◇ 誰も殺せぬ男を皆は嗤った。
家に戻り、ファニーシュは書庫へ駆け込んだ。勢いよく扉を開けたので、中にいたパルフェは驚いて目を丸くしていた。
「おかえりなさいませ、お姉様。……ど、どうされましたか?」
「ただいま! ちょっと調べもの!」
勉強道具を一式抱えていたところを見るに、パルフェは勉強の復習をしていたのだろう。邪魔しないように、「気にしないで!」と声をかけてから本棚が並ぶ書庫の奥へと足を運ぶ。
「えーっと……神聖学? 神話? それとも伝記かしら?」
悪魔についての本だなんて、これまで調べようとも思わなかったから、どの分野の棚にあるのか分からない。
周囲を見渡し、別の棚を探してくれているメイドからちょっと距離を取り、ファニーシュは室内でも変わらず赤い馬に跨ったままのベリーに声をかける。
「ベリー、貴方は物を移動させたりは……」
「我の力は人間の尊厳を飾り立てるもの! それからあらゆる金属を黄金に変えること!」
「そうね! 知ってる!」
駄目だ。今契約しているのがラァムだったら話が早かったのだが、そうはいかないようだ。どうしようかと困っていると、心配そうにパルフェが後ろから追いかけて来た。
「お姉様、何かお探しですか?」
「そうなの! 悪魔について詳しく書かれている本を探しているわ!」
「あく、ま……ですか」
一瞬ほっとしたような顔をして、すぐに物騒な言葉にパルフェは表情を曇らせた。
「どうして、急に……?」
「今日、大叔父様に会ってね! 悪魔の話を聞かせてくれたの! それで、調べてみたくなったのよ!」
「あ……そういうことですか……」
説明に納得したのか、パルフェは「大叔父様、博識ですものね」と相槌を打ち、周囲の本棚を見渡した。
「でしたら……ここではなく、地政学の棚にあるかもしれません」
「あら、どうして?」
「様々な歴史に、悪魔との契約者が関わっていますから……どのような悪魔と契約し、どのような力を手に入れたか。共に調べながらでないと、悪魔の力で歴史は歪んで、正しく知識として身につきませんから」
「そっか!」
なるほど、確かに。大叔父も、“悪逆非道の賢王“の経歴を読んで、感涙したと言っていた。歴史書だけでは正しく歴史を知ることができないのだから、セットにして置いておくのは道理だ。
「ありがとう! ところで、それはどの本棚かしら!」
「ふふ。こちらです、お姉様」
パルフェは微笑んで、案内を始めた。彼女の隣を歩きながら、ファニーシュは妹の顔を少し覗き込んだ。
「パルフェも悪魔に詳しいの?」
「うーん……詳しい、と言う程では……。歴史のお勉強の時に、その都度先生から示される頁を開いて読んでいるだけですので……」
「そうなのね!」
少し安堵して、ファニーシュは笑顔を浮かべた。この様子なら、ベリーやラァムの名前を呼んでいるところを聞かれたとしても、悪魔と契約していることは分からないだろう。ファニーシュはどうしても声が大きくなりがちなので、その点に気を付けなくていいのは助かる。
ここです。とパルフェが足を止めた本棚を見上げる。興味深い表題を眺め、“悪魔”の文字が書かれた背表紙を見つけ手を伸ばすが、小柄なファニーシュには届かず、代わりにパルフェが少し背伸びをしてその本に指をかけた。
肩から羽織ったショールから、ほっそりとした白い手首を覗いた。真摯な表情を浮かべる横顔、長い睫毛、薄い体。プラチナブロンドの長い髪はファニーシュと違って真っすぐで、白緑色の目は伏せられていても記憶に残る。いつ見ても、パルフェは儚い印象の美人だ。エオルが一目で気になってしまうのも、無理はないと思う。
でも負けない。今回は、ベリーの力で魅力増し増しのファニーシュで彼の前に立つのだ。大天使の加護など消し炭にしてくれる。
「ん、しょ……はい、お姉様」
その前に、悪魔の力を知っておかねば。差し出された本を受け取り、「ありがとう!」と笑顔で返す。表紙に目を落とし、その場で適当に頁を捲っていると、パルフェが遠慮がちに「あの」と声をかけて来た。
「なあに?」
調べものを中断し、顔を上げる。不安そうな表情を浮かべたパルフェが目の前に立っている。
「お姉様は……その……」
「うん」
「……お、お勉強は、お好きですか?」
首をかしげる。「どうして?」と聞き返すと、パルフェは「いえ……」と小さく首を振ったかと思うと、にこりと微笑んで表情を取り繕った。
「もう少ししたら、お姉様にも先生をつけようと……そういうお話をお父様から聞きましたので。私と同じ先生になるかも、と」
「まあ、本当っ?」
初耳な話題に、ファニーシュは目を輝かせてパルフェにずいっと顔を寄せた。
「それって、いつ頃?」
「え、ええと……冬、とか……?」
「冬ね! 楽しみだわ!」
前回はこの十日後に牢に入れられ、冬になる前に処刑される人生だったので、今回はなんとしてでも咎の証が浮かぶのを阻止せねば! そうすれば、数か月後には、パルフェと机を並べて──。
「あ」
ハッとして、ファニーシュは口に手を当てた。
パルフェの誕生日は秋。冬には、パルフェはもう神様と式を挙げており、会えない。そのことに気づき、ファニーシュは考え込む。
「お姉様? どうされましたか?」
「! な、なんでもないわ! わたくし、これを読んでから部屋に戻るわね! どうもありがとう!」
「は、はい。どういたしまして……」
小走りで書庫を移動し、ファニーシュはこじんまりとした椅子に座った。蹄が床板を引っかいて近づいてくる。
「良いのか?」
ベリーの言葉の意味が分からなくて、「何が?」と聞き返せば、彼は豪快に笑う。文句を言ってやろうとして、今まさに書庫を出ようとしていたパルフェが不思議そうにこちらを振り返ったので、口を閉じ、笑顔を浮かべて手を振っておいた。
小首をかしげつつもパルフェが退室するのを見届け、ファニーシュはメイドに外へ出るよう告げて再びベリーと二人きりになった。
「さっきの、どういう意味かしら!」
「どうもこうもあるまい! 問い詰める良い機会であっただろう!」
「何を尋ねるというの?」
「知れたこと! 我の力及ばぬ現象の正体だ!」
よく分からなくて、ファニーシュは悪魔の本を開きながら「それより!」と話を遮って変えた。
「どうにかして、神様との式を取りやめさせることはできないかしら! わたくし、パルフェと一緒にお勉強がしたいわ!」
「神に逆らえと! 恐ろしいことを言うな、愚かな令嬢よ!」
ベリーは言葉では戦々恐々としながらも、声は笑っていた。
「直接ちょっかいをかけるなど! ラァムがどうなったか見ただろうに!」
「あれは大天使様にやられたのではなかったの?」
「神の下におるのが大天使! 大天使の上におるのが神! 大天使の報復より、神の報復の方が恐ろしいのは当然! 我らは死なぬ! 故にいつまでも痛みは続くのだ!」
だからやりたくない。と言いたげに、ベリーは跨る馬にも首を振らせて、やれやれと肩をすくめた。
「どうせ十日後には罰に狂うばかりの、偽りの清き小娘よ! ここで建設的な提案をしたところで、無駄になると知っていて、誰が真面目に議論をしようものか!」
「もーっ。いいわよ! もう! 読書をするから、静かにしていて頂戴ね!」
なんだか小難しい言い回しで煙に巻こうとするベリーに腹を立てて、ファニーシュはふくれっ面になりながら目次を指さし、ベリーの頁をめくった。
***
十日後。顔合わせの茶会当日。
一週間前からあれこれと滋養強壮になる料理をパルフェの食事に出すようにしてみたり、一緒に運動をしてみたりしたが、前回と同じようにパルフェは体調不良で部屋に籠っている。何度人生をやり直そうとも、体調は変えようが無いのかもしれない。リーヴィも両親もいつも通り。状況は前回とほぼ同じ。違うとするなら、ドレスに悪魔の力がかかっているということだ。
ファニーシュはベリーの力がかけられたドレスを身に纏い、鏡を覗き込む。自分では何がどのように変わったのかまったくわからないが、とにかくとても荘厳な雰囲気を放っているはずだ!
「よぉし! 完璧よ!」
「はい。とても素敵ですよ、お嬢様」
「ありがとう!」
意気込むファニーシュを褒めてくれたメイドに礼を言って、ファニーシュは意気揚々と部屋を出た。ベリーも乗馬したままついてくるが、にたにたと嗤うばかりでこれといって話しかけてこない。まあ今は人前なので、あまり返事ができないから助かるが、なんだか不気味だ。
廊下を歩けば、使用人たちが涙ながらに傅く。ついさっきまでとの対応の差にメイドは困惑していたが、気にせず進み、ファニーシュはディアンヌ公爵家を迎えた。
「お久しぶりです。ファニーシュ嬢」
黄赤色鮮やかな髪を揺らし、エオルが会釈する。桃花色の優しい目が微笑みの形になり、その口が名を紡ぐだけで、何度だってファニーシュは有頂天になる。
「お久しぶりです、エオル様! 元気なファニーシュですわ!」
「ふふ。それはよかった」
彼がなんと言うか分かっているだけに、前回よりも緊張せずにファニーシュは応対した。うん、今のは婚約者として中々良い印象を残せたのではなかろうか。
浮つく気持ちを少し押さえて、今度は父にせっつかれる前に三度目となる茶会の案内を始める。道案内、会場での所作、どれも完璧だ。
「聞いていたよりも、しっかりとしたご令嬢ですね」
「え、ええ。今日だけですよ。たくさん練習しましたから……」
互いの両親の話を聞きながら、ファニーシュはちらりちらりとエオルに視線をやる。ベリーの能力がかけられたドレスを前にしても、いつもと変わらないような気がする。前回は褒めて貰えたドレスを今回は褒めてもらっていないし、視線が合わないというか、逸らされている気がする。
表情を隠すのが上手なのか、はたまた最初から好感を持たれているのか、ファニーシュには判断がつかない。
視線に気づいたのか、桃花色の目がこちらを見て、笑む。前回よりも柔らかで、頬が紅潮しているような、僅かな差を感じ取りファニーシュは舞い上がった。
「っそ、そうだわ! エオル様! 供え花にご興味がおありなんですよね!」
「ええ。そういえば、リャーナルド家は代々、強い信仰を象徴する供え花があると、」
「そうなの! わたくしも大好きなお花なの! よければ案内するわ!」
食い気味に提案すると、彼は両親らに目配せをして了承を得ると、穏やかに微笑んで「では、お言葉に甘えて」と立ち上がった。
「それじゃあ、エオル様に花壇を見せてくるわ!」
「ああ、ファニーシュ、ゆっくりと動きなさい」
「はーいっ」
父の注意を受けて、駆けだそうとした足を慌ててその場に下ろす。ため息を吐きたいのを堪えた様子で、リーヴィが額に手を当ててやや俯いたのを見てから、エオルはそっと手をこちらに差し出した。
「共に行こうか」
「! はいっ」
前回と同じく手を取り合うことが出来て、うきうきでファニーシュは庭園を歩く。供え花の下段に案内すれば、前回同様に感激する彼を尻目に、ファニーシュはそろりとパルフェの部屋に目をやった。
窓が閉じていた。カーテンはしっかりと端まで締め切られており、これなら風が吹いてもパルフェの姿が見えることは無さそうだ。今回は事前にパルフェの部屋を訪れなかったので、少し変化したのかもしれない。
順調に事が運んでいる。満足気にファニーシュが頷いていると、エオルがこちらを振り返った。
「これほど満開の供え花を維持できるなんて、夫人や貴方の妹君は素晴らしい信仰心だね」
「ええ! そうなのよ! 今日はパルフェが体調を崩していて顔をお見せできないけれど……」
言いかけて、止まる。
今のファニーシュはベリーの力で大層魅力的になっている。今、この状態でパルフェと並んでも、勝てるはずだ。
「そうよ! エオル様っ。パルフェと少し会ってみませんか!」
確かめねば。そう意気込むファニーシュに反し、エオルは首を振った。
「遠慮しておこう。無理をさせるのは忍びないよ」
「で、でもっ、元気は元気で……」
「今日は貴方に会いに来たんだ。私はもう少し、貴方との時間を楽しみたい」
同意を求めてか、「ね」と短く彼が熱っぽく見つめて来るものだから、ファニーシュは確認も忘れて何度も何度も頷いた。ベリーの力で惑わされているにしても、それの何が問題だというのだ。彼は今ファニーシュに惚れている、その事実だけで十分ではないか。
「そ、そうですわね! そうよね! わたくしも、今日はエオル様の為にたくさん準備したんです!」
あれもこれも、と些細な事でも思いつく限りのしてきたことを上げて、時には見せた。
すっかりパルフェの事を忘れて茶会を満喫し終えたファニーシュは、公務とその付き添いだとかで帰って行ったディアンヌ家の馬車を、大層ご機嫌な笑顔で見送った。
夕食の準備で使用人らがそれぞれの持ち場へ移動する中、ファニーシュは余ったお菓子をメイドに持たせて、パルフェの部屋を訪れた。
「パルフェ! お菓子が少し余ったの! 一緒に食べましょう!」
夕食前におやつを食べるのはあまり褒められた行為ではなかったが、参加できなかったパルフェに渡すというお題目を掲げている今だけは、みんな目を瞑ってくれる。内側から扉を開けたパルフェに、後ろで待つメイドが押すカートを見せると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「お茶会の、ですか?」
「そうよ!」
「では、少しだけ……」
「そう言うと思って、少しにしてもらったわ!」
胸を張って告げると、パルフェが可笑しそうにクスクスと笑う。元気そうだ。なら、今日休んだのは……。
仮病。その一言が頭に浮かび、首を振る。パルフェはそんな不誠実な人間ではない。ファニーシュが契約している悪魔の力に当てられて、大天使の加護とやらが変な反応をしたに違いない。
部屋に上げてもらい、あら、とファニーシュは目を瞬かせた。
「暗いわ! 灯りを点けて頂戴!」
もう外も薄暗くなりかかっているというのに、パルフェは灯りを一つも点けないでいたようだ。
ファニーシュが呼びかける前にメイドがさっと部屋の明かりをいくつか点けていくのを見ながら、ファニーシュはソファに座った。それから部屋を見渡している間に、パルフェは読みかけだった本を閉じ、数冊の本に紛れさせるように棚に仕舞った。
茶会の間ずっと読書をしていたのだろうか。なんの本を読んでいたのだろう、と口を開きかけたファニーシュを遮るように、パルフェが先んじて切り出した。
「お姉様。今日は、楽しかったですか?」
言いながら、彼女はファニーシュの対面の席に座った。
「ええ! とっても! 何度見てもエオル様は素敵なのよ! これでリーヴィにもあの方の魅力が伝わったわ! あとは、パルフェだけね!」
素直に答える。今ならベリーの力もあるから、エオルがパルフェに目を奪われることも無い! そう思いながら続けようとして、パルフェが深刻そうな面持ちで目を伏せたのでファニーシュは口を噤んだ。クッキーに伸ばしていた手を下ろし、ファニーシュはパルフェの顔を覗き込む。
視線を感じたのか、一度視線を持ち上げ、目が合うと顔事俯いて、パルフェは首を振った。
「いえ……ごめんなさい、お姉様。私、しばらく……いいえ、十五の誕生日まで、エオル様とお会いするのは控えようと思います」
「え、どうして!」
十五の誕生日といえば、神と式を挙げるという日ではないか。一切会う気が無いという意思表示に他ならない発言に驚くと、パルフェは肩からかけたショールを細い指で握り、プラチナブロンドを垂らして続けた。
「ずっと、お伝えしていませんでしたが……私……私、は……十五になれば、神の下へ向かうことが決まっている身なのです」
「知っているわ!」
弾かれたように、パルフェが顔を上げた。その白緑色の目があまりにも鬼気迫るものがあったから、ファニーシュはより動揺して言い訳をした。
「き、聞いたの! ええと、お屋敷で誰かが話していたのを……ちょとだけ!」
大叔父に吐いた嘘と同じ嘘を吐いて、ファニーシュは「それがどうして、会わない理由になるの?」とパルフェに問いかけた。彼女は数秒黙り、また俯いた。
「……お姉様がお話になるエオル様が、とても素敵だから……だから、会いたくないの」
「じゃあ、今日の体調不良は、」
こちらが言い切る前に、パルフェはソファを降り、床に膝をついて折り重ねた指を額に当てるようにして祈りのポーズをとった。否、祈りというより、許しを乞うていた。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい! 本当はどこも、悪くありません! う、嘘を、つきました!」
「パ、パルフェ、大丈夫よ! そんなに怯えないで! ね!」
信仰深いだけに、仮病一つでも深刻そうに懺悔し始めた。ファニーシュはそんなパルフェの隣に周って、彼女の背を撫でる。
「そんなことで誰も怒ったりしないわ! そんな奴がいるなら、わたくしがこらしめてあげるから! ね? 落ち着いて。それに……うんん、よく分からないけど……パルフェが嫌なら、わたくしも無理にとは言えないわ!」
分かった! と大きく頷いて、ファニーシュは「任せて!」と自身の胸を叩いた。
「お母様とお父様には、わたくしからお願いしてあげる!」
「……あり、ありがとう、ございます」
「いいのよ!」
ベリーの力があるから大丈夫なのに、とは思いつつ、泣きじゃくる妹を宥めた。
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