繰り返す聖者・『フルゥ』
◇ 少女が生まれた日、姉は神に捨てられた。
冷たい牢の中、こつりと足音が響いたと同時に、ファニーシュは飛び起きた。
「遅かったわね!」
いつもなら魔法陣を描き切って一分も経たない内に悪魔がやってくる気配があったのに、今回は(時計が無いので正確な時間は分からないが)数時間も待ちぼうけをさせられたファニーシュは、やってきた悪魔に開口一番にそう言った。
色の無い白黒世界に立つそれは、鹿のような姿をしていたが、巨大な蝙蝠のような黒い羽が生え前足は爪の伸びた人間の手のようで、やはり既存の生物からはかけ離れた姿をしていた。
「初めまして! 今回は貴方が契約してくれるのかしら!」
「……っふふ」
鹿の目が細められる。嘲りの意が込められた笑みをこぼしたそれは、老婆のようなしわがれた声で独り言のように呟いた。
「今回は、か……これまでも何度か契約を?」
「そうよ! でも、中々上手くいかないのよ! 困っちゃうわ! ねえ、貴方お名前は?」
ろくな食事も与えられず(これにも随分慣れてしまったものだ)、掠れた声で問う。あまり困っているように聞こえないとはラァムの評だったが、鹿の悪魔にも同じように捉えられたようで、悪魔は呆れた風に小さく鼻を鳴らした。
「フルゥ……」
「フルゥね! フルゥ、フルゥ……あら? 家にあった本には載っていなかった名前ね!」
あまり人前には出てこない悪魔なのだろうか? ある意味で新種発見のような気分になって目を輝かせるファニーシュに、フルゥは「新参者なのでね」とそれらしい答えをくれた。そうか、新人悪魔か。
「じゃあ、わたくしのほうが悪魔に詳しいかもしれないわね! さあ、契約をしましょう! その後は、約束事の取り決めをするのよ!」
「うふふ……契約ねぇ……」
ファニーシュの言葉を一つ一つかみ砕いて聞いていたフルゥは、少し前屈みになって近づき、こちらをじろりと睨むように見上げた。
「では、願い叶えられた時、何を差し出すというの、穢れを知らぬお嬢さん」
「わたくしの魂を上げるわ!」
「あははっ、知らないのか。悪魔が欲するは穢れた魂。お嬢さんの魂に、穢れなど一つも無い。価値のないガラクタを押し付けて、契約を結ぼうとでも?」
ゆっくりとファニーシュを取り囲むように動きながら、フルゥはどこか少女染みた笑い声を上げて続けた。
「それに貴方、先約がいるな……無価値なものに価値がつくまで待つ気の者とな……うふふ。さあ、他に何を差し出す? まあ、何をあげようとも無意味な事だ──時間が巻き戻る事はもう無いのだからな」
「え?」
きょとんとして、ファニーシュはフルゥの正面に周り込み、「どういうこと?」と首を傾げた。
「秋になれば、巻き戻るわ! だってこれまでそうだったもの!」
「貴方は何故この数か月が繰り返されるか知っているか?」
「分からないわ! 多分、神様がやっている事じゃないかしらって思っているけど! 理由までは……」
言いながら、前々回契約した悪魔総裁ザヌとの会話の癖で、ファニーシュは少し考えた。
神様がこの繰り返しを起こしている。そう仮定したとして、巻き戻りが起こるのが秋の二十日である理由はなんだろう? 母の発言では、その日はパルフェと神が式を挙げる日だ。何故、その時に毎度時間が巻き戻るのだろう? そして、たった今フルゥが言った言葉の意味。もう巻き戻らない──。
「……パルフェが、神様にお願いしていたの?」
聖女病が治ったと傍目には勘違いさせるほど、祈りで神に力を使わせることができたパルフェなら、考えられなくもない話だ。
いや、寧ろ。そうだ。パルフェが式日に願い、神が叶えたと考えれば、この超常現象が起こる理由としては十分だ──そう、もう巻き戻らない、という理由としても。祈る者が既に命を絶っているのだから、当然だ。
「でも、どうして?」
毎回同じ日に巻き戻りが起こっていた理由は分かった。だが、動機はなんだったのだろうか。次に沸いた疑問を答える者は既にいない。
「っふふふ、あははっ」
可笑しそうに、フルゥがしわがれた笑い声を上げた。
「うふふ。繰り返す時間に気づきながら、理由を探しもせず、都合よく使っていたのね。ふふ……そうやって無垢を振る舞い、妹を虐待して、何も知らなかったのだから自分に責任は無いと表明するのか」
「? 虐待? なんの話?」
虐待と言うのは、理由もなく殴りつけたり、閉じ込めたりする事だというのはファニーシュにも何となく分かっていたので、否定する。ファニーシュが可愛い妹にそんな酷い事をするわけがないではないか。
今にも笑い転げてしまいそうなフルゥは置いておき、ファニーシュは立ち上がった。
「そういうことなら、行くわよ!」
「っくふふ、どこに?」
「神様のところ!」
「行ってどうする?」
「決まっているわ! 直談判よ!」
式を挙げようとするほど、パルフェを気に入っている神なのだから、パルフェが生き返るだろう時間の巻き戻りに賛成するはずだ。
「きっと今は、パルフェが死んでしまったショックで、悲しみに暮れていてそんなことを考えつかない状態なのよ! わたくしが教えてあげればいいんだわ!」
「ふ、っふふー……」
人間の姿だったら腹を抱えていただろうフルゥは、笑い過ぎて肩で息をしながら、「ほら」と牢の鉄格子を顎で指した。
途端、雷鳴と共に風が吹き荒び、鉄格子はバキバキと音を立てながら湾曲し、人一人通れる大きさにまで広がった。
「話が分かるのね! 大好きよ、フルゥ!」
「きゃははっ、よく見ろ、よく見ろ。全て無意味だ!」
「?」
嗤い続けるフルゥに首をかしげつつ、檻を出る。──ソレ、はよく見る必要もないほどに、周囲のあちこちに出現していた。
景色に赤いヒビが混じっていた。壁や床が剥がれたようにも見えるが、時折ぼろりと崩れてヒビを広げ、穴となったそこから闇が覗いているのを見て、そうではないのだと直感的に理解する。これは、この空間そのものに空いた穴だ。
「な、なんですの、これ……っ!?」
「っはは、簡単な話よ、“繰り返す世界”はパルフェを中心に神が構成した歪な空間だ。中心人物だったパルフェが死んだ事で、この空間は維持できなくなった」
「え、えっ? どういうこと? わたくし達はどうなりますの?」
「このまま元いた時間軸に戻されるだろう。パルフェは死に、貴方は咎の証が浮かんだまま、ね」
「そんな……」
こんな最悪の状態で戻れ、と? 馬鹿な話だ!
ファニーシュは憤慨して、フルゥをキッと睨みつけた。
「フルゥ! わたくしと契約なさい!」
「私に時間を巻き戻す力はない」
「構わないわ! 願いはさっき言った通りよ! わたくしを、神の下へ連れて行きなさい!」
続けたファニーシュの言葉に、フルゥが息をのんだ。
「わたくしも、パルフェも! 幸せになるのよ! じゃないと許さないんだから!」
数秒、間を開けてフルゥは踵を返した。思わず「ちょっと!」と非難の声を上げると、フルゥは空間に空いた一つの穴に足を踏み入れて、振り返った。
「来て。ふふ、こちらが安全だ」
「あら、そうなの?」
いかにも怪しい穴だったので、盲点だった。フルゥを信じてファニーシュは中途半端な高さに空いた穴へとよじ登りながら、「でも、報酬はどうしようかしら?」と尋ねた。
「報酬な……まあ、勝ち取ればいいだけの話だ」
ケヒ。と、フルゥはしわがれた声で笑った。
よいしょ。とファニーシュが穴の向こうへ足を下ろすと、見覚えのある景色が広がった。暖かな風が頬を撫でる。
「これは……」
「……ええ。最初の日ね」
フルゥの付け足すような返事を受けて、ファニーシュは周囲を見渡した。
***
……窓から差し込む穏やかな春の日差しに、パルフェは目を細めた。今日は待ちに待った茶会の日だ。
(エオル様……どんな方かしら)
期待に胸を膨らませて、パルフェは鏡の前で念入りに身だしなみを確認する。色良し、装飾品も良し。派手過ぎず、地味過ぎない、姉の婚約者との顔合わせ用のドレスも、今日の為に用意してもらったものだ。
パルフェはこの十四年という短い人生を、質素倹約に生きて来た。どんなパーティでも社交界でも、ここまで準備した事はない。だが、姉の婚約者は公爵家だ。万が一にも失礼のないように、パルフェが原因で姉の婚約話が無かったことにならないように、細心の注意を払わなければならない。
パルフェは、姉であるファニーシュの事が大好きだ。連れられた教会で初めて出会ったあの時から、ずっと。
しかしそれらの理由が全て建前になってしまいそうな程、パルフェは内心浮かれていた。
(優しい方、素敵な方……勉強が出来て、まるで物語の王子様のようで、心を表すほど美しい方……ああ、お姉様がそんな風に仰るなんて、どんな方かしら……!)
貴族の家に生まれたとはいえ神の下へ向かう事が決まっているパルフェにとって、婚約なんてものには縁が無い。だからこそある種では他人事のように、噂話を面白がるみたいに、姉の語るエオルという人物にどんどんと期待と妄想が広がっていた。
扉がノックされ、そろそろ顔を出すようにと促されてパルフェは家族と合流する。一番楽しそうな姉はこれまでにないくらいにこにことして、落ち着きない様子でいた。
「お姉様、今日のお召し物素敵ですね」
「そうでしょう! 少し大人っぽく見えるかしら!」
るんるん気分でその場でくるりと回って見せた姉のドレスが、風を含んで大きく膨らんだ。普段は濃い赤や青が多い姉にしては珍しく淡い色合いだ。姉はまだ子供の姿から成長しないので、デザインは子供っぽいものの、いつもと違う魅力があり、パルフェは素直に「はい」と頷いた。
(そっか、お姉様にしては珍しい色だと思っていたけど……エオル様は一つ年上だから、きっと彼に合わせたのね)
姉がそう思って好みを曲げるほど、大人びた人なのだろうか。
少しだけ妄想をする。自分よりも大人びた、周囲も絶賛するような素敵な男性が、パルフェの婚約者だったなら。普通の貴族令嬢のような生活が送れたら。姉のように煌びやかなドレスを着て、可愛いアクセサリーを身に着けて──嗚呼、実現するはずのない馬鹿げた夢だけれど、考えるだけで少し幸せになれる。
だって、妄想するだけなら誰にも迷惑をかけないじゃないか。
「──じゃあ、これは茶会が終わったらパルフェにあげるわね」
「……え?」
不意に届いた姉の声で、パルフェは現実に引き戻される。数年をかけてじわじわと差がついた身長差故に、小柄な姉を見下ろす形になりながらパルフェは再度問い直す。
「何を、ですか……?」
「ドレスよ。欲しいのでしょう?」
声に出していただろうか。思わず周囲の人間に目をやるが、会話を聞いていたのはリーヴィぐらいのもので、彼もキョトンとして目を瞬かせていた。
「パルフェお姉様は別に、欲しがってはいませんでしたが……?」
「あら、そう? でもあげるわ! きっと、パルフェも似合うわよ!」
「い、いえ、そんな……私は……」
「──ディアンヌ家の方々が到着されました」
使用人の声で姉は、ぱっと明るい笑顔を浮かべると、一人で玄関に向かって駆け出した。
「あっ、お、お姉様!」
作法も何もあったものではない。パルフェも後を追い、姉の後ろ姿が見えた時にはもうディアンヌ家の姿が見えており、パルフェは内心で冷や汗をかいた。
(お、お咎めがありませんように……っ)
姉が十五歳ではあるものの八歳前後で見た目も中身も止まっている事は伝わっているだろうとは思いつつ、楽し気に喋り出した姉を、そっと背で隠す。
「よ、ようこそお越しくださいました、公爵様。突然の失礼をどうか、」
「あっ、パルフェ! あのね、あのね! この子がわたくしの妹のパルフェです!」
「お姉様、順番がありますから……」
慌てるパルフェと気にせずパルフェを紹介し始めるファニーシュを見て、公爵夫妻は微笑ましそうに口元を緩ませた。とりあえず、怒られはしないようだがこれでは先が思いやられる。
遅れてやって来た両親もパルフェと似たような反応をしたが、公爵は気にしていないよ、と片手で断り、後ろに立つ息子に声をかけた。
「堅苦しいのは止しましょう。エオル、お前も挨拶なさい」
「はい」
半歩道を譲るように動いた公爵の脇から、その少年は現れた。
この瞬間を、パルフェは二度と忘れることはないだろう。最初に目についた、黄赤色の柔らかそうな髪。次に目が向いた、やや幼さが残った整った顔立ち。少し線の細い体躯。桃花色の優しい目と目が合った瞬きよりも短い時間の間に様々な感情が巡り──精巧な顔立ち以上に感じ取れる彼の空気感のようなものに、パルフェは衝撃を受けた。
(なんて綺麗な……王家は清らかな魂を持つ方が多いとは聞くけれど、血筋の公爵家でこれほどの美しい魂の方がいるなんて……)
聖職者として修業をしていないものの、大天使の加護を受けているからか感覚的にエオルの魂の美しさに気づいたパルフェは、ファニーシュが勝手にパルフェとリーヴィの紹介を始めてしまったのにも気づかない程、しばらくまじまじと彼を見つめてしまった。
いや、多分、こんなのは後付けの理由に過ぎない。魂の美しさも、好印象の容姿も、姉から語り聞かされてきた性格や技能も、何もかもが後からそれらしい理由を考えた結果だ。
姉の婚約者に一目惚れをした、そんな卑しい自らの感情を綺麗な言葉で隠そうとした、小賢しさの現れでしかない。
視線に気づいたエオルがにこりと微笑んだ。ただそれだけだで、パルフェは胸の奥から押さえきれない程の想いが沸き上がるのを感じた。
……彼が好きだ。
「──」
息が止まる。時間すら一瞬止まり、再び時が進みだすとパルフェは一気に顔を真っ赤にして、顔を伏せた。
(こっ、これは、いけないわ……!)
激しく鳴る心臓を押さえるように胸元で両手をこすったり握ったりしながら、パルフェは落ち着きなく息をする。そうして、現実を見る。彼はファニーシュの婚約者なのだから、横恋慕のような真似をするわけにはいかない。
こっそり深呼吸をして、パルフェは平常を装った。薄く微笑んで、汗が滲む手でドレスを摘み上げて震える声を誤魔化し、令嬢らしく振舞う。
「妹のパルフェでございます。お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ、噂の妹君に会えて光栄だよ。これからよろしくね」
姉の婚約者として。義妹として。割り切った関係に徹しながら、心の隅がチクリと痛む。否。何を悲しむ必要がある。パルフェはあと数か月で神の下へと発つのだ、叶わぬ想いを口にする必要なんて無い。
ちらりと姉を見やる。下からこちらを覗き見ていたファニーシュは、きょとんとした表情を浮かべている。
「パルフェ? 体調が悪いの?」
「いえ……問題ありませんよ、お姉様」
「ほんと? 一緒にケーキ食べられる?」
「はい」
体調不良ではないと聞くと姉は分かりやすく安堵して、今度は満面の笑みを浮かべた。
(そうよ……お姉様にこうして笑顔でいてもらうこと……それが私の幸せでしょう)
大丈夫、大丈夫。言い聞かせて、パルフェは全ての感情を隠すように笑顔を貼り付けた。
***
「……怒らなかったわ!」
見覚えのある景色の、記憶にない光景を横目に歩いていたファニーシュは、勢いよくフルゥを振り返った。動きが面白かったのか、フルゥは小さく息を噴き出した。
「そう、っね……」
「でも変ね! いつものわたくしなら、もうパルフェがエオル様を盗ったと騒いでいてもおかしくないわ! だって既にもう、今のわたくしは怒り心頭よ!」
握り拳をぶんぶんと振り回して「許せないわ!」と抗議の声を上げ、そこにいるパルフェに殴りかかろうとするファニーシュの襟首をフルゥに引っ張られながら、ファニーシュは続けた。
「それにしても、これは何度目のやり直しの光景なのかしら? わたくし、全く身に覚えが無いわ!」
「……これは最初だ。やり直しも巻き戻りもしない、本来の時間に起こった出来事だ」
「あらそうだったの! ん~、どうして覚えていないのかしら?」
記憶力に自信があるだけに(特にこの茶会は、大好きなエオルと大好きな家族がいるので、忘れるはずがないのに)、覚えていないのが不思議で首を傾げるが、「急いでいるのでしょう。ほら行きましょう」とフルゥに引っ張られ、解答を得られないまま、次の空間の裂け目に入り込んだ。
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