◇ 見世物小屋で男は綿を吐けず窒息死した。

 現実から目を背け、パルフェは日々を過ごした。姉が悪い事に手を染めるはずがない、ましてや悪魔召喚などできるはずもない。そう闇雲に信じて、ある意味では見下し、縋っていた。


(神様と式を挙げるまであと数か月……耐えればきっとこの痛みのない日々が戻って来るわ)


 パルフェは祈った。姿なき鞭に打たれ苦しむ日々の終わりを、信じぬ神に向けて祈った。積もる穢れに対抗して、ただ祈る。日々は過ぎて、季節が変わる。


(あと数日耐えればいい)


 そう、終わりが見えているのだから、その日まで耐えればいい。簡単な我慢比べだ。


 エオルに会う。痛みが全身に走る。このぐらい、奇病で苦しんだ姉を思えば耐えられる。パルフェが何度この息苦しい人生を繰り返していると思っている。なんてことはない。


(あと数日)


 エオルと目が合う。傷なんてどこにもないのに、かさぶたが張った生傷の上から打たれたような痛みが走る。大丈夫だ。終わりは近い。


(あと少し)


 エオルが微笑みかける。傷が治る前に増えていく。いや、傷なんて無い。これは魂へと穢れが急激に増加した痛みだ。分かっている。だが、誰にもこの苦しみを訴えることができないのが苦しい。まるで、人目につかない箇所を、傷跡が残らないように殴りつけられているようだ。


(もう少し)


 エオルと話す。嗚呼、痛い。痛い。


(エオル様……)


 バシリ、と鞭が全身に打たれるような痛みが走る。彼を想像することすら許さないとばかりに。なら誰に救いを求めろと言うのか。


 痛い。朝起きても、食事をしても、祈りを捧げていても、姉と歓談していても、眠るその瞬間さえも。僅かに彼を想えばそれは飛んでくる。


(まだ)


 それで何が紛れるわけでもないのに、パルフェは己を抱きしめるように二の腕をぎゅうと握る日が増えた。そうすると鞭で打たれたような痛みよりも、爪を立てる自傷行為の痛みの方が現実であると再認識することができて、少しマシのような気がした。


 こんなに痛いのに、姉は笑っている。


(まだ……?)


 一日が酷く長く感じられた。


 屈託の無い笑み。満面の笑み。純真無垢で、天真爛漫な笑顔。何も悪い事なんてしていないと、信じてやまない笑みでパルフェの前に立つのだ。


 あれをしましょう。これをしましょう。これはやったことある? 無いならこれも、あれも……。まるで最後の時間を楽しむように、姉は言い、エオルもリーヴィも連れてあちこちに連れられた。


 いつ飛んでくるか分からない見えない鞭に、パルフェは日々怯えた。時折エオル本人がいなくとも、その鞭はパルフェを襲ってくるものだから、何が鞭を振るうきっかけになるか分からず、パルフェは小動物のように常に周囲に目を配り、ビクビクするようになった。


 穢れは溜まっていく。もう浄化を諦める程に、パルフェの魂を蝕み、無自覚なまま正常な判断能力を奪っていった。



 ……そしてそれは、パルフェの誕生日の二日前にやって来た。



「前にお父様におねだりしたプレゼント、今日届くんですって!」


 ベッドに転がったまま動けないパルフェに、ファニーシュは元気よく大きな声で言った。エオルとの顔合わせの前日に、二人で選んだ贈り物が今日、届くのだそうだ。


「パルフェの誕生日に間に合ってよかったわ! あっ! お誕生日プレゼントは別で用意しているわよ! 楽しみにしててね!」


 にこにこしながら、姉はパルフェの額を優しく撫でた。


「あ、そういえば……少し前に、から──」

「──ッ!!」


 ビクリと。名前に反応してパルフェは体を跳ねさせ、そのまま蹲った。痛みが来ると思ったのだ。痛みはやって来ないのに、そこにいる姉がいつ見えない鞭を振り上げるか分からず、パルフェは震えた。


「ど、どうしたの、パルフェ? 寒いの?」


 ファニーシュがパルフェの顔を覗き込んだ。ただ心配しただけだったのだろう。いつもの姉を知っているからこそ分かるのに、恐怖心が違う表情を見せてきて、パルフェは青ざめた。


 愛しい姉の優しい気遣いの表情や言葉が、痛みに苦しむ小動物の反応を楽しむ、不埒な人間に見えて恐ろしくて仕方がなかった。


(助けて、エオル様)


 そうして恋した相手に縋った瞬間、また鞭が飛んでくるのだ。縮み切った体がビクンッと跳ねる。失神しそうな、だけど意識を飛ばすには足りない痛みで、パルフェは血反吐でシーツを汚した。


 穢れを溜め込み著しく衰弱した体は、増加の一途を辿る穢れにより体の内側から影響が出始めていた。今、腹部が痛いのが、穢れによるものか内臓が異常を来たしているのかも分からず、ただただ喉を焼く胃液のツンとした匂いで咽る。


「!? パ、パルフェ! 大丈夫!? 待ってて、すぐお医者様を……!!」

「嫌ぁッ!!」


 何にも知らない顔をして、部屋を飛び出そうとするファニーシュに向かってパルフェは悲鳴を上げた。


「やめて! やめてください!! ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」


 毎日のように続く痛みで疲弊した精神が限界を迎えた。当たり前の心配をする姉が、もはやパルフェに拷問をしたいが為に医者を使ってパルフェを延命させようとしている鬼畜にしか見えなかった。


 それもこれも、パルフェがエオルに恋をしたからだ。


 分かった。姉がパルフェの恋を見逃した理由が、やっとわかった。姉はパルフェの恋を許したわけではなかった。怒りを抑え込んだわけでもない。ただ、長く延々と、パルフェを痛めつけることを罰としただけだった。


 その罰の最中だというのに、あろうことかエオルに助けを乞うたから怒っているのだ。義妹にしかなり得ないパルフェにそんな権利もないのに、図々しくもエオルに縋ったことなんて姉にはお見通しだった。


 パルフェは涙を流し、恐れ震え、重苦しい体で必死に祈りの姿勢を取った。


「許してください……! もうしません! もう誰も好きになったりしません! やめてください……っお願いします、助けてください……っ」

「パルフェ……? ど、どうしたの?」

「助けてください……お願いします……」


 蹲り、ぶつぶつと助けを求めるばかりになったパルフェを見て、ファニーシュは困惑した様子で「え、と……」と周囲を見渡した。


「お、落ち着いて! ねっ! とにかく、お医者様を呼んでくるから──」


 姉の言葉で、パルフェは酷く絶望した。


 嗚呼、そうか。そうか、まだ足りないのか。まだ、痛めつけたいのか。そうか。謝罪程度では、許されなかった。それほどの行為だったのだ、エオルに恋をするということは。


 ファニーシュが菜種色の髪を揺らして踵を返すのを見て、パルフェは急ぎ体を起こし、ナイトテーブルの引き出しを開けた。


 物音に驚いてファニーシュが振り返る。


 パルフェは引き出しからナイフを取り出すと、鞘を放った。鈍く光る刃で何をしようとしているのか気づいたファニーシュが駆け寄ろうとした。それすらも、恐怖を掻き立てるには十分だった。


「ごめんなさい、お姉様……っ!!」


 迫る姉に怯えて、調度品をなぎ倒し大きな物音を立てながら、パルフェは逃げた。


 何のために、神に祈っていたのだったか。何のために、繰り返す人生を歩んでいたのか。姉の為に捧げていた全ても投げ捨てて──パルフェはその刃で自らの首を掻き切った。


 ジリ、と。


 額が焼けるような熱を持ったような気がした。



 ……しん、とした空気の中、立ち尽くすファニーシュが見えた。



 なんだか他人事のように、パルフェは姉を見ていた。首から血を流して動かなくなった自分も、そんな自分を呆然と見つめている彼女の事も、俯瞰して眺めている現状に不思議と疑問は沸かず、ただ見つめていた。


 ファニーシュは数回ぱくぱくと口を動かしていたかと思うと、不意に声を荒げた。


「どうして!」


 言いながら、彼女は自身の斜め後ろに立つソレに怒鳴りつけた。


「バルバ!! これはどういうことよ! わたくしは貴方との賭けに勝ったわ! 貴方はわたくしの願いを叶えると、そう約束したはずよ!!」

「……そ、そう言われてもね……」


 バルバ、と呼ばれた狩人の姿をした男は、気が弱そうな声で答えた。四つのトランペットをいじけたように手で弄びながら、彼は困った顔をする。


「ぼ、僕は、君が望んだ通りにした……嘘なんてついていないよ……」

「だったら! これは何ですの! わたくしは、パルフェに向けてしまう殺意を押さえてと頼んだだけじゃない! どうして──パルフェに咎の証が浮かぶような事になっているの!!」


 言われて、パルフェは倒れる自分を今一度よく観察した。確かに、血の気の無い真っ白な額には、焼き印のようなものが浮かんでいる。咎の証だ。


「そ、それは……自殺をしたからだろう……? 君だって、あれだけ調べたんだから、知っているだろ……咎の証は、特に魂が穢れるとされる行いをした者に神々がつける印で、大きく分けて三つ──」

「知っているわよそんなこと! そうじゃなくて、どうしてパルフェが自殺なんて……っ! 嗚呼、パルフェ! パルフェ! どうして……っ」


 虚ろなパルフェの目をじっと見つめている内に、だんだんとファニーシュは涙を浮かべ、ついにぼろぼろと頬を伝わせて泣き出した。


(お姉様……)


 姉を慰めようと、パルフェはそうっと彼女の涙を拭おうとして近づき、ハッとして目を見開き固まった。


 ファニーシュは、断罪者の目をしていた。


「っ嗚呼、パルフェ……! なんてこと! 罪を……罪を、重ねてっ……嗚呼……罰を! 罰を与えないと! 神よ!」


 子供らしいきらきらとした輝きはどこかへ消え失せて、百群色の大きな目は冷めきっているというのに、表情は高揚としていて、涙はぼろぼろと流れ続けて、何もかもチグハグなまま、姉は言葉を紡ぐ。


「ええ! 貴方様に代わってわたくしが、罰を!」


 ぴくりとも動かないパルフェの手からナイフを奪い、ファニーシュは高々とナイフを振り上げた。


 それは、数分前の物音を聞きつけてやってきたリーヴィが、扉を開けるのとほとんど同時に振り下ろされた。蝶番の軋んだ音と、刃物が肉を突き刺し骨に当たる音が混ざる。


 騒ぎを聞きながら、俯瞰したまま立ち尽くすパルフェに視線をやったものがいた。四つのトランペットを持ち狩人の姿をした男、バルバだ。


「……これで、お前も知る事はできただろ。こ、これが僕の今回の役目だ……契約せず手伝ってやったんだから、感謝して欲しいくらいだ……」


 言葉尻に向かうにつれて声量を小さくしながら、バルバはぶつくさと「総裁からの願いでなければ、誰がこんな面倒で危険なことを……」と付け足した。


 気が弱いのとかなり人間に近しい形をしているのでうっかり見落としそうになったが、随分と禍々しい気を持つ男だ。こいつは悪魔だ、それも名のある高位悪魔だ。


(バルバ……って、まさか悪魔公爵の、バルバ……?)


 いくつかの記憶を頼りに、その悪魔の詳細を思い出す。確か、奇病・口縫い病の患者から生まれた悪魔で、問えば財宝の隠し場所を言い当てる他、友情を回復させる力を持つと言われている、比較的穏健派の悪魔だ。


(これは、どういうこと──)


 姉が使用人らに取り押さえられる。その額には、パルフェと同じように咎の証が浮かんでいた。神の言葉を偽り代弁した挙句、死体を切りつけたことで身内殺しの罪も背負ったせいだろう。


 いつかと同じように両親が駆け付けて、娘らの額を見て愕然とする。そんな景色が遠のいていく──。


***


 気がつけば、パルフェは真っ暗闇にぽつんといた。立っているのか、寝転がっているのかも分からない、闇の空間だった。


「……咎の証が浮かんだ者は、闇を彷徨うと聞いたけれど……ここが、その闇なのかしら……」


 ぼうっとしながら足を動かしていると、次第に体が軽くなってきた。引きずるように動かしていた足は、草原をかける鹿のように闇を跳び跳ねる。こんなに高く、長く飛べるなら、羽だって生えているかもしれない。纏わりついていた穢れが、逆に力に代わっていくのを感じた。


「っふふ、あはは」


 頭がすっきりしていく。難しい考え事はどこかに落として、パルフェは笑い声を上げた。なんだかとても楽しい。今なら、石が転がるだけでも笑い転げてしまいそうだ。


 周囲はどこまでも続く闇なのに、気分は春の草原でピクニックでもしているみたいに幸福で、パルフェはスキップしながら闇の中を徘徊し続けた。


 そして、ソレに気づいた。


 ソレはこの空間そのものだ。闇にさ迷う者たちを護る為にいる、王だった。パルフェは闇の中にいるのではなく、悪魔たちの王の中にいた。


「あぁ──これは、これは……悪魔の王よ、こんばんは」


 嗤い続けてまるで老婆のようになった己のしわがれた声すらもおかしくて、ケタケタとまた笑いながらパルフェは王に挨拶をした。


 王はただ、一言。


「“フルゥ”」


 そう言うと、黙り込んだ。何かしら、とくすくす笑うパルフェに向かって、彼に寄りそうようにして立っていた、巨大な翼を生やした牝牛がしなりとした態度で近づいてくる。


「よう来た……大天使の加護を受け、堕ちた者よ」

「うふふ……ふふふ……よく言うわ……知っているぞ、知っているぞ。お前たち悪魔は、清き魂を取り込むことで神が力を得ぬように、加護を受けし者をこうして引きずり落とし続けていることぐらいな」

「清き一族であれば、当然であろうな。そちの姉が異例なだけだ」


 そうだろうな、と納得する。ファニーシュは、見た目も知性も八歳程度で止まってしまっていたから、多くの事を制限されていた。姉は、パルフェが大天使から加護を受け、神の下へと向かうと発表するために社交場に出たことをデビュタントだと勘違いしていたぐらいには、何も知らされずにあの家にいた。


 なんだかそれも滑稽な気がして、パルフェは笑う。にたにたと、気味の悪い声を口の隙間から零れ落としながら、続ける。


「お姉様は何も知らず、ただ幸福であればよかったものを。よくも邪魔してくれたな」

「それでは幸福足りえぬ。それがそちの姉の答えだ」

「何を、」


 トン、と。牝牛が前足を少し持ち上げ、強く闇を叩いた。水面に淡い波紋が浮かび上がり、それがパルフェの足元にたどり着いた──その刹那、闇が霧のように晴れ、視界が一気に広がった。


 牢獄の床に転がる姉が、石でできた床をスプーンで削って何かを描いていた。


 悪魔召喚の魔法陣。それも、子どもの落書きのようなデタラメなものではない。精巧な──リャーナルド家の記録に残されている、一般に流通しないよう隠し守っている──召喚魔法陣だ。


 書きなれた様子の姉は、意気込んで顔を上げた。


「さあ、もう一度よ! やり直すのよ! 来なさい、悪魔! できれば名のある悪魔がいいわ!」


 治り切っていなかった聖女病の後遺症から戻って来た姉の、元気な声が牢に響く。もう一度だって? ああ、そうか。そうか。そういうことか。理解して、パルフェは腹の底から笑い声を上げた。


「こんな、ものが……っあはは! あははははっ!!」


 あの姉が、描けたなんて。それどころか、悪魔を何度も呼びつけていたなんて。時間の巻き戻りに気づいていたなんて。それを微塵もこちらに悟らせなかった、否、可能性を排除していたパルフェの負けだ。笑うしかない。


「……呼ばれているぞ、名のある者よ」

「っふふ」

「幼く愚かな令嬢の行く末を、導くも弄ぶも好きにすると良い」

「きゃはは」


 前のめりになって姉に近づく。牝牛の声が背後で響く。


「フルゥ。それが堕ちた、そちの名だ」


 嗤う。ただ、嗤うだけだった。


 奇病という神の力に触れた奇病患者が、強力な悪魔となり得る可能性が高いのなら、当然、加護などという神の奇跡を預かった身であるパルフェだって、悪魔になり得る可能性があることを、どうして想像しなかったのだろう。


「愚か者は私だったか、神よ」


***

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