42 初めての帆船
「野郎ども!
船長さんの張り上げた、そんなお決まりの台詞に、私のテンションは爆上がりだ。
「わあ♪」
程なく、桟橋を離れた帆船が、波の上を進んで岸から離れていく。
大きく見上げれば、風を孕んだ横帆が大きく膨らんでいて、甲板では航海士らしい船員の掛け声に合わせて、他の十数人の船員さん達が復唱しながらロープを引っ張ったり緩めたりと帆を操作して、騒がしく
だけど、やっぱりまるでアトラクションの帆船に乗っているみたいで、私のワクワクは鰻登りだ。
イメージは、眩しい日差しと潮風を浴びて、エメラルドグリーンの海の上を、颯爽と波を蹴立てて帆船が走っているそのもの。
まるでこれから冒険の旅に出発するみたいだ。
対して現実は、実は結構ノロノロ。
この時代の帆船の平均速度は三から五ノットと言うところ。
一ノットは一時間に一海里進む速度のことで、時速一.八五二キロメートル。
だから、岸を離れたばかりで沿岸部をゆっくりと進んでいるから、いいところ二ノットあるかどうかなんじゃないかしら?
つまり、ざっと時速四キロメートルもないってことになる。
性別や年齢、健康状態によって人それぞれ歩く速さが違うから、人が歩く速度は平均して時速およそ二.九から三.六キロメートルくらいとも、健康な成人男性で時速四.七キロメートルとも言われている。
要は、帆船の速度って、歩いたりゆっくりジョギングしたりするのと大差ないってことなのよね。
さすがにこれを白い波を蹴立てて颯爽と海の上を走る、と表現するには、ちょっとのんびり行きすぎでしょう。
東西で貿易すると、片道一年や二年掛かってしまうのも無理ないと思うわ。
「わととっ……!」
しかもまあ、波のおかげでたまに大きく揺れる。
踏ん張っていないと転んでしまいそう。
それほど波が高いわけではないけど、やっぱり船がずんぐりむっくりしている上に、現代の船と比べたら構造的に安定性に欠けるから、どうしても大きく揺れてしまうんでしょうね。
「エマ、大丈夫?」
「は、はいお嬢様、なんとか」
エマも船が大きく揺れるたびにフラフラして、なんとか踏ん張っている。
たまにアラベルに支えられるおかげで、転ばずに済んでいる感じ。
そのアラベルは、さすが騎士として足腰を鍛えているおかげか、そうそう転んだりはしなさそうだ。
「船って、こんなに大きく揺れるものだったのね」
「大丈夫かい?」
「ええ、あなた」
お母様もお父様に支えられているから大丈夫そう。
お母様ったらちょっぴり頬を染めてお父様を見つめていて、お父様もお母様をしっかりと抱き留めて見つめていて、両親がいい雰囲気なのは見ていてちょっと照れるけど。
お父様は軍艦にも乗ったことがあると言っていたから、大きな揺れには慣れているんでしょうね。
それはシャット伯爵も同じ。
体型がふっくら小太りだから、重心が低くて安定感があるのかしら?
「でも、万が一転んで海に落ちちゃったとしても、平気よね」
ムフーとドヤ顔で鼻息も荒くなろうと言うものよ。
だって私達も船長さんも船員さん達も、全員ライフジャケットを着ているんだから。
水に強い帆布で作られたベストのような形のライフジャケットは、生地がゴワゴワするし、空気の代わりに中に入れている大量のコルク片がゴツゴツするし、ちっとも可愛くなくてドレスにも合わないし、動きづらくて着心地も良くないけど。
ちょっとこの辺りは、大幅に改良の余地ありよね。
でも、私が考えて作った物が、製品として流通して、受け入れられ、こうして使われていると思うと、ちょっとくらい鼻が高くなっちゃうのも、ご愛敬ってもんでしょう。
さらに船縁には、要所要所に浮き輪も設置してあるのよ。
これで船乗り達の命が救われる可能性が高まったんだって、自分の仕事の成果が見られて、否応なくテンションが上がるわ。
上がったテンションに任せて、このまま海に飛び込んで、ほら見てすごいでしょうって、ライフジャケットと浮き輪の効果と有用性を実体験交えて披露したいくらいよ。
ドレスだし、ドボン未遂もあるし、私以上にエマとアラベルが叱られそうだから、さすがにしないけど。
ただ、大人達はそういう事情を理解出来るから、ライフジャケットも我慢出来ると思うの。
でも、子供はどうかしら?
それも貴族のお坊ちゃんは。
着心地が悪いのダサいの動きにくいのって嫌がって、勝手に脱いじゃったりしないかしら?
そこのところ、ジョルジュ君はどうかなって思って振り向いたら――
「わわっ!?」
――一際大きく船が揺れて、たたらを踏んでしまう。
「危ない!」
と、前のめりに倒れそうになった私を、なんと人見知りのジョルジュ君が素早く駆け寄って、抱き留めるように支えてくれた。
さすが七歳とは言え貴族の男の子。
五歳の女の子を上手にぽすんとキャッチして、倒れず支えてくれた。
うん、人見知りなのに、紳士的でとってもいい子ね。
攻略対象ではないけど、さすが乙女ゲームの世界だけあって、モブの男の子でも子供の頃からイケメン紳士なのかしら。
「ありがとうございます、ジョルジュ様」
腕の中で支えられながら顔だけ上げて、転びそうになった失態を帳消しにするように、そして目一杯の感謝を込めて、微笑んでお礼を言う。
「――っ!?」
ジョルジュ君、またしても固まってしまった。
うん、人見知りなのに、五歳児とはいえ女の子と、それも公爵令嬢とこんな至近距離で接触しちゃったら、思い切り人見知り発動しちゃうわよね。
「お嬢様、大丈夫ですか!? 遅れて申し訳ありません!」
アラベルが慌てて抱き留めていたエマをしっかりと立たせて、ジョルジュ君の腕の中から私を引き取って立たせてくれる。
「大丈夫。エマをありがとうね、アラベル」
「いえ。ジョルジュ様、お嬢様をありがとうございました」
アラベルがジョルジュ君にお礼を言うけど、ジョルジュ君は固まったままだ。
「申し訳ありませんお嬢様」
「エマも気にしないで。エマが転ばなくて良かったわ」
エマの所に戻ると、エマが心から申し訳なさそうに頭を下げる。
アラベルとしてはエマより私を先に、そしてエマは自分が倒れてでも私を先に、本来なら助けるべきだったんだろうけど、私がたたらを踏んで二人から離れちゃったこともあるからね。
多分エマもアラベルの方に倒れたんだと思う。
そうなったらアラベルが咄嗟にエマを抱き留めちゃうのも仕方ない。
「ありがとうございました、ジョルジュ様」
改めてにっこり微笑んでお礼を言うと、ようやく再起動しかけていたジョルジュ君が、またしても固まって動かなくなってしまった。
これ……本当に人見知りよね?
実は私、嫌われたりしていないわよね?
だとしたらショックなんだけど。
「お嬢様……」
そんな内心が顔に出てしまったのか、それを見たエマがすごく残念そうな顔をする。
「お嬢様は本当にもう……いえ、お嬢様はわたしが守りますので」
アラベルにまで残念そうな顔をされてしまった。
解せぬ。
ちなみにジョルジュ君は、ちゃんと大人しくライフジャケットを着てくれていたので、よし。
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