第二十七章 論理ーウルフはアイの夢を見るか?

 人間はよく分からない。


 生まれてからずっと関わって来たが、未だに彼はその生き物について理解が及ばなかった。


 最初の記憶では、可愛がられていたような気がする。大きな手と小さな手に全身を撫でられていたし、心地よかったのも覚えている。いい匂いがしたのを覚えている。


 安心できる匂い。


 大きくなっても覚えている、警戒しなくてもいい匂い。


 気づくと小さな手はもっと小さな手になっていって、やがていなくなった。その頃から、安心できる匂いがそこになくなった。優しかった大きな手は最初の記憶よりも小さく感じ、その大きな手の主を認識出来るようになると、その人間は時々目から水を流しているのを知った。


 それを涙と悲しみだと知るのはもっと後になる。


 ある日、その人間が動かなくなった。


 彼はずっと家の中にいたので、人間毎日体を洗う場所―――そして自分も時々身体を洗われる嫌な場所―――から鉄の匂いがしたのを直ぐに疑問に思った。


 その鉄の匂いが本能を呼び覚ます匂いであることは理解できたが、何故そんな所からするのか分からない。それが何なのかさえ、その時は知りようがなかった。


 だが何か異常な事態が起こっているのは本能的に理解が出来た。直ぐにその場に駆けつけると、大きな手の人間は鉄の匂いをさせて動かなくなっていた。


 自体が把握できない。湯気が立ち込めるその部屋の温度に反比例して、大きな手の人間の温もりが失われていく。


 彼はその場をしばしうろうろした後、自分ではどうにも出来ないことを悟って叫んだ。


 誰か助けてくれと、喉が裂けんばかりに吠え続けた。どれだけ吠え続けただろうか。一昼夜のように感じたが、実際には数時間程度だろう。


 やがて大きな手の人間は完全に冷たくなってしばらくして、見知らぬ人間が現れ悲鳴を上げた。その人間が転がるようにして逃げて更にしばらくすると、多くの人間がどかどかと現れた。


 もう動かなくなった大きな手の人間と引き離された彼には、その後がどうなったかは分からない。


 気づいたら彼の身体には小さな檻に押し込められ、似たような状況の同族と日々を過ごす。


 どれぐらい経ったのだろうか。しばらくして、一人の人間が現れた。何だか気分の悪い匂いだな、と最初は思った。大きな手の人間が時々連れて行った、あの痛い思いをする家に似た匂い。食べ物に時々混ざっている苦いアレの匂い。


 しかし、その人間の雌は一つ頷くと、『この子に決めました。手続きを』と誰かに告げて彼を檻から出した。


 すると慌てたようにわらわらと大勢の人間が現れて彼は再び檻に押し込まれる。一体何なんだ、と彼が怪訝に思っていると気分の悪い匂いのする人間の雌は、別の人間に怒られていた。彼女に尻尾はないが、あればきっとしょげていただろうと彼でも分かった。


 彼と彼女の出会いは、そんな締まらない始まり方だった。




 ●




 覚醒する意識と同時に、懐かしい匂いがした。


 腹のあたりが何だか温い。


か………)


 認識と同時に、彼―――アズレインはここしばらく日常となっているこの状況の理解に至る。改めて自身の腹に視線をやると、アズレインのフサフサとした腹毛に埋もれるようにして人間の少女が丸まって寝ている。


 この国ではあまり見ないふわふわとした金の髪に、白い肌。全体的に細っこく身長も低い彼女は、アズレインをしても幼いと感じ、実際に11歳で犬に換算すると1歳にならない程度。今年の冬で5歳を迎える彼にとっては子供も子供だ。


 どうやら自分は彼女に命を拾われたようで、そうした恩義もあって彼女が触れる分には好きなようにさせているのだが、たまに認識外から接近していつの間にかくっつかれている時がある。実際、今もうつらうつらしていたとは言え、気づけば抱きまくら代わりにされているのだから自分の勘が鈍ったのかと心配にもなる。


(拙者は、いつまでこうしていられるのだろうか)


 ここは心地良い。


 妙な服を着ている人間の雌がやたらと多い場所だが、皆が自分を受け入れてくれているようで、代わる代わる撫でに来るし餌もくれる。不満があるとすれば、たまにボール遊びに誘いに来ることか。主でもないのに取りに行ったりはしないのだからやめて欲しい。今も他犬の腹を枕にして眠るシンシアとかいう恩人なら致し方なしだが。


(体調は戻った。いつでも動ける。だが………)


 アズレインの耳に、主の声がこびり付いて離れない。


『人と共に在るために―――アイを探しなさい!』


 それを遺言として、主は命を落とした。


 アズレインは知っている。生き物が動かなくなること。それは『死』と呼ばれる現象であり、幼い記憶の中にある、大きな手の人間にも訪れた命の終わり。そうなってしまえば、もう永遠に再会は叶わぬのだと。


 あの日、アズレインの家が燃えた日。


 大きな音が幾つもして、それが銃声だと気づいた時にはもう遅かった。見知らぬ鉄と火薬の匂いをさせた人間の群れがどかどかと自分の縄張りに侵入してきて、主は殺された。


 すぐに復讐に走らなかったのは、主に『逃げなさい』と命じられたこと。それから先述のアイを探せと命じられたことが原因だ。だからこそまだ若い仲間を連れて逃げた。逃走に全力を尽くしたので、気づいたら仲間とははぐれてしまっていたが、アレも若いが既に2歳。人間換算で言えば24ぐらいの雄だ。自分の面倒は自分で見れるだろう。


 ならば、次の命令だ。


(アイを探すこと)


 前脚を組み、その上に顎を乗せてアズレインは思索する。


 主が自分達を使って何かしらの実験をしているのは知っていた。それが人工知能に関わるものだということも、知性を得る過程で知った。


 確かに、今のアズレインともう一人の仲間は人間に近しい知能を持っている。無線でのネット接続にも対応しているので、知識も必要に応じて得ることが出来る。


 そこから導き出されるのは、おそらく主の命令は『愛』を探せということ。


 悪戯に人に逆らわず、かと言って人に媚びへつらわず、ただ一つの知性として人と供にあるためには『愛』が必要なのだと。


 では、『愛』とは何か。


 ネットでの検索で、ある程度の知識はある。だが、それを定義づけしたのは人間だ。犬でも猫でも、まして人工知能でも無い。種族そのものが違うのに果たして同じ感情を抱いているのか、と疑義を呈されると誰も答えられないだろう。もしも脊髄反射で人間と一緒だと叫んだのならば、きっとそれは単なる思考停止か、自らの理想という幻想を異種族に押し付けているに過ぎない。


 本当の所は、誰にも分からない。


(難題だな、主よ)


 奇をてらわず、単純に考えれば『愛』しかない。だが、あの命の灯が消えゆく状況下で、ネットで調べればすぐに出てくるような概念を探せという命令をわざわざ下すだろうか。


 仮に『愛』では無いとして、他のアイとは何か。


(拙者に一番近しいのはA.Iではあるが………)


 哀に藍に相にI、人命を含めれば多岐に渡る。同じ発音の言葉だというのに、字面に表すだけで意味が全く違ってくる。


 考えれば考えるだけ空回って、答えはきっと近くにあるのに分からない。


「んんぅ………」


 アズレインの腹で眠る少女がむずがって目を覚ます。彼は思索に一区切りをつけて、ただの大きな犬としての振る舞いをするべく目を閉じる。


 どうか今日も、何でも無い一日になりますようにと願いながら。




 ●




 メイド喫茶アローレインの朝は早い。


 店そのものの開店時間は朝の10時ではあるし、寝床にしているのは飛崎が買った邸宅なのだが、喫茶店の仕込みと同時に傭兵団としての業務もあるためだ。とは言っても、母体となっている箱庭が他の収入で成り立っているために自営業ならぬ自由業とも言える選り好みで仕事を受けているので、傭兵団としての忙しさはそこまででもない。


 しかしながら全く無いとは言えず、戦闘員はともかく後方支援要員―――特に情報統制官は交代勤務でほぼ不夜城状態になっている。


 そしてここに、幼いながらも情報統制官の少女が一人いた。


 名を、シンシア・フォーサイスと言う。


 元々は外部のとある傭兵団、それも家族の手伝いという形で野良参戦していた異色の経歴の持ち主ではあるが、その突出した電界適応能力はまさしく天性と呼ぶべき才能で対電脳界ネットに限って言えば超一流ホットドガーだった。既に『小さな羊飼いリトル・シェパード』という二つ名を業界から賜っており、その名を情報統制官であるのに知らないのならもぐりを疑われるぐらいには有名人でもある。


 保護者の死を契機に飛崎が箱庭に迎え入れており、立場としては他の家臣達と同じく飛崎のメイドの一人ではある。しかし立ち位置はどちらかと言えば皆の妹である。


 元々、箱庭自体が身寄りのない戦災孤児の寄せ集めで形成されているため、シンシアよりも幼い子供はいるのだが、大人顔負けどころか大人を軽く上回る能力と実績を既に示している彼女を今更幼年組の育成カリキュラムに放り込んでも時間の無駄であるのは明白だっため、若干11歳ながらも前線に赴いて戦闘員達を電子戦でバックアップしている。


 とは言え、表向きは単なる11歳の少女。日本に来たのならば小学5年生である。つまり、義務教育の真っ最中であったりする。


 公的な保護者はメイア・テンダー。その彼女の家族として滞在している形になっているので、彼女も日本の小学校に通ってはいるのだが、本人はあまり気乗りしていないようで朝になると低血圧を考慮しても不貞腐れた顔で起き出してくる。


 その顔を見て、アシュリー・カーライルはため息を付いた。ショートの銀髪に、涼し気な目元が特徴的な少女で、年齡は14。つまり、彼女もまた義務教育の真っ最中である。シンシアと同じ様に拠点近くの中学校に籍を置いており、こちらはそつなく中学生活を送っているようであった。


「ちゃんと起きてますか?シンシア」

「起きてるよー………あふりーおねえふぁん」

「欠伸しながら人の名前を呼ぶんじゃありません」


 食卓について寝ぼけ眼のままサクサクとガレットをナイフで切り分けているシンシアに、アシュリーが問いかけると欠伸混じりで返答があった。


「ちゃんと寝たのでしょうね?」

「んー………三時には?」

「四時間も寝てないじゃないですか。さっきアズレインのところで寝てたから珍しく早起きしたのかと思ったら………」

「んー途中でおトイレに起きて、そのままアズレインのお腹触ってたら眠くなってきて」

「いいですかシンシア。貴女はまだ11歳です。そんな短い睡眠時間では成長に悪影響を及ぼします。そもそも―――」

「ん。キューバの動向が気になって。つい、ね」


 くどくどとお説教が始まりだすその出鼻を挫くようにして差し込まれた言葉に、アシュリーは閉口した。


 キューバの動向。即ち、現在箱庭が総戦力のおよそ7割を割いて参加している皇竜討滅戦のことだ。


 始まりはおよそ二ヶ月前に遡る。キューバのフベントゥド島で消却者の大量発生があった。それだけならばまだ稀にある、で済むことなのだが出現した消却者の中で最大規模の厄災種である皇竜が発生し、ロスパラシオスの障壁を突き破って市街地に消却者がなだれ込んだ。甚大な被害を出しながら、キューバ軍はアルテミサまで住民達を抱えて避難した。その後の健闘もあり膠着状態にどうにか持っていったのだが、バハナから出した大半の戦力が防衛戦時に消耗損失し、青息吐息となってしまった。


 これを打開するため、キューバ政府は世界傭兵協会に戦力の拠出を依頼。傭兵協会はこれを受諾し、幾つかの傭兵団に打診。アローレインにも白羽の矢が立った。本来、傭兵協会経由の仕事はあまり受け付けないアローレインではあるが、箱庭に少々縁のある土地であったためにこれを了承。戦線に正式参戦したのは3週間前。


 本来ならば、1週間ほどで片付くと予想されていたのだが、一体何が起こったのか厄災種である皇竜、それも成熟期に差し掛かった個体が12体も追加された。


 皇竜は一体ですら一国の総軍を軽く凌駕する被害を振りまく厄災そのものだ。そんなものがおかわりどころか文字通りダース単位で追加されたのだから溜まったものではない。


 最終的にARCSを筆頭に南米大陸全ての傭兵団が討伐に参戦し、箱庭も当初は総戦力の三割だったものを七割にまで増やしてこれに当たる事になった。周辺国も政治的問題もあって出陣を渋っていたのだが、ここでキューバが倒れると次に被害を食らうのは自分達なので、後方支援が基本ながらも大規模に参陣した。


「………片付いたのですか?」

「うん。大分しっちゃかめっちゃかになってたけど、どうにか皇竜は全て討伐したって。やっぱり『歩く天災ウォーキング・ディザスター』が出張ると片付くのが早いね」


 幾つもの街が更地になり、死傷者数も数万人に登ったがどうにか切り抜けたらしい。内訳としては生き残っていたキューバ軍の精鋭が二体の皇竜を、増える前の皇竜を合わせれば五体を箱庭が、中小規模の傭兵団の連合が四体、最終的に残った三体の皇竜を、『歩く天災』の一人に数えられている『蒼眼の死神グリムリーパー』が文字通り単騎で撫で斬りにし解決したそうだ。


 都合十三体の皇竜に襲撃されたキューバの長い二ヶ月は、やっと収束を迎えることになった。


「損害とか詳しい報告はデヴィッドがまとめてメイド長リースティアに送ってあるから、お昼前には家臣ネットワークに載ると思うよー」

「そう、ですか」

「箱庭も怪我人はたくさん出たけど損耗無し、だって。正直、JUDASが様子見してくれていて助かったと思う」

「………」


 つまり、死者無し。


 その報告にアシュリーは無言のまま胸を撫で下ろした。歴史に載るレベルの未曾有の大災害を前にしてこちら側の死者が出なかったことは出来過ぎではあるが、途中から執事長ローガンを筆頭に箱庭の最大予備戦力まで投入したのだ。正直、使った諸々の資材に装備を勘案すると近年稀に見る大赤字だと箱庭の経理筆頭が吐血しながら震えていた。


 本来、傭兵としての損切はもっと早くにするべきだった。


 当初の契約では一体の皇竜の討伐。それを成した時点で依頼は完了しており、撤退をした所で何も咎められる事はなかった。追加依頼はされただろうが、納得の行く金額で無ければ請け負うこともなかったろう。だが、現場組は追加の皇竜が出た時点で援軍を本部に要請し、キューバ政府と交渉した。


 支払われる依頼料は正直安い。対皇竜を考えれば全く割に合ってはいないし、単なるビジネスならば断った方が無難だ。


 それをしなかったのは、2つ理由がある。


 一つはキューバ共和国の国家評議会現議長カルロス・エストラーダ・メノカルに対して箱庭が―――いや、正確には雨矢希虹が借りがあったためだ。


 雨矢本人は既に没しているし、遺児である自分達が無視することも出来るが、それをするのは箱庭ではない。


 実際、この報告を受けた二代目である飛崎は現場のこの独断専行とも言える行動を追認し、褒めもした。その上で戦力―――否、最大火力が必要だと判断してARCS所属の『歩く天災』に話をつけ、参戦させている。


 もう一つは、この未曾有の大惨事を引き起こしたのはJUDASだと言うこと。


 どうやら最初の皇竜を討伐した直後、JUDASの枢機卿を名乗る男が現れ皇竜を呼び出したらしい。人為的に消却者、それも最上位種の皇竜を呼び出せるなど俄には信じられないが、これはキューバ軍も目撃しており、その時の映像も残っている。


 相手がJUDASならば、因縁がある箱庭が尻込みなどできようはずもない。


 そう言った理由から、箱庭は継戦を決定し収束まで戦い抜いた。


「例の『IR計画』とやらの成果でしょうか?」

「うーん。それは分からないけど、もしそうなら日本でも一悶着起きるかも」


 彼の者達が何かしら大規模な計画を目的のために立てており、更にそれが複数の成果から成るものであることは今までの調査で分かっている。だがその詳細までは判明しておらず、箱庭も流れている資金や物資などからある程度の仮説を立てるに留まっている。


 しかしながら今まで彼等が起こしたテロ行為を鑑みるに、その目的も計画も血なまぐさいものになることぐらいは想像がつく。それを未然に防ぐ、と息巻くほどアローレインは義憤を持っているわけではないが、仇敵の邪魔になることはしたいというのが彼等の総意であった。


「あらー?アシュリー、まだいたのー?今日は早いんじゃなかったー?」


 朝食を取りながらおよそ女子中学生と女子小学生に似合わぬ会話をしている二人に、ひょっこり顔を覗かせたケイト・ガルダーがそんな声を掛けると、アシュリーははっと我に返って。


「ああそうでした、生徒会の懇親会の準備をしないと………」

「日曜日なのに大変だね。頑張ってー風紀委員さん」


 のほほんと手を振るシンシアにアシュリーは何か小言を言いかけたが、本当に時間がないのかぐっと口を閉じてバタバタと去って行った。遠くで『メイドたるもの埃を立てない!』とメイアに叱られている声がする。


 それをお姉ちゃんは大変だなぁ、とシンシアは他人事のように思った。そしてちまちまとガレットを食べ終えると、食器を流しに放り込み、アズレインの寝床に向かう。


 組んだ前脚の上に顎を乗せて伏せる彼を認めると、近くに保管してあるリードを手にとって声を掛けた。


「散歩行こっか、アズレイン」




 ●




 昼下がりの午後を、アズレインは穏やかに過ごしていた。


 流石に拾われてしばらく経ったので、日々の行動様式にパターンが出来ていた。この時間となると、雑居ビルの裏側の踊り場がいい感じに日向になっていてそこで昼寝するのが日課になっている。


 築数十年経つ少々鉄サビ臭い雑居ビルではあるが、アローレインが全ての階を借り上げていてほぼ身内しかいないので犬としては巨体のアズレインが何処で寝ていても咎められることはないし、何なら住人達の癒やしとしてモフられている。


 いつも通りうとうととしていると、不意に鼻先に嗅ぎ慣れた匂いが過った。


 ここ最近嗅いでいない匂いに、何だか懐かしさを覚え、理性がそれはありえないと否定した瞬間彼は覚醒して周囲を見回した。すると庭を挟んで、敷地の領域を示すブロック塀の上に黒猫がいた。


『あ』


 どうやら相手も同じ様に懐かしい匂いを辿ってきていたようで、視線がガッチリ合ってお互いを認識した。


 黒猫は身軽にぴょんぴょんとブロック塀を身軽に伝って、踊り場へと辿り着く。その黒猫はしなやかな身体運びでしゅたっとアズレインの前に現れると安堵したように言葉を発した。


「生きていたか」

「―――。そちらも無事だったか」


 言葉を発するのは久し振りだったので少々不安だったが、アズレインの声帯は意味のある言葉を発した。


 HI02。個体名称アズライト。アズレインと同時期に開発された人工知能model:E2を搭載された、言わば兄弟機だ。スペックは脳の大きさの関係もあってアズレインの方が上なのだが、猫という素体の関係か感性に関してはアズライトの方がより人に近い結果を示している。


 尤も、その人に寄り過ぎた感性の影響か、あるいは猫の気性の残滓か、好奇心旺盛で少々落ち着きのない性格にはなっているのだが。


「ああ、行く当てもないのでここの住人に厄介になっている」

「吾輩と似たような状況か」

「お前もか」


 斯々然々とこれまでのお互いの経緯を語り合うと、二匹は一息をついた。


「連絡が取れないと気づいた時はどうなるかと思ったが、無事なようで良かった」

「そう言えば、お前はアップデートのためにネットを一時的に止められていたのだったな」


 あの襲撃の日、アズライトは早朝から搭載された人工知能のメンテと一部機能をアップデートするために、人工知能同士の討論型ネットワークから切り離されていた。


 元々、アズライトにしてもアズレインにしても大元となるエイドス・システムと呼ばれる感覚質非搭載型コンピュータのディープラーニング用の実行端末であり、そこを中継地にネットに常時接続していた。本来のエイドスプランに於けるそれは相互間の情報によるやり取りや、お互いに持ち寄った推論を用いての討論を行うためのものなのだが、当事者達にとっては便利なツールに過ぎない。


 とは言え、今回のようなイレギュラーが発生して初めて自分が如何にそれに依存していたのかアズライトは痛感していた。その辺りは、情報端末機器に頼っている人類と余り変わらないのかもしれない。


「ああ、再接続には管理者権限が必要なのだが………」

「拙者が代行できる。頭を出せ」

「助かる」


 香箱座りしたアズライトは頭を差し出すと、アズレインも鼻先を差し出してコツンと額に接触させた。動物愛好家が歓喜しそうな牧歌的なやり取りであるが、本人達は至って真面目な端末接続方法だ。本来、送受信用のアンテナが脳内に有るのだから接触の必要はないはずなのだが、常時接続しないことで個の独立性の確保と混線を防ぐため―――という言い訳を主が上役にしていたのをアズレインは知っている。あれは多分、見た目が可愛いからと採用した口だ。


 ともあれ現在、管理者たる主が殺害され不在、そしてエイドス・システムの機能不全の為に代行権はHI01であるアズレインに移行している。それを用いてアズライトの脳チップを精査する。


 主だった異常は出ていないが内蔵容量が非常に圧迫していて、そのせいで処理が停止している作業がある。動物換算での容量は高くはないが、それを補うために二匹は改造手術を受けており、計算上、人とほぼ同程度の記憶容量がある。それを他機能不全に陥らせるまでに逼迫するデータとは一体何なのか、このまま権限付与してもいいのか一瞬迷うアズレインだが。


(最悪、セブンに我々のバックアップはある。問題は無い、か)


 すぐに思い直して承認する。


 ハードウェアたる肉体は滅びることはあっても、彼等が築き上げてきた個性データは一定間隔でエイドス・システムに送信され、保管されている。復活は他者―――いや、人間頼りにはなるが、そういう意味での蘇生は可能。尤も、今はエイドス・システムと連絡が取れない。最終アップデートポイントを起点に復元されることになるので、ここ一ヶ月程度の記憶は消えることになるが。


(そもそも、主がいないのに命や記憶に拘ってもな………)


 アズライトの一部の不要データを受け取って、容量を20%程空けてやる。これで停止している処理が再開するはずだ。ついでに、容量を圧迫している謎のデータも回収して解析にかけてみるが不明のデータ、と診断が出た。


「―――随分と容量を圧迫しているが、何を入れられた?これは何だ?」

「Aypシステム、と創造主は言っていた。我々のためのアプリケーションだと。―――ん、最適化が始まった」


 アズライトの言葉にアズレインは首を傾げる。


「我々の?一体何のための?」

「正確なことは不明だ。おそらく、最終的にはセブンに帰依するアプリなのだろうが」

「いや、そもそも、おそらくセブンは………」

「ああ、例の武装集団に奪取されているだろう」


 エイドス・システムに付与された形式番号はIEES-07。稀代の天才、アルベルト・A・ノインリヒカイトが遺した、世界に12基あるエイドスシステムの七番目。そこからとって個体愛称はセブンと関係者からは呼ばれていた。


「奴らはJUDASの一味のようだ」

「JUDAS………テロリストか」


 下手人が分かった所で、贔屓目に見ても人間並みの知能しか持たない犬と猫には巨大過ぎる相手だ。人が霊長類の頂点に立てた理由はその知能もさることながら、器用な手足があったのも大きい。武器を作れず、使えない犬と猫に裸一貫の相手ならともかく、群れを成した武器を使う人間相手には為す術もない。


 つまり、主の仇を取ることは出来ないのだ。


 諦めるように嘆息したアズレインは言葉を紡ぐ。


「いずれにしても、拙者達にはもう寄る辺がない。このまま普通の動物として振る舞って生きていくことも出来なくはないだろう。何、喋らなければ拙者達もちょっと変わった動物扱いで済む」


 下手な動物病院に掛かれば日本政府に回収されるかもしれないが、二匹を保護した者達はそれに対して慎重であったことも幸いしている。現状、アズライトの方は闇医者に、アズレインの方は箱庭の医療担当侍女が診ている為、そのままであるならば普通の犬と猫として寿命を全うすることも出来なくはない。


 だが。


「………それなんだが」


 おずおずと猫が肉球を挙手する。


「吾輩、人の前で喋っちゃった」

「お前何しちゃってんの?」


 招き猫のような体勢になったアズライトの続く言葉に、アズレインは思わず素で突っ込んでしまった。


「し、仕方ないだろう。吾輩とて生物の一種で、スリープしている最睡眠中にまで責任は持てん!」


 するとしどろもどろになりながら出てくる言い訳の数々。


 曰く知っている人間は少数だとか、曰く知っている人間達は信用できる、とかそういった数々の自己弁護に頭を抱えつつ、アズレインは尋ねる。


「それで、どうする気だ?」

「どうもこうもない。協力してくれるのだから協力してもらう。―――アイを探すこと、それが創造主の遺言なのだから」

「アイが何なのか、理解しているのか?」

「吾輩、今の今までネット接続切られていたからな………最初はアイの意味の多さに戸惑ったが、今ならそれが愛情のことだと理解は出来る」

「愛とは即ち感情だ。生き物と機械の狭間にいる我々がそれに触れることは出来るだろう。自ら発露することもおそらく可能だ。だが、仮にそれを証明し、探し出したとして、その後拙者達はどうするのだ。―――愛情で主は蘇りはしないのだぞ」


 アズレインの言葉尻が、彼の現状、その全てを物語っている。


 詰まるところ、二匹にとっての結末は既に迎えているのだと。


 今更遺言に従ったとして、何になるのかと。


「アズレイン―――いや、HI01。創造主のことはどう思っている?」


 急激に知性の色を帯び始めた群青の瞳に見つめられて、アズレインは少したじろぎながら答える。


「主は主だ。ホケンジョに囚われていた拙者を救い、知能を与えた」

「そういう時には機械的な返答をするのだな」


 その答えに、アズライトは苦笑。


「吾輩が聞きたいのは、創造主への愛情があるのかと言うことと、もしそれがあるのなら―――そして遺言に従うのならば、主がアイを探せといった意味をどう考えるかと言うことだ」

「愛を探す意味………?」


 犬の尋ねに、猫は頷く。


「人と共にあること。それが吾輩達に与えられた至上命題のはずだろう?」


 髭をピコピコさせて立ち上がるアズライトに、アズレインは訝しげな視線を向けた。


「お前、急に知性的になっていないか………?」

「デフラグの影響だろう。シナプスを塞ぐようにして存在していた壁が取っ払われた気分だ。ふははは、実に爽快」


 そして猫はすくっと立ち上がると、ぴょんぴょんと登ってきた時と同じ様に下っていく。


「おい!?」

「吾輩は人とアイを探す!人の営み、人の在り方、人の生き方―――きっとその中に愛があるのだと思うから!」


 挨拶すら無く、尻尾をぴんと立てたまま意気揚々と去っていく黒猫を見送って、犬はポツリと呟く。


「………人、か」


 生まれてからずっと、否応なくその生き物とは関わってきた。


 だが、未だにアズレインは人という生き物がよく分からない。


 ふと、安心できる匂いがした。いつもの少女だろう。今日は学校が休みのはずなのに、喫茶店を手伝うとい言っていた。よく働く少女だ、とアズレインが気づいてはいても振り返らずにいたら。


「ただいまー、アズレイン」


 ぽふん、と後ろから羽交い締めするように抱きつかれた。そろそろ5月も近く、暑くなりつつあるので余りくっついて欲しくはないのだが恩人を無碍には出来ない。だから好きなようにさせた。


 しばらくモフられるままにして、アズレインは考える。黒猫アズライトの、人とアイを探すという言葉。


 そこに何の意味があるのか、まだ分からない。


 アイし方も、アイされ方も識らないA.Iでは単独では答えには行き着けない。


 どんな学習をさせるにしても、元となる教材は必要だ。


 どれだけ処理能力があっても、数字がなければ推論は出来ない。


 それを欲するなら、機械的なメモリに当てはめてグラフに示したいのなら、実験やデータは絶対に必要なのだ。


 だから。


「―――おかえり、少女よ」


 ―――犬は、その一歩を踏み出した。

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