬に移り変わろうとしており、教会の庭に根を張る草木の葉からは露が今にも零れ落ちようとしていた。

 今、その教会の扉に手をかけている男がいた。男の名はハル・ブライトマン──通称、ハル──、よわい四十を過ぎた中肉中背の敬虔けいけんなキリスト教徒だ。仕事の合間を縫ってはイギリスにある各教会を渡り歩き、ブログを書くことを人生の楽しみにしている男だった。今日は以前から気になっていたこの教会に先ほど到着したばかりである。重厚な扉を緊張の面持ちでゆっくり開けると同時に、外の光が教会の中心に向かって待ちきれんとばかりに我先にと伸びていく。ステンドグラスを通して色鮮やかに彩られた空間を心待ちにしていたハルの目に飛び込んだのは、色鮮やかでも何でもない――原色の赤に染まった床、そして一人の年端としはもいかない少女だった。

 ハルはひどく困惑した。咄嗟のことに頭が回らなくなり、状況をいまいち把握できなかった。少女は背中をこちらに向け女座りをしている。茶色の長髪の隙間から見るに目許めもとには包帯を巻いているようだが、周囲の状況を察するに怪我をしているのだろうか。そこまで考えが辿り着いてようやく、ハルは少女に近寄ることができたのであった。距離を縮めていくと少女もハルの存在に気付き、そして座ったまま後退した。床に飛び散った血の痕が点々と伸びていく。まるで私がこの子を襲っているようだ、とハルは内心複雑な心境であったが、できるだけ優しく声をかけた。


「君、目を怪我しているのかい」


「……怪我なんてしてないよ」


 少女の声はとてもか細く、今にも消えてしまいそうなほど怯えた声だった。怪我なんてしていないと言われてもハルには信じられなかった。とにかくこの子を病院に連れていかなくては、と良心が働き、多少強引なやり方だと思ったが、ハルは少女の目許を覆う包帯に手をかけた。少女は恐怖で足がすくみ逃げることができないと悟ると、ハルの手によって包帯が解かれゆくことに抵抗を示すことはなかった。

 包帯を取って尚、少女の目許を覆い隠す茶色の長髪の隙間に垣間見えた真実に、ハルは動揺を隠すことができなかった。指先を震えさせ、唾をぐっと飲み込み、目を見開いて質問を少女に投げかけた。


「君は……血の涙を、流すのかい」


 自分でいておいて何て馬鹿らしい質問だと思った。涙は透明だということは子どもでも知っている常識に違いないだろう。だからこそハルは、目の前にある非常識な出来事に納得がいくような回答を自分よりも子どもである少女に問いただしたのである。

 少女は真っ赤な血を目頭に浮かべたまま一呼吸置くと、小さな声ではっきりと言った。


「そうだよ」


 その言葉はハルが勿論期待していたものではない。合理的でもなければ納得もできない。少女が嘘をついている可能性も十分考えられたが、こうして頭の中で考えが逡巡しゅんじゅんしている間にも血の涙は少女の頬の上を流れ続け、少女が顔を拭う度に腕と頬は赤く染まっていく。

――ハルの心に悪魔が生まれた瞬間だった。


「聖母マリアは──」


 ハルが口にした言葉の意味を、少女はこの時まだ知るよしもなかった。ハルの口許くちもとは歪み、その瞳の奥には先程まで少女を心の底から心配していた男の面影は既に消え失せていた。

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