博愛の兵士・『ベリー』

◇ 彼は人も金も、全て愛した。

 処刑まであと数時間と無い。


 そう聞いて、ファニーシュはリーヴィを帰らせて、黙々とスプーンで床をひっかき魔法陣を描いた。


 体が重い。眠たい。頭が回らない、何しているんだっけ──ああ、駄目だ駄目だ、魔法陣を描かなければ、悪魔を呼びつけなければ。処刑なんてしなくても、その内餓死か栄養失調で死ぬ気がするが、構っていられるかとファニーシュは描き続けた。


「多、分……これで……」


 前回と同じように──いや少し違うかもしれない、何せあの時も意識朦朧とした状態で、本当に悪魔が呼べるとは思っておらず随分適当だったから──描き終えた魔法陣に寝転がった。地下牢の廊下に足音が響く。処刑場に連行する為に、人が来ているのかもしれない。


 ファニーシュは焦りながら、カラカラの声を絞り出す。


「来なさい、悪魔……っ! もう一度よ!!」


 足音は近づいてくる。


「早くして!」

「──やあやあ、そこまで揉めるのならば! この悪魔大臣のベリーが名乗りをあげようぞ!」


 ふっと、迫る足音が聞こえなくなった。周囲の色彩は失われ、魔法陣から放たれる仄かな灯りに照らされて、白黒の牢内に鮮明な“赤”が現れる。


 全身真っ赤な衣服で身を纏い、赤毛の馬にまたがった男は兵士のよう。大きいばかりで装飾品が外れたみすぼらしい王冠を被る頭は、インクで塗りつぶしたみたいに複雑な線で潰れて顔立ちの判別はつかなかった。


「ら……ラァムじゃないのね」

「んん? おお! あの若者は、元気さ! して、我では不服かねぇ?」

「いいえ! わたくしの願いを叶えられるなら、誰でもいいわ!」


 ファニーシュの返答に、表情は分からないもののベリーは嬉しそうに「そうかそうか」と顎髭を撫でつけながら頷いた。


「ならば我に望むがいい! さあどうする? 刎ねた首から宝石でも流そうか! 火の粉を大輪の花に変えようか!」

「え? いえ、わたくし別にそういうのは……」

「まあ待て、皆まで言うな! 人はいつでも高い尊厳に値する飾りを身につけなければな! 死に際も華やかに、神すら眩む程の神々しさ! これこそ我が美!」

「わたくしの死に装束のお話をしてたのね!? 違うわよ! そんな目的で呼んでないわ!」


 がはは! と豪快に嗤うベリーに対抗して、ファニーシュは限界ギリギリの喉を酷使しながらも大声で要求する。


「もう一度! わたくしを過去に戻して!」


 エオルがパルフェのものにはならないと分かった以上、殺意を抑え込めさえすれば万事うまくいくはずだ。必死に声を張り上げるファニーシュを馬上から見下ろして、ベリーは笑った。


「よかろう!」


 ベリーの了承の言葉が聞こえるや否や、ぐにゃりと視界が歪んだ。


***


「う……」


 目が覚めて、ファニーシュはカーテンの隙間から差し込む日差しに顔をしかめ、目元をこすった。


 ふかふかのベッドに、清潔な衣服、見慣れた部屋。それらを目視し、どうやら戻ってこれたようだと確信する。それにしても、毎度急に戻るものだ。契約の話もせずに、願いを聞きとげるのはいかがだろうか。


「もう少しこう、『さあ戻るわよ!』みたいな合図で戻れないものかしら?」

「──そう言うな!」

「きゃっ!?」


 隣から爆音と紛う程の大声量が聞こえ、ファニーシュは思わず飛び上がり、耳鳴りでキーンとする片耳を押さえた。それから抗議的に彼を睨みつけた。


「もう! 急に大きな声を出さないで!」

「がはは! これが我の声だ、お前が慣れるといい!」

「もー……はぁ。いいわ、お願いは聞いてくれたみたいだしね!」


 相手の言い分に反論するのをやめてそう返し、さて契約の話を詰めようと思い、彼と向き合った。馬に乗っている分、彼の顔と向き合おうとすると見上げなくてはいけなくてやや首が痛い。


「契約のお話の前に、約束があるの!」

「ふむ! 何かな、愚かな令嬢よ!」

「わたくしに嘘はつかない、と約束して!」


 相手につられて、普段以上に元気いっぱいに声を上げる。ラァムが言っていた、『次の機会』とやらがきたのだから、ここは学んで先んじて約束しておこう。ベリーは「あい分かった!」と豪快に笑いながら頷いた。


「あら、素直ね! 素敵よ!!」


 ラァムのような人を小馬鹿にしたような悪魔だったらまた大変だぞ、と思っていたので、気が合いそうなベリーを褒める。


「貴方のような悪魔なら、きっと悪魔の国も良い所なんでしょうね!」

「ふはは! 悪魔に国などない! 王はいるが、皆、好き勝手に自己ルールを作っては揉めておるわ!」

「え? でも、さっき、悪魔大臣って……」

「あれは嘘だ! 我は悪魔公爵!」


 おっと?


 ファニーシュは「じゃあ……」と先ほどの会話を思い出しながら質問を投げる。


「ラァムが元気だって言ったのは?」

「嘘だ! 完治するまで数百年の大怪我で、しばらく人間と関わり合いにはなるまい!」

「わたくしの願いを叶えられるというのは?」

「それも嘘だ! 名乗り上げた時はまだお前の願いも聞いていないし、叶える気もさらさらない!」


 とんでもない大嘘つきではないか! ファニーシュが「酷い悪魔だわ!」と憤慨すると、ベリーは「悪魔の言葉を真に受けるのは良くないな!」と正論を吐いた。どの口が言っているのだ。


「え、じゃあ、わたくしの死に装束を飾る気だったのは?」

「あれは本当だ! 我の力は人間の尊厳を飾り立てるもの! それからあらゆる金属を黄金に変えること!」

「そ、それでどうやって過去に戻るだなんて願いを叶えたのよ!?」

「叶えてなどいない!」


 ぽかんとして、ファニーシュは自身の袖口を見やり、いやいや、と首を振った。


「戻っているじゃない! 嘘はつかないでって言ったでしょう!」

「嘘はついていない! 我は時を遡る力などない! 勝手に戻ったのだ!」

「えええっ」


 そんなわけがあるか。と非難の声を上げると、扉が忙しなくノックされた。


「お、お嬢様!? いかがされましたか!?」

「なんでもないわ! 元気なだけ!」


 馴染みのメイドの声に返事をして、ファニーシュは裸足のままベッドから降り、扉を開けてメイドと顔を合わせた。


「きょ、今日は早起きでございますね、お嬢様」

「おはよう!! ねえ、今日って何月何日?」

「春の月、十四日です」


 おや、前回よりも前の日に戻っている。顔合わせのお茶会まで少し時間があるな、と思っている間に、メイドに押されてファニーシュはドレッサーの前に移動した。


「お母様は?」

「はい?」

「元気にしているの?」

「はい。今日は……」


 思い出すように、メイドは一度視線を斜め上にやって、鏡越しに視線をこちらに戻して言う。


「パルフェお嬢様が是非ともとお誘いされて、一緒にお祈りをされていましたよ」


 時間が戻れば、ファニーシュがラァムと契約したことも無かったことになり、持っていかれた魂も戻って来るようだ。時間が巻き戻ったその理由は分からないが……母が無事ならもういいか。ほっとして、ファニーシュは勧められるままに椅子に座った。


 鏡にベッドの横に立つベリーが映っていたが、真っ赤な衣服に馬、そしてボロボロの王冠というとにかく目立つ姿の彼がやはり見えていないようで、メイドはファニーシュの髪を梳かし始めた。


「今日はベル教会の皆様との定期交流会ですものね、よほど楽しみにされていたんですね」

「え。……あ、そうね! 今日は皆とお茶とお喋りをする日だわ!」


 言われてから、珍しく忘れていた事を思い出す。毎月十四日は、教会の友達と会う日だ。少し前までファニーシュも教会で彼らと暮らしていたので、家に戻ってからもこうして時々顔を合わせる機会は楽しみにしていた。


「エオル様と結婚してからも、皆と会えるのかしら?」

「勿論ですよ。皆様、ファニーシュお嬢様の奇跡の恩恵にあやかりたく思っておいでですからね」

「良かった!」


 もうパルフェに盗られることは考えなくていいので、安心してファニーシュは笑顔を浮かべた。


 身支度を整え、朝食の準備の様子を見に行ったメイドを見送り、ファニーシュはベリーと向かい合った。


「よしっ! じゃあ、契約の話をしましょう!」

「ほう! それは何故?」


 疑問の意味が分からず首をかしげると、ベリーは顎髭を撫でつけながら、「お前の望みは、過去に戻ること!」と声を張り上げた。


「我の力無くとも既にお前は願いを叶えたではないか! 他に何を望むか、強欲の化身よ!」

「貴方の力を聞いて、思いついたのよ! わたくしを、貴方の力で飾って頂戴! エオル様がパルフェに目を奪われたのはきっと、あの子が大天使の加護を得ているからなのよ!」


 いくらパルフェが可愛くて、実際話してみれば素直で誠実で素晴らしい妹だとしても、一目見ただけで恋に落ちるのはおかしい。エオルは信仰治療の勉強をしているから、大天使の加護に興味を引かれたのだ。


「だから、あの子よりもわたくしの方が素晴らしく尊い人間であれば、エオル様はパルフェに一目惚れをしないはず!」

「ふむ! しかし待たれよ、愚かな令嬢! パルフェは数か月後には神の下へ向かう身。例え惹かれ合おうとも、叶わぬ恋に何故──」

「人のものは盗ってはいけないのよ!」


 既に用意されていた言葉が、脳を介さず口から零れ出た。言ってから、自分の声を聞いて、ファニーシュはその言葉に同意する。そう、人のものは盗ってはいけない。だから、


 あの子が欲しがったら、あの子を罪人にしないためには、あげなくてはいけない。


 他の物なら、服でもアクセサリーでも、美味しいおやつだってあげられるけれど、エオルだけは駄目だ。彼は、ファニーシュが欲しくて、父にねだってようやく手にした大事な人だ。あげられない。


「神父様やシスターだってそう言っていたわ!」

「……なるほど、そういうことか」


 静かにベリーはそう呟いたかと思うと、にた、と嗤った。複雑に引かれた線で塗り潰されてどんな顔かも分からないのに、彼の口の端がつり上がったような気がした。


「神々も意地の悪いことをする! いや、いつものことか! 我々に目を付けた時から、奴らはいつも底意地が悪い!」

「な、何よ! 神様を悪く言ってはいけないのよ!」

「庇うな庇うな、庇うだけ損だ! よかろう! お前の望み、叶えてやろう!」


 よく分からないが、お気に召したらしい。つくづく悪魔に好かれる自身に内心で首を傾げつつ、ファニーシュはハッとして「そうよ! 契約の報酬なんだけれど!」と急いで続けた。


「貴方も穢れた魂とやらが欲しいの?」

「勿論! それは、我々悪魔にとって甘美なるもの!」

「それなら、わたくしの魂では駄目かしら!」


 また母の魂を持っていかれては困る。契約者はファニーシュで、きっと穢れた魂になるはずだから、ファニーシュの魂を持って行って欲しい。そう伝えると、ベリーは「ふむふむ」と考え込むように腕を組んだ。


「無理だ!」

「どうしてよ!」

「現状、お前の魂では報酬として価値が無い! だが、悪魔との契約でその内汚れてくるだろう!」

「じゃあ!」

「ああ! お前の魂が穢れた時、その魂は我がもらい受ける!」

「やった!」


 これで母の魂が持っていかれることはなくなった。思えば、ラァムともこうやって契約を結べばよかった。


 反省と学習をするファニーシュの目の前に、ベリーは羊皮紙を突きつけた。きょとんとして瞬きをすると、彼は言う。


「さあ、契約書に署名を綴れ!」

「署名? どうして?」

「口約束は好かん! 特に女との約束事はな!」

「よく分かんないけど、わたくしの名前を書けばいいのね?」


 約束を確かなものにしたいらしい、と察して、ファニーシュは机からペンを持ってきて、羊皮紙に署名をした。すると契約書は宙を舞い、ファニーシュの胸に飛び込んで来たかと思うと、消えてしまった。


「今のは!?」

「これで確かに我との契約が成された! お前の魂は必ず我がもらい受けよう! さあ! もう一度願いを言え!」

「わたくしを貴方の力で飾って頂戴!」

「無論!」


 ベリーは赤い外套をひらりと脱ぎ、それをファニーシュの肩にかけた。重みを感じたのは一瞬で、瞬きをした次の瞬間には外套はどこにも見当たらなくなっていた。


「あら? 何か変わった?」

「安心されたし! 我の力は既に使用された!」


 鏡を覗き込む。いつものファニーシュだ。いまいち効果が分からない、と文句を垂れると、彼は「人前に出れば分かる!」と大きな声でファニーシュを押し、廊下に出した。


「あら、お嬢様──」


 掃除やら何かの準備やらで行きかっていた使用人らがファニーシュを見つけ──皆が皆、その場に傅いた。


「おはようございます、ファニーシュお嬢様」

「お、おはよう──」

「ああ、なんて麗しい立ち振る舞い」

「愛らしい声……」

「いつにも増して素晴らしいお姿」


 ファニーシュは挨拶の途中で自室に戻った。


「ベリー。ちょっとだけ、効果を落とせる?」

「無理だ!」


 堂々と答えたベリーを、ファニーシュは小突いておいた。


 しかし、これはまたどうしたものか。これでは誰かと顔を合わせる度に、誉めそやされてしまうのではないだろうか。


 そのような心配を抱えていたのだが、朝食の準備が整ったと呼び来たメイドはいつも通りの反応で、ファニーシュは、あれ、と首を傾げた。


「貴方は普段通りなのね!」

「? はい」

「今日のわたくし、いつもより素敵だと思わない?」

「お嬢様はいつでも愛らしいですよ」


 嘘を言っているようでもないし、いつも言われている言葉だ。ちらりとベリーを見やれば、彼はつまらなさそうに赤い馬から足を投げ出した。


「元から満ちた愛を持つ者は変わらん……嗚呼、つまらない!」

「そう! わたくし、愛されているのね!」


 じゃあいいか。ファニーシュはあまり考えない事にして、朝食の場に移動する。廊下で丁度出会った母が、穏やかに微笑みファニーシュに挨拶をする。


「おはようございます、ファニーシュ」

「おはよう、お母様! よかった、元気だわ!」

「ふふ。貴方たちのお母様は毎日元気ですよ」


 普段と変わらない反応だ。母も、ファニーシュへの愛に満ちている。


 居間に入る。執事相手におそらく勉強の予習か何かをしていたリーヴィが、扉が開いた音に反応してこちらを見、変わらない淡泊な表情のまま挨拶をしてきた。


「おはようございます、お姉様」

「おはよう! 食事の前までお勉強をしているのね! 偉いわ!」

「私は貴方と違ってやる事がたくさんあるので」

「そうね!」


 執事に「そろそろ」と言われて、リーヴィは暗記用に作ったという小さな書き取りノートを執事に渡し、席に着いた。彼も普段と変わらない反応だ。義弟もファニーシュへの愛に満ちている。


「……おはようございます、お姉様」


 後ろから声をかけられて振り返る。パルフェだ。淡い色合いのすっきりとしたデザインの部屋着を身に着けた彼女は、ファニーシュの「おはよう!」という声を聞くと、目を細め、薄く口元を緩めた。


「お姉様。今日のお茶会……」

「そうなの! 今日は、教会の皆と会える日なのよ!」


 食い気味に反応したせいか、パルフェは一瞬口ごもり、取り繕うように微笑み「そうですね」と相槌を打った。


「とっても楽しいのよ! パルフェも一緒に行けたらよかったのに」

「え?」

「今日は習い事の先生が来る日でしょう! 忘れていたの? うっかりさんね!」


 パルフェは少し覚えが悪いところがあるから、忘れていたのだろう。後ろに立つ侍女に今日の予定を耳打ちされて、妹は恥ずかしそうに頬を少し赤くした。


「あ、あら……? そうだった?」

「パルフェも忙しいものね! わたくしも早く、パルフェのお勉強に追いつきたいわ!」


 早い段階から教育に力を入れて貰っているパルフェやリーヴィを羨ましく思いながらそう言って、ファニーシュはちらりとパルフェの様子を窺ってみた。


 白緑色の目と目が合う。予定の忘れを指摘された恥ずかしさを引きずっているらしく、まだ顔が少し赤い彼女は照れ笑いを浮かべた。パルフェが時々浮かべる笑み。普段と変わらない反応だ。パルフェもファニーシュへの愛に満ちている。


「おっと、もう皆揃っていたのか。悪かったね」


 最後にやって来た父に元気いっぱいに挨拶をすると、父は歳の割に少し老けて見える顔をほころばせた。


「おはよう。ファニーシュは今日も元気だね」

「はいっ」

「ああ、今日も安心して過ごせそうだ」


 目尻をくしゃりとさせる笑い方はいつも通りで、父もファニーシュへの愛に満ちている。


 家族の愛を確かめて、ファニーシュは満足げに席に着いた。

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