ションボリしているあなたを抱きしめたい
緋龍
あの人がションボリしている。
——金曜の夕方遅く今日の彼女は立て込んでいた。急ぎの仕事を今日中にカタを付けようとPCに向かっていたところに、電話が入った。
電話を取った彼女は、急に低姿勢な口調に変わると何やら相槌を打っている。
「それは大変失礼しました」
「はい、申し訳ございません」
延々と続く会話に苛立ちの色が見える。丁寧な口調に反比例する表情。
怒りのオーラが背中から発せられている。
通常、問い合わせやクレームはメールでの対応だ。電話をかけてくる人は、大概一言物申したいと思っている。本題に託けて、見ず知らずの人間に対してマウントを取ってくる。
客の立場を利用すれば、反撃の恐れがないからだ。こういうヤツに限って、面と向かうと同じようには振る舞えない。
彼女の対応は非常に丁寧で、業務上適切であった。しかしまだ若いので、こういう輩を転がすテクニックがまだ足りない。
経験の不足は今のところ忍耐でカバーするしかない。
彼女は受話器をそっと置いて、時計を見ると既に二十一時を回っている。
途端、彼女は頭を掻きむしった。持ち帰り仕事が確定。
——二十二時三分
『今から帰る。しょんぼり』
彼女のSNSに投稿が上がった。
——二十二時九分
『ゆるせない…あの客 会社からでたので一個人のつぶやき』
私はスマホの画面越しに彼女の顔を思い浮かべた。
今すぐ頭を撫でてあげたかった。
話を聞いてあげたかった。
残った仕事を助けてあげたかった。
その場にいたら電話を代わってあげたかった。
——ただ側に居たかった。
一人で電車に揺られる彼女を思うと胸が締め付けられた。
彼女は同じチームの後輩で、仕事のイロハを指導してきた。彼女は非常に優秀なうえ、一教えたら十理解するタイプで、あっという間にチームの主力になった。
二人はいいコンビだった
——と思っている。
ただ、それも半年前までの話だ。
私は半年前に会社を辞めた。
不本意な退職だったがやむを得なかった。私の気持ちに薄々気づいていたかもしれない。気づいていなかったかもしれない。退職することを伝えると、彼女は目線を逸らしたまま
「
一言だけ呟いた。
それ以来彼女とは話をしていない。もちろん連絡先も交換していないし、私が何をしているのかも知らない。
半年も経って、いまだにスマホを眺める自分は何者か。
彼女にとって、赤の他人。
既に過去の人だ。
ションボリしているあなたを抱きしめたい 緋龍 @lib_k
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