死慾
幾太
死慾
「またか…」
気が付いたら砂浜だった。全身びちょびちょで、砂が付き気持ち悪い。あたりは夕焼けに照らされオレンジ色に染まっていた。その色がやけに眩しくて、目を細め、項垂れて歩いた。
──────
「ただいまぁ…」
錆び付いて開けにくいドアノブにイラつく余裕もなく、力無く靴を脱いだ。ガチャ。リビングに続く廊下の、玄関に1番近いドアから怜菜が出てくるなり、
「おかえ…ちょっと。また海?砂まみれじゃん。それで入ってこないでよ。」
胸から上をドアの外に覗かせて、鋭くそういった。
「やっぱ俺、海苦手だわ。水泳なんて習ってたからだ。」
毎日の習慣、「後悔」をこなして、怜菜の言うことを無視しながらズカズカ怜菜を退けて脱衣所へ入る。
「ちょ、砂付くでしょ、せっかく風呂入ったのに。」
「拭けばいいだろ。」
冷たく、蚊の鳴くような声であしらって、服を脱ぐ。パラパラと砂が床に落ちる。
「もう、自分で片付けてよ。知らないからね。」
「いいだろ、じきに事故物件だ。次の住人は居ないんだから。」
脱ぎ終えてガチャと浴室のドアを開ける。すると後ろから怜菜がドアの音に被せて話しかけてきた。
「ねぇ見て。新しい下着。可愛くない?」
黒に近い紫。なんというか、下着のことに関しては全く門外漢だった。何を基準に可愛いとなるのかも全く知らなかった。怜菜が今付けてるのも、可愛い様なダサい様な…。
「ああ…いいな。」
一言そう言い捨ててそそくさ浴室に入ろうとした。それに気に食わなかったのか怜菜は俺の手を掴んで、
「あんたも、男でしょ。興奮しない?」
ニヤニヤしながらそう言ってきた。
「ああ、エロいですよ。はいはい。」
これまた適当な言葉を脳ミソから見つけて、軽くあしらった。正直な所、性欲なんて、とうの昔に海に溶けていった。これだけ疲弊しているのを見て分からないだろうか。
「まだ17なんだから。風邪では死ねないぞ。早く着ろ。」
俺の出せる、精一杯の優しさだった。
「はあい。」
結構勇気いるのにな。そんなことをボソッと吐き捨てて怜菜は服を着始めた。
──────
浴室はさっきまで怜菜が使っていたから、シャンプーの匂いが芳烈に香ってきた。シャワーの前の椅子にどかんと座り、自分の使っているシャンプーを手に取った。
「ねぇ、シャンプー無い。」
脱衣所の怜菜に文句つけたが、
「無くなった時言えって。今日は替えが無いから私の使って。」
母親が言いそうな台詞に、何も言い返せず、閉口してしまった。怜菜の使っているシャンプーの香りは嫌いだった。毎晩寝る時香っている、「生きている」匂い。明日がある事を顕著に示しているようで、気持ちが鬱していく。が、髪の毛にも砂が付いている。自分のシャンプーが無くなった場合、怜菜のシャンプーを使うぐらいなら、と思いお湯で済ますが、今日は流石にお湯だけで流すのじゃ気持ち悪いと思ったので、大人しく怜菜のシャンプーを手に二プッシュ出した。頭を洗う時間は、意外にも嫌いではない。その辺の人はきっと、面倒くさく、早く終わらせてしまいたいと思うだろう。俺だって好きでは無いが、嫌いでもない。何も考え無くていい、そういった束の間の安堵の中、頭をマッサージする。生きてる中の唯一ぼーっとできる時間、これだけは、人生の中で幸せな時間だった。だが、頭に沢山付いた泡をシャワーで流す時間だけは、卑屈で、鬱陶しいものだった。泡と共にお湯が流れてくる。顔のあらゆる場所を伝って眦、そして鼻筋、最後口に至り、床へと滴り落ちる。その過程で俺は、このお湯に呑まれ、溺死してしまえたなら、又は、この泡のように儚くも秀麗に消えていけたなら、日常の影に蔓延って、瞬きをする度脳内で蠢いている遍く辛苦というものに苛まれることなく、虚無の存在へと自身の命が昇華されるのに、そういう考えを毎日のように巡らす。それすら考えるのが面倒で、辛い故、シャワーで頭を流す時間は鬱陶しい。
──────
シャワーを止め、目を開ける。お湯が排水溝へ流れる音だけが浴室に響く。侘しさと、風呂に設置された照明の眩しさに打ちひしがれ、はぁと深い溜息をつく。
いつもはリンスを使う。何の偶然だか、自分がいつも使っているリンスも無い。怜菜のリンスはたっぷり入っているが、今日はいつもより特段疲れていたのもあり、リンスは諦め、体を洗うことにした。
──────
首元を洗う自分の首からデコルテには、ポツポツと所謂キスマというやつが付いている。性欲もないのに、性の所業に狂った様に溺れる自分に、凄まじい憎悪がふつふつ湧いてきた。だがその憎悪も、力なく虚無へと変わっていった。毎日同じことの繰り返しだ。朝起きて朝食を食べる。歯磨きをして着替えたら。怜菜と買い物へ行く。1日分の食料と、生活用品である。その後はスーパー近辺のアウトレットなどをよくブラブラする。お昼ご飯を食べたりして、夕方まで暇を潰す。家に帰ったら俺は仕事へ行く。いや、バイトと言った方が正しいだろう。そこで俺は毎日のように愚図愚図店長に怒られながら、10時頃バイトを終える。しょんぼり海沿いを歩きながら家へと足を運び、家へ帰ったら風呂へ直行する。出たら怜菜が作ってくれた夕飯を怜菜と一緒に食べる。食べ終わったら、食器を片付けもせず、すぐに怜菜とベッドへ潜り込む。明日も早くから家を出るというのに、買い物なんて何時からでもいいという怜菜の我儘に押され、唯々諾々と行為に及ぶ。それを3年ほど繰り返している。学生ふぜいがよくここまで生活できた。きっと2人とも食欲が薄く、あまり食費がかからないからだ。たが、こんな愚図愚図生きているのも、そろそろ疲れてきた。毎日毎日同じようで、人生に花というのがない。時たま惨憺たる昔の生活を思い出し、更には将来の不安を感じてしまう。これからどう生きるのだ。やはりいくら食欲がなかろうと、限界というものがある。周りの冷たい視線を存分に浴びながら生活するのか?道行く幼児に後ろ指刺されながら怜菜と歩くのか?遍く日常の辛苦を考えるだけで、命というものを棄てたくなってしまう。もういい加減、疲れた。
──────
体を拭いて、服を着る。脱衣所を出てリビングへと赴く。怜菜はもう既に夕飯を作り終えて、低くて小さいちゃぶ台のような食卓の前であぐらをかき、酒を飲みながらテレビを見ていた。床には二缶ほど空の酒の缶がおいてあった。どうやらもう二本も飲んでしまったようだ。
「酒、気をつけろよ。」
「んー?らいじょーぶ…。このぐらいしないと死ねないよお?あんたもつらいんでしょ。いいからほらぁ…食べよーよ…。」
既にいい気持ちになっていた。顔は火照り、服も俺のTシャツを上に着ているだけで下は下着のみだった。
「あのさぁ…夏だからって…。風邪はうつすなよ。ひいても世話しないからな。」
自分は呆れて横に座った。
「うるさいなぁ。急性なんとか中毒で、逝けるんじゃない?なんてね…ふふ。」
俺の肩に頬を擦り付けながら冗談を言っている。そんなことを放っておいて、自分も酒缶を口に運んだ。
「そうなったら万々歳だよ。」
ぷはぁと酒缶を机に置き、箸を取る。肉じゃがに箸を運んだ。
「ねぇ…なんで泣いてるのよ…。私が可愛すぎちゃったとか?」
呂律が回ってない。にへらにへら笑いながら聞いてくる。その時俺は自分が泣いていることに初めて気が付いた。俺は何も言えなかった。なんで泣いているのかすら分からなかった。少し小刻みに手が震えて、肉じゃがが上手くつかめなかった。
「あーん。」
そんな俺を見兼ねたか怜菜が肉じゃがを俺の口に運んでくれた。これまた何も言わず、パクと食べ、黙って俯いて咀嚼した。
「これに懲りたら海はもう辞めるんだねー。薬、買ってきてあげよっか?」
怜菜はそう言ってニコニコしながら俺の頭を撫でる。
「リンスしてないでしょ。もー。匂い嫌いすぎ。」
怜菜も涙を流していた。俺は黙って横を向き、怜菜を抱きしめた。髪の匂いが鼻腔を突き、何故だか酔いがまわる。三十秒ほどすると、
「ほら。食べよ。せっかく作ったんだから。」
怜菜がそういうので、俺も食卓に向きなおった。そこから2人は黙々とご飯を食べ続けた。
──────
「ご馳走様。」
そう俺が言った瞬間、怜菜がTシャツを脱ぎ捨てて、
「これでも?」
と誘ってきた。
「下着なんてどうせ脱ぐんだから、意味なんて無いだろ。」
「うわぁー固定観念。ダサいよ。それ。相変わらず性欲、無いんだ。ねぇ…今日で最後だから。」
「勝手にどうぞ。」
今日で最後。怜菜の行為の前の口癖だった。
──────
扇風機に吹かれた前髪が瞼をつついた。目を開けると、窓から注ぐ陽の光が眩しく、すぐに起き上がった。
「怜菜…カーテン開けやがった…。」
自分は裸体だった。またキスマが増え、憎悪がチラと顔を覗かせる。横に怜菜はいなく、代わりに、食卓の上にメモと朝食が置かれていた。服を着ながらそのメモを見るとそこには、
『今日朝からバイトだったよねー?買い物行っておきます。いってら。』
と書かれていた。そうだ。今日は朝から夕方までバイトだった。昨日、さほど酒を飲んでいないのに頭が痛く、体が重くだるかった。バイトは10時から。今は9時だった。ドラッグストアぐらいしか開いてないのに。怜菜、早。と思いながらも、結構ギリギリなので、動きたくない体に抗って、朝食を食べた。いつもと変わらず美味しかった。
──────
電気、コンロ、扇風機、エアコンの電源を確認し、家を出た。アパートの二階からは水平線が堤防と平行に見える。そんなのもう見慣れている。絶景を無視し、階段を降りた。バイト先は家から近く、徒歩で十分ほどで着く。昨日のこともあり、その道程はいつもより足が重かった。景色や車のエンジン音も煩く、着くまでに一時間かかったような感覚だった。
──────
いつも通りドリンクコーナーの陳列をこなす。すると店長が後ろからドスドス歩いてきた。何やら怒っていて、察しが着いた。
「おい!客からのクレームだ。買った板チョコレートがバキバキに割られていたそうだ。どうしてくれる!こうしてまた客が…」
いつも通りごちゃごちゃ言っている。お菓子コーナーは確か俺じゃない新人バイトが担当なはずだ。そいつだろう。なんで俺が怒られなきゃいけない。教えたのが俺だからか?俺は新人にチョコレートを割れなんて教えていない。怒るなら新人のミスなのだから、新人を怒って欲しいものだ。その後バックヤードに連れていかれ、なんだかんだ一時間ほど説教を食らった。もう散々だ。死にたい。こんな人生、打算の暇もない。損だ。損でしかない。
──────
重い肩と足、体を頑張って家へ運んだ。今日はだいぶ遅くなってしまい、疲れたので、入水する気も起きなかった。いつも通り錆び付いた鍵穴に鍵を差し込む。鍵が開いていた。また怜菜の不注意か。と許容し、家へ入る。
「ただいまー。」
また力無い声で、帰ったことを伝える。だが十秒ほどたっても、返事がない。リビングに電気がついてるので怜菜はいるはずだ。不思議な気持ちと、眠い気持ち、半分半分持って、リビングのドアを開けた。怜菜は机に突っ伏していた。怜菜の首に手をやると、とても冷たかった。
「まーた寒そうな服で…。もう少し着ろっての…。」
怜菜の返事はなかった。怜菜は眠りが浅く、少しの音でも起きる方だった。
「怜菜?」
揺さぶるがなかなか起きない。ぽかぁっと開いている口元に手をやると、息をしてないことが分かった。死んだようだ。よく見ると机の下に大量の睡眠剤が置いてあった。一箱余っていた。もう一つ箱があったため、一箱丸ごと飲んだのだろう。不思議と、何も思わなかった。やけに腑に落ちたのだ。可哀想?いや違う。狡い?それも違う。好きだったのに?なわけない。色々な考えが頭を巡るがどれも今の感情に当てはまることは無かった。きっともう諦めたのだ。怜菜も、今の俺も。この人生、社会に。
──────
俺は黙って立ち上がり、怜菜が飲んだであろう水の飲み残しで、睡眠剤を黙々と一箱飲んだ。怜菜はなんだか得意気な顔で死んでいた。海より確実だろう?とでも言っていそうだ。悲しくなかった。唯一ありのままをさらけ出せる人間だった。親よりも友達よりも、何よりもさらけ出せた。嬉しかった。そうだ。この気持ちは嬉しいというのだ。きっとそうだ。だんだん目の前が暗くなってゆく。頭がくらくらし始めた。俺は怜菜の隣に腰を下ろし、怜菜に抱きつき目を瞑った。大嫌いだったはずの怜菜のシャンプーの匂いがこの時だけは気持ちがよかった。
死慾 幾太 @wara_be
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