第十七話 ゆりかごを揺らす刃 case15
延々と歩いて、止まっている車がかなり少ない駐車場を抜け、団地アパートにたどり着いた。うんと長い時間をかけて、自分が住んでいる部屋にたどり着く。
塗装の禿げかけたドアに、鍵はかかっていなかった。扉の真ん中のプレートには
『
中にこそっと入ると、湿った嫌な空気が鼻を突いた。生乾きの布の澱んだ匂い。食べ散らかした食べ物の残り物のすえた匂い。薄暗い廊下を足音をできるだけ消して、通り抜け、自分の部屋にふらふらとたどり着いた。
何もしていないのにひどく疲れた身体を、小さくて黄ばんだベッドシーツの上に投げ出した。明かりをつけるのさえ面倒だった。
彼は目を閉じる。
どれだけ時間が経っただろうか。
だんだんだんだん!とノックの音で、彼の意識は現実に引き戻された。
返事を待たずに、ドアが激しい音と共に開く。
疲れたような目に周りのどす黒い隈。黄ばんだ皮膚。額に皺がより、表情がますます険しくなった。たるみ切った二重顎が怒りで揺れている。
「あんた、最近学校行ってないって?」
「……うん」
「どういうつもりなんだよ?」
「それは……」
「どういうつもりかって聞いてんだよ!」
何かが投げつけられる。右手に鈍い痛みが走り、コップが壁に当たって跳ね返った。
「歯を食いしばれ」
「どうして?」
「食い縛れって言ってるだろ!」
ずかずかと大股で澄子は近づいてきた。
彼女はこの場を支配していた。抵抗しても無意味だ。ただ黙って殴られている方が、エネルギー消費がもっとも少ない。そう悟った浩一は、心を瞬時に空っぽにする。
相手が金切り声を上げて髪の毛を掴んできた。
「どーすんのよ⁉︎どーすんのよ⁉︎役所から手当が下りなくなったらどうすんのよ⁉︎給料泥棒の小役人どもに、楽してサボってるってあたし達バカにされてんのよ!どうすんのよ!補助金降りなかったら!あんたあたしと母さんを飢え死にさせる気なの?仕返しのつもり⁉︎」
ただひたすら澄子は彼に平手打ちを繰り返した。
両頬の感覚が麻痺して、顔全体が燃えるように熱くなった。
「あー!あー!ああー!」
彼の分の悲鳴まで澄子が叫んでいるかのようだった。
ひとしきり頰を打った後、髪を再び乱暴に引っ掴み、頭を固定してから、顔の真ん中を正面から叩いてきた。
突き飛ばされ、やせ細った体がベッドに激しくぶつかった。
顔の真ん中が熱くなり、ぬるり、とした感触が唇を伝う。
鼻血が出ちゃった。彼は他人事のようにそのことをぼんやりと認識した。
荒い息をつきながら、澄子は微かに口元を吊り上げた。なんでも自分の言いなりになる人間がいる。そのことが自分に力があることを強く実感させているようだった。
「次サボってみろ。殺してやるからな」
唾と共に、低い声が投げつけられた。そして思いっきりドアが閉められる。
浩一は視線を落としたまま、顔を上げる事ができなかった。顔を上げても、いい事なんて一つもなかったからだ。
さっき瓶がぶつかった場所は真っ赤になっていた。
澄子は何かと理由をつけて激しく癇癪を爆発させる。特に最近はより頻繁になった。彼を無抵抗な獲物だと認識したからだろう。
落ち着いている間は、ずっと不貞腐れたような態度を続け、憂鬱そうなムードを振り撒いている。
そして、しばらくするとまた爆発するのだ。
この苦痛からは逃げられなかった。だって他に逃げる場所なんてないのだから。
そのことが少しずつ彼を蝕んでいた。
終わりの無い地獄がずっと続いている。
彼は視線をひどくゆっくりと動かし、小さな部屋の奥に向けた。空っぽの木でできた古い棚。一番上にはガラスを嵌め込んだ扉がついており、その下には小さな三つの引き出しがついていた。彼はゆっくりと立ち上がり、一番下を開ける。
そして、中にしまい込んだものを取り出した。
そのまま、ベッドに横たわる。死体のように動きの悪い身体の中で、手だけが正確に動き、掌に包んだものを見つめた。
それは鈍色の認識表だった。表面の中央には、ギザギザの紋章が傷跡のように走っていた。それは彼の世界の中に、最近唐突に入り込んできたものだった。
『役立てるといい。ちゃんと。君の好きなように』
渡された時に、確かにそう言われた。しかし、これがなんの役に立つというのか。
掌の中の
部屋の外から、ぼそぼそというささやき声が壁を伝って聞こえてきた。リビングからのテレビの雑音だろう。
澄子が浩一に暴力を振るっている時、母親はきまって、テレビの音を大きくする。
彼女の母親は知らんぷりだ。ただ、厄介者を二人も抱え込むことになった我が身の不幸を嘆くだけ。そして、テレビドラマをひたすら眺め続けて現実逃避していた。
「おうちに、帰りたいな」
か細い声でつぶやいた。それに答える者は誰もいなかった。
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