蜜柑の花

大原公光

蜜柑の花

黄色く染まった室内に、白い紙吹雪は良く映えた。

 無機質なコンクリートのビル群の陰に消えていく太陽は、戦慄を覚えるくらい美しかった。いや、その戦慄は果たしてその黄昏の美しさからであったか、どうか。目の前の怒声を上げる赤橋部長……今は執行役員だったか? それを見ずとも、そんなことは自分が一番わかっている。

「てめえ」

 小男の頭が視界に入る。ポマードと思しききつい臭いがした。臭いについ目を落とすと、赤橋の頭頂部に10円玉のようなものが見えた。色合いも大きさも、使い込まれた赤銅貨くらいだった。こいつにもそれなりの苦労があるのだろう。首に圧迫感を覚えながら、ふと益体もないことを考える。

――このままどうしようもなくなったらどうなるだろう。

10円玉が修道士のトンスラのように広がっていった妄想は、そのまま床に叩きつけられたことで覚めた。

「名越、いいか?このままデアリングとの案件吹っ飛ばしたら殺すからな。冗談じゃねえぞ、会社殺すんだからお前も死出の旅をするのは当然だろ、保険金つけて沈めてやる」

「部長、うちみたいな会社でそれやったら保険屋に怪しまれて全員お縄ですよ」

名越の腹部に衝撃が走り、生暖かいものが喉からこみ上げた。

「馬鹿野郎、死んだ後のことを心配するんじゃねえよ、お前が心配するべきことはこのデアリングとの案件を何とかすることなんだよ、地獄からでもソシャゲの中からでも猫でも嫁でも閻魔でもPG連れてきて回すんだよ、わかったか」

俺の城を汚してんじゃねえよ、と赤橋は蹲る名越に蹴りを入れた。

「はい。仰せのままに、どうにかこうにか」

「あと俺は部長じゃない。執行役員だ。身内の配置ぐらい頭に叩き込んどけ」

そう言い捨てると赤橋は、吐瀉物にまみれた部下の襟首をつかんで応接室の外に文字通り叩き出した。

* * *

 強い力で戸が閉じられた後、しばしの静寂があった。その静寂を咳が破る。咳の主である名越はよろめきながら立ち上ろうとする。吐瀉物の饐えた臭いの中で、ふっと柑橘系の香りが漂った。ふと名越が顔を上げた。陽が沈んだ廊下で、照明の逆光になって表情は良く見えない。しかしながらそのすらりと伸びた脚、男性としては平均以上の自分の背丈を優に超える頭、その頭から伸びて腰のあたりで靡いている髪のシルエットは見慣れたものであった。そして、そのやや陰気な雰囲気と相反するこのさわやかな香水。こんなふざけた奴は名越が知っている中で一人しかいない。

――最もいやな奴に見られた。

頭が右側に傾き、簾のような髪が窓からの夕陽をさらに遮った。ますます表情は伺えなくなったが、名越は目の前の女が自分を見下していることはありありとわかった。目の前の女――長崎は溜息をつくと、名越に対し手を差し伸べるようなしぐさをした。貴様の手など借りるか、と手を振り払おうとした直前、目に何かがかかった。斜陽どころではない刺戟が粘膜に降りかかり、視界が暗くなる。

「ぎゃっ」

「深夜の山手線にいそうな臭いを振りまきながら歩き回られると迷惑なんですよね」

「だからといっていきなり香水をぶっかける奴があるか」

 返答に代えて、長崎は名越の顔にハンカチを叩きつけた。

「返さなくていいですよ。あなたのゲロつきのハンカチでもあなたじゃ買えない奴ですから」

「ふん、社長室付きのエリートめ」

「そうでしょう、負け犬たるあなたのプランが完全に破綻していることを見抜いた、あなたがここまで育てたエリートです。」

 長崎はそういうとますますこちらを見下すように体を後ろにそらせた。

 ――胸は育ってないくせにな。

嫌味が喉から出かかっていたが、そのまま嫌味は腹の底に再び滑り落ちていった。何しろ、今回は長崎の言うとおりだったから。

「さて、どうするんですか。この負け犬」

 負け犬が実際に負け犬としてふるまっては終わりである。そこで名越は、立ち上がって長崎の顔を睨み返すことにした。

* * *

 名越は今でこそ負け犬である。しかしながら、この日まで彼には実績がある。それどころか、この中堅IT系アレグリア社の営業エースといってもいい。やれ働き方改革だリモートワークだということで、そのシステムをやるとぶち上げつつもコストをひたすら切り詰めたい某中堅企業。DXを社長肝煎りで進めたい。しかしながら当の社長はデジタルトランスフォーメーションという言葉も知らない某オーナー企業。必要なものが何かわかっていないならまだいい。とりあえず知らない言葉を使いたがり、なんとなく恰好のよさそうなことをしたがる思春期の男子のような連中に対し、ものを売りつけるのは名越にとってそう難しいものではなかった。縦軸と横軸すらよくわからない怪しげなグラフ。聞いたことのないような外来語にあふれた美麗なパワーポイント。本当に存在するかわからない他社との価格比較。担当者の不安や功名心をちょっと煽ってやるだけで面白いように案件は取れる。

そのようにして、名越の手で山のように積み重ねられた案件がある。これをどうするか。名越にはその処理対応についても職人芸であった。といっても自分が処理するわけではない。

「川に行って河童をかき集めるようなものだ」

 名越は昔、もうやめますと言って泣きわめく甘い新人――これがあの長崎なのだが――にそう教えてやったことがある。

「河童」

 顔を真っ赤にして泣いていた長崎は、涙も止めて絶句した。

「河童ってなんですか」

「お前エンジニアも見たことねえのか」

「河童とエンジニアに何の関係があるんですか」

――これだから何もわからねえ素人は。

名越は舌打ちしながら、しかめ面を長崎に向けた。いいか、と言って改めて顔を長崎に向ける。

「マトモな形をした”人間”のエンジニアってのはだいたい大手がさらっちまってこっちにはこねえ。だが河童は違う。」

「エンジニアは全部人間でしょう」

「人間のガワをしていても実際はそうじゃねえのはあるんだ。河童が嫌なら垢舐めでもねずみ男でもいい……とにかく、そう。一応、形としては日本語を話しているようで実際にはまったく話が通じない奴がいるだろ。ああいうのがエンジニアにはたくさんいるんだ。例えばこの三浦なんてのはネットのアフガン相撲語録でしか話せない。この千葉って奴はヤン・ウェンリーの悪口以外に世間話のストックがない。ああ、大江。大江は奇跡的に日本語が通じる奴だが絶対にプログラミング以外の話はしちゃいけねえ。取り込まれるぞ。…とまぁ、このような人外どもをかき集めて爆発しないように案件を処理させるのがコツさ。」

 そうした河童をかき集めた結果、名越はアレグリアの営業のエースとなり続けてきた。

――何故過去形なのかと言えば、教えてやった長崎にその地位を取られたからだが。

長崎は名越に代わって営業のトップの地位を数か月占めた後、社長室付になって経営に一枚噛むようになってしまった。おかげでまた名越は営業のエースに戻ったが、自分に泣きついてきた小娘があたかも自分を踏み台にしてしまったから気に食わない。そして、かつての殊勝な態度はどこへやら。長崎は夜になると時々残業する名越のところに現れては嫌味を言いに来るようになった。

――思えば、あの夜もそうだったか。

名越は思い出す。人というのはとにかく、思い出したくないことばかり思い出す生き物なのだ。

* * *

 その日の午前、名越はデアリング社から首尾よく案件を取った。

 契約書の管理システムだったか、どうだったか。詳しい内容までは覚えていない。相手は急ぎだと言うし、細かい話し合いなんか要らないと言っていた。こうした輩にやれ要件定義がどうと言っても二の足を踏むに決まっている。兵は神速を貴ぶ。前に立ち読みしたビジネス書にこんなことが書いてあった。孫子だか呉子だかクラウゼヴィッツだかしらないが、そんな昔の外国人に説法される前から名越は昔からそうしてきたし、今もそうである。そして、そうした。しかしながら、一つだけ違ったことがある。デアリング社は今までのものと違い、上場企業であった。そして、その案件もそれに比例して巨額の案件であった。アレグリアにとって大規模案件を取ったということで社内ではひと騒ぎとなり、赤橋に至っては、

「お前は会社の宝だ! 俺はお前を懐刀にもてて日本一の幸せ者だ!」

 といって名越の手を取って大泣きするありさまである。

普段笑うことのない営業部の鬼と称される名越もこの時ばかりは悪い気はせず、その日の昼は珍しくも社屋近くのコーヒーショップのテラスでコーヒーを啜りながら優雅な昼食を摂っていた。陽の光を浴びながら鼻歌混じりに名越がコーヒーを飲んでいると、ふと影が差した。

コーヒーの香りに交じる柑橘の香り。舌打ちをしてその主を見ると、図々しくも長崎は名越の上着を退けて目の前の席に座ってしまっている。

「デアリングから案件を取ったんですね」

 コーヒーを啜りながら、長崎に目を合わせず名越が答える。

「上場企業からとるのは初の快挙だ、営業をやっていた頃のお前でもできまい」

長崎からの言葉はなかった。

――普段必ずこういうとき噛み付いてくるだろう。

いぶかしく思った名越が顔を上げると、嫌味や嘲笑をするでもない長崎の顔が目の前にあった。いつもと異なり表情筋が動いていないその顔は、あたかも高級なビスク・ドールのようで、ぞっとするような端正さがあった。

「今回は河童を捕まえてくる見込みはあるんですか」

「河童」

やや気圧されていた名越が毒気を抜かれて呆けたように繰り返す。

「案件を取ってもそれを回す人が必要でしょう」

長崎は名越に噛んで含めるように、ゆっくりと言った。

「河童に水練という言葉を知らんのか」

「水練に付き合ってくれる河童がいればいいですねという話をしています」

立ち上がろうとした名越の袖の裾を、長崎が掴んだ。

「納期は」

「三か月後さ」

身を乗り出した長崎の顔が迫る。長崎の顔とその髪が名越の視界を埋め尽くした。

「必ず間に合わなくなります。扶桑銀行、ご存じですよね。IRを見ましたか。システム改修計画が前倒しになってます。扶桑は今度こそはシステム障害を起こすわけにいきませんから――」

長崎の言葉は名越の笑い声にかき消された。

「あははは、腐ってもメガバンの扶桑だぞ?扶桑がその辺の河童共をかき集めるわけがないだろ」

「扶桑だから、ですよ。今度やらかせば金融庁に何をされるかわからない状態です。それに扶桑のシステム改修なんてまともなエンジニアはもう」

「扶桑が、河童を? あははは、その辺の会社ならともかく天下の大銀行扶桑がそんなもんを集めるようになったら終わりだろそれは」

「そう、扶桑は完全に詰んでいます。しかし詰んでいても将棋やチェスと違って簡単に投了できるわけがありません。私だってあの時はあなたにすがったように、溺れる扶桑は河童もつかみますよ」

舌打ちした名越は席を蹴り上げるようにして立つと、プレートをもって店内の返却口に向かった。

「必ずや後悔することになりますよ」

「そうしたら公開処刑でもなんでも受けてやるわ」

振り返ることなく長崎に背中から告げた名越は、そのまま口うるさい後輩を置き去りにした。

* * *

 その日の夜。本来来るはずの意味をなしていない文字列。即座に来るスマートフォンのコール音。そういった、なにがしかのあるべき反応が、一切戻ってこなかった。液晶画面を見る。2時間前に送った『ヤン元帥は民主主義の体現者』『日本の政治家はヤン・ウェンリーを見習うべき』という千葉宛の文言が、既読もつかないままむなしく放置されていた。本来であれば30分以内に既読がつき、たちまちのうちにすさまじい量の罵倒文句が液晶を埋め尽くすはずである。

――まさかどの河童共も連絡一つつかないとは。

あてにしていたPGが揃わない。

誰もいないオフィスに舌打ちが響いた。

――延期しかないか。

何、よくあることだ。この程度であれば土下座で済む話。頭を下げるのに金はかからない。この時点では、名越はそう思っていた。

* * *

昼というには傾いた太陽の日差しが窓から差し込んでいる。執行役員室――といってもパーテーションで仕切られた空間に過ぎないが――の扉を、名越は軽くノックした。その主の赤橋は、昼過ぎに終わるはずの福永商会との打ち合わせから大きく遅れて帰還していたのである。

「部長、よろしいですか」

「おっ」

自分の背丈と同じかやや高い椅子から転がり落ちるようにしたこの小男は、目をその頭のポマードと同じくらい輝かせてそのまま名越のもとに転がってくる。

「まぁ、座れや。名越ちゃんよ、お前デアリングの件本当によくやったな」

「その件で」

「そうだろうそうだろう、昇進の話もお前にある。斯波社長もお喜びだよ。お前も忸怩たる思いをしていただろうなぁ、ずっと長崎の下風に立ってきたもんなぁ」

「いや」

「ちょっとケツがでかくて斯波社長に股を開いて出世したようなションベン臭ぇ長崎なんかな」

初夏特有の蒸し暑さか、手に嫌なぬめりを感じた。

――とっとと切り上げて終わらせるか。

名越は珍しく赤橋の話に被せた。

「部長、部長。」

「おう。俺は執行役員だぞ。いや、お前か。お前は次営業部長だな。うん。名越部長!どうなさったのですかな」

「デアリングの件で」

「そうそう、…ん? お前なんだその顔は。そうか! お前まだ部長早いと思ってるんだな? 謙虚なやつめ! よく聞け、本当は教えちゃアいけないがなんだってお前の手柄が当社を救った、お前は救国の英雄様だからな!」

「救国の英雄?」

あまりの大袈裟な褒め言葉に名越も言葉を失った。はて、この赤橋は調子のいい人物ではあるが、部下をそこまで持ち上げてほめるような人物だっただろうか?

「いや、あれのおかげでなんとかウチも今期は凌げそうなんだよ。ほら、この円高と戦争だろ?ロシアからの資源輸入が途絶えたとかで福永商会、あそこ危ないんだ。今日も福永んとこいったけどあそこのガキはほんと先代に比べてダメだよな。また入金が遅れるとかでさ、ちょっと今期危なかったんだよ! 今期赤字を出したら斯波社長以下の経営陣全部金主のレーベンインベストメントに辞めさせられるからな! いや、まったくお前はわが社を救ったんだ!」

くるくる回る赤橋の口に対し名越の目は白黒した。

「ちょっと待ってください、そうするとデアリングからの前金は」

そりゃ、と赤橋は続ける

「ありがたく遣わせていただきましたよ。もう名越先生とデアリング様には足を向けて寝られませんわ!」

神様仏様名越様、とわざとらしく自分を拝んで見せる赤橋。なるほど、仏か。自分はもう、仏として死んでいる状態なのかもしれない。名越は、天を仰いだ。しかしながら言うべきことは言わねばならない。

「部長」

「なんでございましょう、名越次期営業部長閣下様殿」

こちらを見上げて姿勢を正し、あたかも託宣を待つような赤橋に対し、名越は唾を飲み込んで。

アレグリアの死刑宣告を告げた。

「PGが揃いませんのでデアリングの案件はこのままでは無理です。延期をさせていただかねばどうしようもありません。そこで、なんとか前金の方を――」

言い終わるまでに、名越の顔に衝撃が走った。

白い紙吹雪が散る中で、太陽がばかばかしいくらいゆっくりとビルの谷間に沈んでいこうとしていた。

* * *

払暁。

窓から見える薄明が、名越の目にはひどくしみた。朝か。

その後、名越は大学どころか中学時代、果てはTwitterのフォロワーの伝手すらたどって八方手を尽くしてPGを求めた。

誰か知り合いにいないか。お前やったことはないか。

金なら自腹を切って相場の2倍出すとまで言った。

しかしながら悲しいかな、名越の努力は全く実を結ばずに朝が来ようとしていた。

扶桑はその違法建築されたシステムを処理するために人間から畜生に至るまで幅広く根こそぎ動員をかけた。草の根まで根こそぎ引き抜いてしまえば、そこに実がなるわけがない。

(赤橋の野郎は実際におれを殺しかねない。逃げるという手もある。しかしどこへ? デアリングの案件飛ばした戦犯と名が知れれば、たいした資格もないおれはどうしろというんだ? そんな負け犬になって、西成にでも逃げてIT土方から文字どおりの土方にでもなるというのか?)

既にまともに頭は機能していない。既に名越の万策は尽きているのだ。

――差し当たり空気だけでも入れ替えるか。

ふらふらと名越は窓に歩み寄る。

窓を明けた。

むっとする熱気が入り、かえって室内の不快感は増した。下をふと見る。社屋目の前の道路には、わずかに自動車が行き来するのみで、人は歩いていない。

一陣の風が吹く。

吹きすさぶ熱風の中でも、書類が数枚舞ったように思えても気にならない。吸い寄せられるように道路を見る名越。自動車が止まったように見えたが、名越はそのそばの道路に集中している。

舗装されたアスファルトの粒まで見えるような気がした。

ふと、どことなく思えのある、この場らしからぬ爽やかなにおいがした。

――閉めるか。

窓を閉めて床に数枚散らばった書類を集めていると、部屋に黒い影が飛び込んできた。

長崎だった。

いつも人を小ばかにしているくらいきれいに整っている髪が、少し乱れていた。

「何だお前、こんな時間に。まだ4時半だぞ」

「こんな時間はあなたでしょう。4時半に会社に残っているなんて就業規則違反です。法務に報告してもよろしいんですよ」

「こんなときに就業規則もくそもあるか」

長崎はかえって口角を歪める。

「PG、どこもみつからないんじゃあないですか。だから言ったのに。私言いましたよね扶桑の件があるって。あの時差し止めるか赤橋のチビに話し回しとけばこんなことにならなかったのに」

「ふん、デアリングの案件が取れなければ福永んとこのガキが飛んでここも終わりだ」

「へぇ! あなたキリスト教徒だったんですか? 主イエスに倣っての自己犠牲、私感激してしまいましたよ。 アレグリアを救って3日後に復活できるといいですね」

「そうとも、おれはこれでスパルタのレオニダスの如くアレグリアを救うのさ」

開き直って言い返す名越。長崎の口角がいよいよ皮肉げに吊り上がった。

「今回のデアリングとの件がこのまま飛べば、うちの金主のレーベンに斯波以下全員クビにされるのに誰があなたに感謝するんですか? あなたに感謝するのなんてせいぜい奇特な河童くらいなもんで逆に斯波のうらなりや赤橋のチビには恨まれるだけで終わりますよ」

何だ、こいつは。

(早朝から嫌味を言いに来たのか)

名越もついに声に怒気を込める。

「おう、言わせておけば。いいか、所詮このアレグリアなんてのは中堅企業に落ち着きかかってるがな、ベンチャーなんだ。ベンチャーは虎穴に入らずんば虎子を得ないんだ。おれはバクチを張って今まで負けたことはなかった。今回はただそれに負けただけだ。だからどうしたというんだ」

「負け犬がキャンキャン吠えているようにしか見えませんね」

「うぬァ」

名越は立ち上がって長崎に一挙に詰め寄った。長崎はひるまずに踏みとどまって名越をにらみ返す。

「いいか、お前のいうとおりおれは負けた。だが自分のケツくらいは自分で拭くつもりだ。だが赤橋の罵声に加えて死出の朝にこれ以上お前の罵倒なんか聞きたかねえんだ。おれをDV野郎にする前に近くのデニーズにでも寄って朝飯食って出直してこい」

「DV野郎ってなんですか、私あなたと付き合ったり寝たりした記憶はまだないんですが」

名越の足元のゴミ箱が高らかな音を立てて転がった。

「おい、長崎。いいか、お前新入社員の際におれに泣きついたことを覚えてるか」

「ええ」

「助けてくださいとグズグズ泣きながら案件全部おれに投げて処理してやって、仕事のやり方も教えてやったよな」

「ええ、その節は大変お世話になりました」

「ならな、その礼をするつもりはあるよな?頼むから今すぐここを出て行け。それが一番の礼だ。PGここに集めてこいとは言わねえから――」

「その言葉を待っていました」

「なっ」

名越は長崎を見返した。長崎は、名越を嘗め回すように見ると、口角を上げたままゆっくりとした口調で、こう告げた。

「だから、私PGを集めるアテがあります」

勝ち誇った弥勒菩薩、いやアルカイック・スマイルを浮かべた長崎の顔は、朝日で輝いていた。

* * *

「ねえ、名越さん。サキちゃんうまくやれてますかぁ~?よかったぁ、この子もともとは全然コードも書けなかったのになんかどっかいっちゃったから心から心配してたんですよぉ、ねえ孫ちゃん」

「そうそう、ウチらんとこ来る? って言ってたのになんかフワフワしてどっか行っちゃったりしてねぇ。でもサキちゃん今社長室長なんでしょ?」

「えーっ! すっごーい!」

姦しいおしゃべりが続く中で名越は茫然としていた。

長崎が紹介した有限会社谷野は、その古めかしい商号と社屋とは裏腹に妙齢の淑女だらけの十名弱のIT会社だった。

CEO兼社長の谷野が困惑する名越に笑いかける。

「この会社は私のひいおじいさんがやってた会社がそのまんまになったのを使わせてもらってるんです。就活もなんかうまくいかなかった学校の女子会メンツだけでやってやろうってね。サキちゃん私の後輩の上に従妹でもあったし面倒みてて拾ってあげようとしてたんですけど、ろくにコード書けなかったのになんか就活きまっちゃっていなくなっちゃったんですよね」

「はァ」

――どうも気圧されている。

ばつの悪そうに眉をひそめた後、名越は話をもとに戻した。

「それで、本件ですが、受注いただくことは―」

「ええ、もちろん御請けできますよ。既に内容はおおむねサキちゃんから伺っています。本日からPG出せますから」

「本日」

「サキちゃんのお願いですからねえ、あの子ろくに人を頼ったりしないのに今回は土下座せんばかりの勢いでしたから」

「はァ」

またしても名越は気の抜けた返事を返した。

あの長崎が、土下座。

――泣きわめいていたころのガキっぷりからしても、今の高慢ちきさからしても想像できん話だ。

しかし、あの女が土下座したらどれだけ気分がいいだろう?長崎が目の前の谷野に土下座しているところを想像する。

冷房が効いているはずなのに、手に嫌なぬめりを感じた。

「ありがとうございます。急なお願いにもかかわらず、御社には感謝の言葉もありません。このお礼はいずれ」

「とんでもない。以前に名越さんがサキちゃんを助けてくださったと聞いています。むしろこちらがお礼を言いたいくらいです。ずっとあなたの話をしてたんですよ、あの子」

「長崎が、そんなことを」

「ええ。ですからお礼ならサキちゃんにしてあげてくださいね。本当に」

――そのとおりだ。

あの長崎も斯波社長に色目を使ってのし上がり、すっかり恩を忘れて毎日嫌味を言うだけの奴に成り下がったと思っていたが。

自分の人を見る目がなかった、と反省した名越は、背筋をスッと伸ばした。

「ありがとうございます。ええ、谷野社長のおっしゃるとおり、長崎さんがここまで私のために奔走してくれるとは、彼女の義理堅さには感謝しかありません。いずれ彼女に恩義を返したいと思います。」

名越は頭を下げたが、先ほどまでうるさかった谷野社長ら女性軍団が静かになった。

――おや。

頭を戻した名越は谷野社長らを見た。

どいつもこいつも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

しばらく、気まずい沈黙が流れた。

谷野が軽く笑ってそれを破ると、今までの柔和な笑顔に戻って名越に話しかけた。

「名越さん、あなたサキちゃんに何と言われてるかご存じ?」

「はァ」

「旅順要塞だってさ」

「は?」

「難攻不落てことじゃないの?」

知らないけど、と付け加えた後。くつくつと小さな笑い声が生まれ。

やがて、大爆笑となった。

笑い声の中で、谷野は一言呟いた。

こりゃ苦労するわ、と。

* * *

「ほら、名越部長。もっとキリキリと歩いていただけますか」

名越は汗だくの中で、軽く舌打ちで返した。

横浜の元町のアーケードで、名越はなぜか長崎の買い物に付き合わされていた。

有限会社谷野を総動員したものの、デアリングの案件はなおPGが足りず、結局名越どころか長崎まで現場対応にあたってどうにかようやくこれを終わらせることができたのである。

名越は機嫌を治した赤橋により内示されていた営業部長に抜擢された。

ただ、名越が現場に長崎まで駆り出したことで負い目を感じたことで、―谷野軍団の無言の圧力もあって―「何かできることはないか」と述べたことで、この二人はここにいる。

「いつまでこんなところにいるんだ、赤レンガ倉庫のあんなわけわからないライブに付き合わせてまだ足りねえのか」

「あさひちゃんの歌よかったでしょう?」

「さぁな、俺には歌はよくわからん。だいたいライブの後に買い物ってなんだ、買い物ならこんな横浜くんだりまで来ずとも」

「誰のおかげで今があるのでしょうか、名越部長殿。文句を言わずに最後まで付き合ってもらいますからね」

晩は中華街ですから、と仏頂面でそう申し向けると、さっさと長崎は黒髪をたなびかせて行ってしまう。

――あの仏頂面さえなければ、あれもまだ見られるんだが。

また、長崎は足を止めた。

白い日傘にノースリーブからのぞく白い腕と、腰まで伸びる黒髪とのコントラストは、目に鮮やかだった。

目を輝かせてショーウィンドウの中の小物類に見入っている。

――いや、黙っていれば悪くない。

ふと、そんなことを思っている自分に気づいた。何を馬鹿なことを、と思っていると、

「何を見てるんですか?」

よく見ると長崎がこちらを見ている。そのままこちらに歩きよってくる。

「キリキリ歩け、と私は言いましたよね?何を私の方をずっと見てたんですか?」

「いや」

「ごまかさなくていいんですよ、私に見とれてたんですよね?」

「何を」

突然胸の音が聞こえた気がした。

「いいんですよ、あなたのためにわざわざ着て来たんですからね。どうぞいくらでも見てください」

長崎はふっと笑うと、駆け足で先ほどのショーウィンドウの店に入ってしまった。以前とかわらない柑橘系の匂いがした。

ふと、名越は空を見上げると、青い空と明るい日差しは、いつかの夕日よりずっと美しかった。

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蜜柑の花 大原公光 @kinmitsu_ohara

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